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Monday, July 13

蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像 マクシム・デュ・カン論』(講談社文芸文庫)の上巻を読み終えたので、そのまま下巻に向かおうとするものの読みはじめたらどっと疲れそうな本だから、しばし小休止と思ってもっとお手軽なものを。『フィガロジャパン』8月号(CCCメディアハウス)。特集は、北欧。デンマーク、スウェーデン、フィンランドを取りあげている。ノルウェーはどうした。

Tuesday, July 14

どういう体裁の書物なのかを把握せず、『UP』5月号(東京大学出版会)掲載の著者自身による紹介文を確認しただけで会社近くの図書館に予約した西本晃二『ルネッサンス史』(東京大学出版会)は、640ページもある二段組の大著で、もって帰るのが難儀な代物なので昼休みの食後の時間に読んでいる。返却日までに読み終えらるか心配。

会社からの帰り道、風が強く吹いている。西日本方面に台風接近中。

堀江敏幸『仰向けの言葉』(平凡社)を読む。ギャラリー小柳での鈴木理策の個展で、受付に置かれたリーフレットに堀江敏幸が文章を寄せているのを見つけたとき、相変わらず細かい仕事をしているなあと思ったのだが、こうした細々としたエッセイも「著者初の芸術論集」として単行本にきちんと収まっているところをみると、あるいは平凡社の隔月発行の冊子『こころ』に掲載した文章をそのまま「あとがきに代えて」として流用し、それも見事にあとがきとして成立しているのを目にすると、『時計まわりで迂回すること』なる書名の本を上梓しているこの書き手は、「迂回」という言葉がよく似合う文章を紡ぐ人ではあるけれど、少なくとも形式的な側面をいえば、堀江敏幸の仕事には無駄がない。

Wednesday, July 15

樋口陽一が2002年に上梓した著書『憲法 近代知の復権へ』(東京大学出版会)を刊行当時に読んだとき、そのタイトル「近代知の復権へ」という言葉の響きは、近代のもつ否定的な呪縛からいかにして自由になるかを思考する論考に慣れていると、樋口陽一の知的膂力に感服しつつもどこか旧態依然とした感があって、本書で論じられていることに強く共鳴しながらも、それでもなお、とどうしても言いたくなるのだが、しかし、想像を超える低俗なレベルで国家権力の中枢によって「近代知」が蹂躙される事態となった現況では、戦略的にであれ「近代知の復権」を言わないわけにはいかない。

夜、ブルース・チャトウィン『ウイダーの副王』(旦敬介/訳、みすず書房)を読了。

Thursday, July 16

国家事業での揉め事の対象がよりによって五輪をめぐってというのが、なんとも。

有給休暇を取得して、病院で胃の内視鏡検査を受ける。右腕は血圧測定、左手は鎮痛剤注射、口のなかは麻酔。検査の結果、食道・胃・腸はひどい事態にはなっておらず、びらん性胃炎が見られるのと、胃におそらく良性と思われるポリープがひとつあった。ポリープはその場で切除。ピロリ菌の有無などの検査結果を聞くためにまた来週病院へ。

Friday, July 17

石田勇治『ヒトラーとナチ・ドイツ』(講談社現代新書)を読む。

保守陣営・市民層が期待していたマルクス主義の撲滅は断行された。しかし同時に、それまで憲法で保障されていた、国民が自由に安心して暮らすための最低限の基本的権利、すなわち人身の自由、住居の不可侵、信書の秘密、意見表明の自由、集会の自由、結社の自由などの権利も損なわれてしまった。これに国民が抗議の声を上げなかったことが、独裁体制へ道を拓くことにつながった。
なぜその途中の過程で、人びとは反発しなかったのだろうか。
そのひとつの答えは、国民の大半がヒトラーの息をのむ政権弾圧に当惑しながらも、「非常時に多少の自由が制限されるのはやむを得ない」とあきらめ、事態を容認するか、それから目をそらしたからである。とりあえず様子見を決め込んだ者も、大勢いた。実際、当局に拘束された者は多いとはいえ、国民全体から見ればごく少数に過ぎなかったのだ。
「議事堂炎上令は一時のもので、過激な共産主義者が一掃されればすぐ廃止されるだろう」「基本権が停止されたといっても、共産主義や社会民主主義のような危険思想に染らなければ弾圧されることはない」「いっそヒトラーを支持して体制側につけば楽だし安泰だ」。そんな甘い観測と安易な思い込みが、これまでヒトラーとナチ党から距離をおいてきた人びとの態度を変えていった。
(pp.167-168)

