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Saturday, September 13

目黒駅から現在は休館中の庭園美術館方面にむかって歩く。こんぴら茶屋でカレーうどんを注文。時計の針は午後2時をまわり少し遅めの昼食を済ませた。本日の目的地である目黒区美術館をめざして権之助坂を歩く途中、古本屋の前で足をとめる。弘南堂書店。『金井美恵子エッセイ・コレクション』(平凡社)の第1巻を見つけて、エッセイ・コレクションは全巻購入したにもかかわらず、いまだ一冊も読んでいない体たらくに気づく。

目黒区美術館で「ジョージ・ネルソン展 建築家・ライター・デザイナー・教育者」を見学。評判のよい展覧会からなのか会期が終了に近づいているからなのか、会場はたくさんの人で埋まっている。カタログも売り切れ。観客にはデザイナーっぽい人とかデザインを勉強している学生っぽい人が多数。ジョージ・ネルソンはアメリカの建築家・デザイナーだが、アメリカの都市計画や工業化を嫌っていたようで(その状況を皮肉った作品がいくつか展示されている)、ネルソン名義の家具を見ているとフォーディズムに対抗する気概にあふれている。そのデザインには、どこか北ヨーロッパの洗練とつうじるものがあるような印象も。

帰り際、スーパーで食料品や日用品の買いもの。夜、蛸と小松菜を白ワインで蒸してパスタと和える。赤ワイン。

Sunday, September 14

昨日の赤ワインの飲みすぎが祟り、やや胃が重い。ホットケーキを焼き、珈琲を淹れる。

梅雨の時期あたりから断続的に読みつづけてきたロベルト・ボラーニョ『2666』の英訳が、ようやく最終ページをめくるところまできた。外出時に読むことが多かったので、最後はペーパーバックの表紙が擦り切れた状態に。白水社から刊行された日本語訳があまりに高額で、図書館で借りたとしても貸出期限のなかで読み切れそうもなかったので購入した英訳版だったが、幸いなことに原書のスペイン語はどうだか知らないけれど英訳はとても読みやすい文体で書かれていて、大学入試をクリアできる程度の英文読解力があればそれほど苦にはならない代物であった。であれば大学入試の試験問題に是非『2666』を使えばいいと思ったが、試験問題として用いるにはあまりに人が死にすぎかもしれない。

ベランダの外からは神輿担ぎの声が聞こえる。昼、白米、しめじと玉ねぎとわかめの味噌汁、茄子とピーマンの味噌炒め、秋刀魚、大根おろし、麦茶。

ベッティーナ・シュタングネトの『イェルサレム以前のアイヒマン』の英訳(”Eichmann Before Jerusalem: The Unexamined Life of a Mass Murderer”)がハードカバーとして刊行され、来月の末にはペーパーバック版が発売される。ペーパーバックもそれほど安いというわけではないので購入するかどうか迷っているのだが、とりあえず読む前提での下準備として、本棚からハンナ・アーレント『イェルサレムのアイヒマン』(大久保和郎訳、みすず書房)を取りだして読みはじめる。矢野久美子『ハンナ・アーレント 「戦争の世紀」を生きた政治哲学者』(中公新書)によれば、アーレントは本書によってユダヤ人の友人のほとんどと絶縁されてしまったそうだが、その友人たちは『イェルサレムのアイヒマン』を果たしてどれほど精読したのだろうかと疑問に思う。アーレントが『イェルサレムのアイヒマン』でおこなっているのは、いわば「相対化」であるのだが、たしかにアイヒマンの罪を絶対的なものとせずユダヤ人自身にも問題があった、そして裁判自体のあり方に疑問を呈していると一応は読める。けれどもこの本で論じられていることは、もう少しややこしく繊細で複雑で、そのあたりすべてを汲み取って「絶縁」したのかなあ。不幸にもアーレントが被ったのは、反ユダヤ主義的な言説を喧伝しているぞというジャーナリスティックなイメージの流布だったような気がしてならない。シュタングネトは現在の資料分析を踏まえて、アーレントのアイヒマン理解は誤りであったことを精密に論証しているとのことだが、しかしそれは単に実証主義的なレベルにとどまるアーレント批判ではなく、アーレントの思想を継承するかたちでの建設的な批判(吟味)のようなので期待。

夜、大根おろし、ねぎ、わかめ、おくらを乗せたかぼすうどん。大根と焼豚の和風マリネ、ビール。夕食をとりながらInterFMを聴いていたら、小川隆夫の「Jazz Conversation」が9月末をもって終了するという。哀しい。