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Tuesday, June 19

新しい野菜と水ばかりのような日本から来た矢代は、当座の間はからからに乾いたこの黒い石の街に馴染むことが出来なかった。蛙は濡れた皮膚から体内の瓦斯を発散させて呼吸の調節を計るように、湿気の強い地帯に住んで来た日本人の矢代の皮膚も、パリの乾ききった空気にあうと、毛孔の塞がった思いで感覚が日に日に衰え風邪をひきつづけた。眼の醒めるばかりの彫刻や絵や建物を見て歩いても、人の騒ぐほどの美しさに見えず憂鬱に沈み込んだ。眼の前に出された美味な御馳走に咽喉が鳴っても、一口二口食べるともう吐き気をもよおして来てコーヒーと水ばかりを飲んだ。少し街を歩くと堪らなく水が見たくなってセーヌ河の岸の方へ自然に足が動いていくのだった。(『旅愁(上)』、横光利一/著、講談社文芸文庫)

昨晩の、ブルージュの美しい闇の余韻に浸る間もなく、きょうもきょうとてあわただしい朝を迎えホテルをチェックアウト。フロントには必ずちがう人がいて一体このホテルのフロントには何人が働いてるんだと訝りつつも、みな英語も通じるし、笑顔で気持ちよく対応してくれて嫌な思いをすることはなかった。最寄りのブリュッセル北駅まで徒歩で向かう。タリスの出発駅となるブリュッセル南駅まで国鉄で移動したのちなんとか目的の列車に乗り込んだものの、わたしのスーツケースが巨大すぎて置き場所に難儀する(2等車なので狭い)。スーツケースと格闘している最中に近くの人にぶつかったので「すみません」というと「大丈夫大丈夫、気にしないで」と言ってくれる。こういうとき本当に欧米の人って優しいと思う。結局、巨大なスーツケースを座席の上の棚にのせるという荒技をこなしたことで、視線は美しい車窓の景色よりもスーツケースに集中。前にタリスに乗ったときは夜で、田園風景は見られず、めったに乗り物に酔わないのにひどく酔って疲弊してしまったことを思い出した。いつかは優雅なタリス時間を過ごせる日が来るのだろうかとぶつぶつ悩むわたしを乗せて列車はようやくパリ北駅に到着。しかし「おお、パリよ!」と思うのはやはり、駅舎を出て、パリの街並みを目にしてから。パリの印象は「白い街」。石造りの家々が太陽の光にさらされ、視界が白一色に染まる。そう、嬉しいことにパリも晴れていた。

ホテルにチェックインしようとしたけれど少し時間が早いとのことで、スーツケースを預けてからあたりをうろうろ。これといって特徴のないカフェに入って白ワインを一杯いただいて一息つく。おしゃべりに興じる女性たち、カウンターでエスプレッソ一杯飲んで店主と雑談してさらっと立ち去る常連客。窓の外を見やればポケットに手を突っ込み、ローヒールで足早に通り過ぎていく女子学生、煌めく街路樹の緑、活気のある花屋、カフェ、カフェ、カフェ。パリだ。 ホテルに戻ってチェックインを済ませてから距離的に近いモンマルトルをまわってしまおうと、早速メトロの駅に向かった。とにかくヨーロッパの鉄道はそれぞれの路線によって改札の仕方がいろいろで、しかも改札し損なったとき、何か落ち度があったときの厳しさは並大抵ではない。これまでミスしたことはないものの怯えてしまう。自動改札機で改札せずに乗車した女性を車掌が執拗に咎める様子をえんえん描いたシーンが見物のジャック・ロジエ監督『メーヌ・オセアン』(1985年、フランス)ではのんきな(という形容詞が相応しいか疑問だが)ハッピーエンド(と呼んでいいものか疑問だが)に落ち着いたからいいようなものの、現実は厳しい。その点パリの地下鉄は乗る前に改札を通り抜ければよいので一度乗れば慣れてしまうが、やはりパリの地下鉄は緊張感を強いられるところで、地下鉄で何者かにねらわれないための護身術として何かの本だかサイトだかに書かれていた「パリのメトロではあまり笑ったり騒いだりせず、旅行者ではないかのようにふるまいましょう」という文句に、きょうくらいは律儀に従うことにする。

モンマルトルの街に到着し、サクレ・クール聖堂に向かってのぼる坂道の途中で今回の旅で初めてエッフェル塔を目にすることとなった。サクレ・クール聖堂は白亜の壁が美しい。聖堂前はさまざまな国籍の人々でいっぱいで、まさにザ・観光地。聖堂前の広場からは凱旋門やエッフェル塔ほどは高くない、微妙にゆるい高度でパリ市内を見晴るかすことができて面白い。高低差の激しい土地であるため、そこかしこに設えられている階段を使って丘をくだり、「ピカソのアトリエ」を観に行ったら看板も貼紙も表札などもないようで、結局「ここがピカソのアトリエらしい」としかわからなかった。奥ゆかしい名所だ。ピカソが『アヴィニョンの娘たち』を制作し、マティスやドガが暮らした「アトリエ洗濯船跡」は無事に確認できた。イギリス人らしき老夫婦が、当時の写真や文献など資料が並べられたウィンドウに見入っていた。わたしはその老婦人が大変におしゃれだったのでファッションチェックにいそしみ、栗色のボブヘアにグレーのショール、色あせた水色のデニムジャケット、紺色のロングスカートを身につけたスマートな彼女の佇まいに見入った。その先にある、ゴッホが弟と暮らしていたアパートも観たかったけれど少し距離があったためあきらめ、モンマルトル博物館にも入ってみたかったけれど今回はあきらめ、ピンクの壁が目をひく「オ・ラパン・アジル」で壁を這うツタや緑と黄色に塗り分けられた柵、うさぎの看板、赤・黄・緑・水色のカラフルな窓ガラスを眺めて満足し、ぶどう畑「クロ・モンマルトル」を横目に見て、次回は必ずモンマルトル博物館からこのぶどう畑を見下ろそうと心に決めて駅前まで歩いた。

