Monday, June 8
2013年にブリヂストン美術館で催された「カイユボット展 都市の印象派」にあわせておこなわれた、鈴木理策と倉石信乃の対談(「印象派にとっての写真、写真にとっての印象派」)のなかで、倉石信乃が、印象派絵画の写真からの影響はよく言われる話ではあるものの、実証的な観点からは確実に影響が認められる作品というものはほとんどないと語っていたのだが、三浦篤『まなざしのレッスン 2 西洋近現代絵画』(東京大学出版会)に目をとおしていたら、おなじような話をしているくだりを見つけた。
ただし、絵画そのものにどこまで写真が本質的な影響を与えたのかという問題は微妙です。というのも、後発の視覚メディアである写真は、発明当初「芸術」ではなく「技術」として認識されていたので、写真の方がむしろ芸術であることをめざし、絵画的な効果を積極的に求めたからです。つまり、少なくとも19世紀においては写真が絵画を後追いし、写真を「芸術」として認知させようと努力したと言ってもよいのです。19世紀後半から20世紀初頭にかけて広がった「ピクトリアリズム」写真の動向がその典型的な表れです。
ところが、一般的に19世紀の絵画には写真の造形的影響があると思われがちで、印象派たとえばドガの《コンコルド広場》の斬新な構図が「スナップショット的」などと形容されたりします。しかし、第3章で述べたように、1870年代にスナップショット写真を撮るカメラはまだ生まれていませんし、ドガの作品のような画面構成を見せる写真は存在しませんでした。現在の眼からは写真的と見える印象派絵画の特徴は、実際には画家たち自身の創意工夫によるものであり、その意味ではきわめて「絵画的な」達成だったのです。別の見方をすれば、後に発展した写真の特性を、現在の私たちが過去の絵画に投影しているわけで、このような歴史の逆転現象をしっかり意識しなければなりません。(p.83)
自宅に帰ると、『UP』6月号(東京大学出版会)と『花椿』7/8月号(資生堂)が届いていた。『UP』の冒頭には、ちょうど三浦篤が「西洋近現代絵画を見るために 『まなざしのレッスン2』の読み方」を寄稿している。タイムリー。
夕食は、レッドカレー、ビール。
夜、『ジゴロ・イン・ニューヨーク』(ジョン・タトゥーロ監督、2013年)を見る。ウディ・アレンが好きなので、彼の姿がスクリーンのなかにあるだけで、なんだか嬉しくなってくる。それにしてもウディ・アレンのあのつぶらな瞳はなんだろう。
Tuesday, June 9
『UP』6月号(東京大学出版会)掲載の三浦篤のエッセイに、
本書『まなざし2』は前著『まなざし1』を読んでいなくとも理解できるようにはなっているが、『まなざし1』を読んでいればさらに理解が増すことは間違いない。それでも、本書は前書よりもやや難しいかもしれない。規定の約束事に則って描かれた、伝統的、古典的な絵画作品を見て、読み解くには、その枠組みをしっかり身につけていればよい。ところが、確固たる基準を喪失し、約束事が崩壊していく近現代の絵画状況を理解するのは容易ではない。いかに約束事が機能するのかではなく、いかに約束事が機能しなくなったのかを認識しなければならないからだ。古い枠組みが壊れて、従来の意味が失われ、新しい価値が出現して、古い価値と混在し、今までにない技法や手法が試みられ、枠組み自体を否定する絵画すら生まれる、まことに入り組んだ状況を迎えたのである。(pp.4-5)
とあって、一般的な認識としてはそのとおりなのかもしれないけれど、個人的には、「その枠組みをしっかり身につけていればよい」という古典的な絵画をめぐるどこか「お勉強」感あふれる鑑賞態度が苦手で、約束事が崩壊した後の作品のほうが、余程ぐっと身近に感じられる。
夜、焼豚と水菜ともやしと生卵をのせた塩ラーメン、ビール。
Wednesday, June 10
夜、ひやむぎ、トマトと新玉ねぎと水菜のサラダ、枝豆、ビール。食卓が完全に夏仕様。
金関猛『ウィーン大学生フロイト』(中公叢書)を読む。
Thursday, June 11
夜、ベーコンとセロリのトマトソースパスタ、バゲットとレバーペースト、白ワイン。
小野紀明『西洋政治思想史講義 精神史的考察』(岩波書店)を読みはじめる。『図書』5月号(岩波書店)で、平野啓一郎が本書に言及しながら京大での小野紀明による西洋政治思想史の授業を回想していて、「その真剣さ、深刻さ、爽快な論理的な明晰さと思いつめた暗い情熱、アイロニカルなユーモア、世俗に通じた柔軟な共感、禁欲的な公平さ、そして、圧倒的な博識、──そのすべてが、当時蔓延していた浮薄な現代思想ブームとは真反対であり、私を含め真反対であり、私を含め、学生たちから熱烈に支持されていた」と書いているのだが、このお堅い内容の浩瀚な書物を読み進めながら、「ユーモア」はどこにあるのだろうと思っていたら、あとがきにあった。
