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Monday, April 28

弁当を持参しなかったので、昼休みに和幸でとんかつを食べる。いちばん安い「和幸御飯」を注文。James Wood『The Fun Stuff: And Other Essays』(Farrar, Straus and Giroux)のエドマンド・ウィルソンについて書いてある箇所を立ち読みしながら、店に入るまでの行列にならんだ。

このあいだの土曜日のラジオで、ゲストに深澤直人が呼ばれていたのを聞いて、本棚にある後藤武・佐々木正人・深澤直人『デザインの生態学』(東京書籍)のことを考える。「新しいデザインの教科書」と銘打たれたこの本を読むと、深澤直人の思考の柔軟さがよくわかるし、本書は、アフォーダンス概念の生みの親ギブソンの入門的な著作としても有用だと思う。アッキレ・カスティリオーニというイタリアのデザイナーの存在を知って、Achille Castiglioni『Achille Castiglioni』(Corraini Editore)を買ったのも、この本が導いてくれた道筋だった。二冊を本棚からひっぱりだして再読する。

夕食は自宅で。白米、油揚げとキャベツの味噌汁、秋刀魚の塩焼き、大根おろし、スナックえんどうの塩茹で、烏賊の塩辛、冷奴とキムチ、ビール。

Tuesday, April 29

休日の朝、パンケーキを焼き、珈琲を淹れる。パンケーキの焼きかたが日に日に上達しているので、いつか武装集団に拘束されてパンケーキをうまく焼かないと命の保証はないと脅されても安心である。食後にVirginia Woolf『A Room of One’s Own』(Penguin Books)を少しだけ読む。

外は曇天模様。今日は終日自宅で読書と決める。午前中はアン・モロー・リンドバーグ『翼よ、北に』(中村妙子訳、みすず書房)を読んだ。夫のリンドバーグとともに、ニューヨークを出発し、カナダ、アラスカ、シベリア、千島列島、日本、中国をまわった調査飛行の記録。吉田健一の訳文とあいまって崇高な精神性を染みわたらせている『海からの贈物』(新潮文庫)よりも、この瑞々しい筆致のデビュー作のほうが読んでいてたのしい。

飛行機の旅をするとき、人はじっとすわって、高みから人生を眺めることができる。そうなのだ。空を飛びながらわたしはふたたび飛行というものに潜む根源的な魔法を意識していた。それは飛行そのものの実際的な目的のいずれとも——スピードとも、目的地への速やかな到達とも、便利さとも——およそ何の関わりもない奇跡であって、現実的なそうした目的などのように変化しようとも、根源的な魔法そのものはけっして変化しない。
それはたとえて言うなら、晴れやかなうつくしさをもつマドンナ像の前にたたずむとき、涼やかなコラールに耳を傾けるとき、あるいは書物のうちに明快な一節を読み取ったときに(いわば底部が透明がガラスでできているバケツをあたえられて、波立つ表面のはるか下にある、不変の静かな世界をのぞみみることを許された者のみの知る、含蓄に富む、さわやかなひとときに)人が初めて経験するものに似た魔法だ。

昼食の時間。あさり貝、グリーンリーフ、スナックえんどう、トマトを日本酒で蒸して、茹であがったパスタと和える。飲みものは、畑の区画番号「21」の数字がラベルになっているチリワインの赤。

『一冊の本』(朝日新聞社)と『図書』(岩波書店)と昼寝。

夜、白米、キャベツとネギの味噌汁、豚肉と玉葱の豆板醤炒め、小松菜と油揚げの胡麻油炒め、きゅうりと味噌、ビール。

Wednesday, April 30

『UP』(東京大学出版会)がどれほどの部数刷られ、どれほどの読者を確保しているのか知らないが、多くの人に読まれるべき不可思議な媒体だとつねずね思う。たとえば最上敏樹の連載は、冒頭、ビクトル・エリセ監督による画家アントニオ・ロペスの創作過程を撮った『マルメロの陽光』にふれて、つぎのように書く。

静謐を映像化する点で右に出る者のないエリセ、確かなデッサン力と淡い色彩の見事なロペス。この二人のファンであるなら、画家の推移と描画の様子を観ているだけで十分に満足できるのだが、この映画にはもう一つ、隠された大切なテーマがある。一枚の静物画において、時間はいかに表現しうるか——。
ロペスは一日か二日でスケッチを終えたり、すぐに彩色を始めたりはしない。時間がゆったりと過ぎゆくのに任せて作業を進めるのだ。ところが、それは当然に問題を引き起こす。時が経つにつれてマルメロの実は大きくなり、微妙に垂れ下がりもする。受ける陽光も季節の進行に連れて変わり、やがて実そのものが朽ちて堕ちる。かくして、絵は完成しない。
何度みても飽きない映画だ。好きな監督と好きな画家の組み合わせだから当然と言えば当然だが、「隠されたテーマ」が自分の本業である国際法にも関わっていて、映画を観ながらつらつらそんなことを考えるからでもある。国際法にとっての時間とは何であるのか、時間は国際法に対してどういうインパクトを及ぼしてきたのか、あるいは、国際法学はそれについてどう解釈してきたのか、等々。