日本の現在の状況が戦前と同じだとは思わないし、幸か不幸か戦争は起こらない、少なくとも先進諸国間における戦争が発生するとは考えにくいのだけれど、「戦争」の定義を拡張ないしは変容させれば悲惨な事態になる可能性は一緒であって、上に引用した歴史の経緯はいつだって気に留めておくべき事柄かもしれない。

Saturday, July 18

新宿伊勢丹のメンズ館でセール対象商品を物色し、6階のTOMORROWLANDでサマージャケットを購入。私の買いものはいつも即決なので、伊勢丹に入店してから購入に至るまで、10分ほどで終了。

昼前、初台の定食吉川 [1]を訪れたものの、看板が出ていない。定食菊池は土日はやらないとのこと。定食岩田の訪問は諦めてオペラシティに向かい、Le Pain Quotidienで昼食をとる。クロックムッシュ、ミニサラダ、ローストポテト、オレンジジュース。

東京オペラシティアートギャラリーで「鈴木理策写真展 意識の流れ」を鑑賞する。ずいぶん前に、鈴木理策が自身の撮影方法について語っているのを読んだら、シャッターを押すときにレンズを見ないときすらあると述べていた。撮影者のコントロールを離れ、カメラという装置に「決定的瞬間」を委ねてしまうという姿勢。展覧会場に入ると、「カメラとは身体の外に知覚を成立させる驚くべき装置」という写真家の言葉が壁面に記されているが、興味ぶかいのは、まるで鈴木理策から独立したカメラという装置それ自体が撮影したかのようなスタンスでありながらも、見る者は鈴木理策の作品だと認識し、鈴木理策という写真家の作家性が滲み出ていると考えることである。なにより、展示されている写真の数々は、偶発性はどこにも存在せず、これ以外は考えられないと鑑賞者側に思わせる素晴らしさを湛えている。偶発性であるはずのものが、必然性をおびる。よくある逆説のようにも響くが、鈴木理策の写真は、偶発性に開き直るわけでもなく、必然性を誇るわけでもない。絶妙なバランスで強度を保つ。おそらくは鈴木理策の撮影手腕からすれば、有無をいわせない「完璧な」作品を撮るのは簡単なことなのかもしれない。最後の最後で撮影者のコントロールから写真を解放してしまうというのは、写真家の見事な発明だった。

帰りにNADiffで重たい図録を購入。

夕方、fuzkueへ。珈琲と定食を注文し、リチャード・ハウス『クロニクル 2 砂漠の陰謀』(濱野大道/訳、早川書房)を読了する。あと、店に置いてあった『POPEYE』(マガジンハウス)を読んだ。30台半ばにもなると『POPEYE』はほのぼのとした牧歌的な雑誌として楽しく読める。

Sunday, July 19

所用のため午前中から夕方まで外出。どっと疲れた身体をおして、新宿のヨドバシカメラでホットプレートを買って帰る。早速、ホットプレートを使って夕飯は焼肉。牛肉、玉ねぎ、もやし、ズッキーニ、サラダ菜、そしてひさしぶりのビール。

油の飛散除けとしてホットプレートの下に敷くためにコンビニで買った「朝日新聞」に目をとおしたら、杉田敦を相手に長谷部恭男が安全保障関連法案をめぐってつぎのように語っていた。

民主主義の根幹である表現の自由を威圧する。法の支配を守らず、政権の思う通りの法案を通そうとする。日本はどんどん中国に似てきています。

そう、安倍晋三と彼に群がる者たちに似ているのは、彼らがいちばん嫌っていると思われる国家の執行部である。もっとも現在の国会議員たちは確固たる理念や思考をもたない有象無象の政治屋ばかりかと思われるので、内閣支持率が低下すれば何事もなかったかのように別の人気者に群がるだけという気もする。

  1. 定食屋の様子 | fuzkue(フヅクエ) []