随分前から講義録を出版して欲しいという学生のありがたい要望を、私は聞いてきた。ところが、その理由をたずねると、説明のために私が繰り出す余りに下品で馬鹿げた例が面白いという答えが大部分であった。確かに、概念的で抽象的な議論が続く講義を身近なものに感じてもらうために、私は具体的な例で説明することに意を用いた。しかし、それらを活字とすることには、さすがに厚顔無恥な私でも憚られた。学生の期待に応えられなかったことを、お詫びしたい。(pp.503-504)
Friday, June 12
有給休暇。外に出ると梅雨らしい湿気を感じる季節。
今週の『エコノミスト』誌の記事で、ピエール・ブーレーズが90歳を迎えていたことを知る。自宅にあるiMacのiTunesで、「Boulez」と入力して検索するとずらずらと出てくるなかで、一番目につくアルバムはアントン・ヴェーベルンの作品全集なのだが、ヴェーベルンを聴きたくなる気分というものがなかなか訪れないのであまり聴いていない。はたしてヴェーベルンを聴きたくなる気分というものは存在するのか。
夕方、「ニァイズ」を入手するためだけの目的で、恵比寿のNADiff a/p/a/r/tに向かう。ギャラリーでやっていた横山裕一 「ファッションと密室」を見て、未入手だった号の「ニァイズ」をかき集める。ほかの客が誰もいないNADiffの売店で「ニァイズ」に夢中の不審者がここにいる。
日比谷線で恵比寿から銀座に移動して、ギャラリー巡り。ギャラリー小柳でマーク・マンダース、ポーラミュージアムアネックスでスー・ブラックウェル「Dwelling -すみか-」、AKIO NAGASAWAでサラ・ムーン「NOW AND THEN」を見る。AKIO NAGASAWAでは、何必館・京都現代美術館が2002年に刊行していたサラ・ムーンの写真集を購入。
夕食のため、銀座コリドー街に向かう。しかし金曜夜のコリドー街を舐めていたというか、予約なしで目星をつけた3つの店を訪れてみたところ、金曜の夜に予約なしなんて笑止の沙汰なのかもしれないと思うほど、どの店も満席。諦めて帰宅。夕飯は、近所の焼鳥屋で。こちらも混んでいたがさいわいにして席を確保できた。
Saturday, June 13
午前中、所用で後楽園近辺をまわる。丸ノ内線で東京駅にでて、お昼食はKITTEに入っている「くし路」で、鮭ざんまい丼御膳とビールを注文する。食後、はじめて訪れたKITTEの各店舗をめぐってみる。4階にあるMARUNOUCHI READING STYLEは、本と雑貨とカフェが同居したいかにも今時の店であるが、このての店としては意外と本が充実していてよかった。本屋はなにより「量」で攻めてくれないと気分が高揚しない。近藤聡乃『ニューヨークで考え中』(亜紀書房)とジョナス・メカス『メカスの映画日記』(飯村昭子/訳、フィルムアート社)とスウェーデン製のセルクロスを購入。
東京ステーションギャラリーで「没後30年 鴨居玲展 踊り候え」を見る。鴨居玲についてよく知らなかったので、鴨居羊子の弟であることを遅まきながら知った。
帰宅途中、花屋でブーケを購入。
夜、あさりと豚肉と水菜のパスタ、トラディショナルバゲットとクリームチーズ、赤ワイン。『ニューヨークで考え中』がおもしろくて夢中になって読む。近藤聡乃のアニメーションや絵画は美術館やミヅマで何度か見ているが、漫画を読むのははじめて。間やタッチが、どこか高野文子の感触と似ている。
Sunday, June 14
参宮橋のももちどりで昼食。鉄板のパンケーキとサラダとスープ。代々木上原に移動し、ロスパペロテスで古本探訪。秦早穂子『影の部分』(リトルモア)と蓮實重彦『物語批判序説』(中公文庫)を買う。
移動中の読書は、吉田知子『お供え』(講談社文芸文庫)。岸本佐知子が『気になる部分』(白水社)のなかで、「1996年のベスト3」として吉田知子の『千年往来』(新潮社)を挙げ、
いかにも私好みの、“イっちゃってる系”のこの作家を知ったことは今年の喜び。『お供え』を読んで腰を抜かし、あわててこれを読んだ。なんの前触れもなしに、ひょいと現実と夢の敷居を越えてしまう凄さ、怖さは、ちょっと普通じゃないものがある。
と書いているのを読んで気になっていたのだが、気になっていたわりにはずっと気になっている状態が長年にわたり、講談社文芸文庫に収まったところでようやく読んだ。
夜、冷や麦、茄子とトマトとレタスの炒めもの、おくら、茗荷と大根おろしとしらす、ビール。