『マルメロの陽光』と国際法の話がするっと併存する原稿が、平然と掲載される媒体はそうはないのではないか。夕飯は、ベーコンと人参とグリーンリーフとトマトのペペロンチーノ、赤ワイン。ビールも飲む。Bunkamura ザ・ミュージアムでのアントニオ・ロペス展の図録をとりだす。

Thursday, May 1

メーデーでも労働。労働といえば、学生の頃に読んだ今村仁司『近代の労働観』(岩波新書)のつぎの一節のことを今でもおぼえている。

この二百年の歴史を眺めれば、一日の労働時間は徐々に縮小してきた。十九世紀の十二時間あるいは十五時間から、二十世紀現在の八時間への労働時間の削減は、人間生活にとってひとつの歴史的成果であり「進歩」である。しかも今後はもっと労働時間が縮小する見込みさえある。「一日三時間労働」という理想もけっして夢ではない。こうした現実の歴史の傾向を踏まえてみれば、労働からの解放はユートピアではなくて、人類がその実践のなかで要求していることである。

読んだ当時も「ほんとかよ」と思ったが、このたび図書館から借りて読み返して、ふたたび「ほんとかよ」と思う。一日三時間労働という理想もけっして夢ではない。あなたの夢をあきらめないで。

Friday, May 2

会社帰りに上野で下車して東京都美術館に赴き、程よい混み具合のなかで「バルテュス展」を堪能する。最近の美術展の流行なのか、画家のアトリエを実寸大で再現するような展示があって、あれ、はたして労力のわりにどれほど有意義なのだろうかと思う。あと、展覧会と絡めたお菓子をやたらとつくりたがる風潮はなんなのか。

売店で、晩年のバルテュスがポラロイドで撮影したものが、写真集としてガラスケースに収められていた。清水の舞台から飛び降りたらそのまま地面に叩きつけられて死亡しそうな値段がついていた。

美術館から少し歩いて、千駄木のイタリアン露地で、飲んで食べて。

Saturday, May 3

六本木のIMAでテリ・ワイフェンバックと川内倫子の写真展「Gift」をみる。家に戻ってテリ・ワイフェンバックの写真集『Between Maple and Chestnut』をみる。

Sunday, May 4

『みすず』(みすず書房)で連載の原武史の日記。この人の筆致は、やや自己顕示欲が強いきらいがあるので、そこが改善されればと読むたびに思うのだが、それはそうと、つぎのくだりには笑った。

「皇后考」22の準備のため、現皇后の相談相手として知られる神谷美恵子の日記を読む。みすず書房から刊行された『神谷美恵子著作集』第十巻に収録されている。自分自身がこの日記を連載している上、同じく大学に勤めているということもあり、大変おもしろい。みすず書房とのやりとりも記されている。ますます他人事には見えない。決定的な違いは、私には子供がなく、キリスト教からの影響もないことだろう。いや、もっと大きな違いがある。人格の高潔さという点において、到底比べるべくもないことだ。この日記を読んでいると、駅そばやラーメンの味まで書いている自分が恥ずかしくなる。

神谷美恵子の日記は、編集によって日常生活の些事は省略されているから、彼女の思考と精神のエッセンスだけが凝縮されている。本当は、ささいな、どうてもいいような事も書いていたかもしれない。でも、神谷美恵子は駅そばやラーメンの味については書かなかっただろう。『神谷美恵子著作集』に収まっている日記は、角川書店から文庫化もされている。手元にある文庫を読み返すと、以下のくだりなどは、日記として非の打ち所のないくらいの完成度をもっていると思う。

保険証のことで市役所に行き、梅田へ出て岸本御母堂の見舞品選定に二時間費す。ガンの人に贈るものはどんなものだろうか。スペイン風のスタンドをやっとみつけて、それをおくらせた。私だったら死の床であのようなステンドグラスからもれるほのかな灯を夜みつめていたいと思ったのだ。それからがまんしきれずシューマンのピアノ協奏曲のLPを求めて帰る。帰り、夏からよみかけのキェルケゴールの『不安の概念』をよむ。よみ終えるのが惜しく、ちびちびと考え考えよむ。ところどころ感たんの声をあげつつ。ずい分沢山の事を考えたおかげで、講義の準備はなかなか捗らない。
今夜もシューマンの音楽の洪水の中で考えつづけている。