夕食は雑誌『旅』(2009年1月号、新潮社)のパリのカフェ特集に出ていたGinette de la Cote d’Azur(ジネット・ド・ラ・コート・ダジュール)というお店で。メニューをもらう前に、ななめ前に座っていた婦人に運ばれてきたクラブハウスサンドイッチに一目惚れ。迷わずそれをえらんだ。大きなサンドイッチにお約束のてんこもりポテトフライとバルサミコ酢のきいたドレッシングが美味しいサラダ、ビール(Heineken)、デザートはモンマルトルが舞台となった映画『アメリ』(ジャン=ピエール・ジュネ監督、2001年、フランス)でアメリが食べていたクリームブリュレを。ゆっくりゆっくり食べる。きょうほかに口にしたのは小さめのクロワッサン1つと珈琲の朝食、白ワイン一杯だけなのにすっかり満腹になった。もしかしたら旅行中は一日一食で足りるかもしれない。なんてこと! 前は3食しっかり食べたのに。あのときわたしは若かった。

宿泊しているホテルの最寄り駅であるサン・ラザール駅にあるコンビニ(のようなショップ)でミネラルウォーターを買って帰る。2日後の夏至に向かって、太陽がいつまでも、あらん限りの光線を放射している。明日から本格的にパリを歩く。観光ルートは天候と相談しつつだけれど早くエッフェル塔を間近に見ないとなんだか落ち着かない。

Wednesday, June 20

パリ、ヴィリエ交差点。その東はバティニョル大通りで、その向こうにモンマルトルのサクレ・クールが威容を誇っている。北はレヴィ街と市場で、ヴィリエ通りの角のカフェ《ル・ドーム》、そしてその反対側の歩道にメトロのヴィリエ駅の出入口がある。その上には大時計があり、盛り土に植えられた樹々が大時計を覆うようにそびえ立つが、枝は今ではすっかり刈り取られている。/西はクルセル大通りだ。この通りはモンソー公園に通じている。かつてこの通りに面していたシテ・クラブという学生会館はナポレオン三世ホテルを占有していたが、このホテルは一九六〇年にとり壊された。法律を学んでいた頃、ぼくは毎晩そこで食事をしていた。その近くのローム街に住んでいたからだ。夕食をとるのは、モンソー街の画廊で働いていたシルヴィがちょうど公園を横切って帰宅する時刻だった。(「モンソーのパン屋の女の子」、エリック・ロメール/著、細川晋/訳、『六つの本心の話』、早川書房)

メリーゴーランドもまだ眠ったままの、午前8時のモンソー公園。この公園は高級住宅街のなかにあって、朽ちかけた廃墟のような風情のコリント式円柱が池のまわりに並んでいたり、ピラミッドのオブジェがあったり、朱色の橋が架けられた小さな日本式庭園があったりとノーブルとキッチュがいびつにミックスされていたりして、そういえばプルーストもお気に入りの場所だった、などといろいろなネタが詰まったところだけれど、わたしとしてはやはりエリック・ロメール監督の短篇『モンソーのパン屋の女の子』を真っ先に思い出してしまう。ロメールは映画監督になる前に小説も書いていて、この作品については映画よりもむしろ小説のほうが印象に残っている。主人公の若い男性が思いを寄せる女の子がモンソー公園を横切って職場に通うシルヴィで、タイトルの“女の子”はモンソー公園近くのパン屋で働いている別の女の子だ。わたしの頭のなかではもう何年も、『モンソーのパン屋の女の子』のことを思うと“パン”“女の子”という2つの単語の相似性によるものなのか、何なのか、因果関係は定かでないまま、日本の映画監督山川直人が撮った『パン屋襲撃』(1982年、日本)と『100%の女の子』(1984年、日本)の2本がひも付けられており、2つの映画に起用されていた若き室井滋だとか“原作:村上春樹”のテロップだとかが脳内でくるくるとまわり始め、なにゆえ早朝のパリのモンソー公園でそうしたコアな作品群に思いをはせているのだろうと呆れつつもそうした状況にひとりすっかり満足し、あちらこちらに咲いているバラの大群や朝の光線が鋭角に射し込む草地、樹々の合間から見える高級住宅を見てまわった。

凱旋門そばのカフェでエスプレッソを一杯飲んで、凱旋門の扉が開くまで撮影大会。開門と同時に展望台への階段をのぼり始めたらすぐさま脚はがくがく、息絶え絶え、たどり着いたときにはすっかり両脚が痺れてしまって、これは筋肉痛よりもっと危険な事態に陥るのではないかと不安になるも、眺めの素晴らしさにいつしか苦痛をわすれた。出発前に毎日チェックしていた世界の天気予報では、パリはまるで日本の梅雨のようだとのことでたいそう不安だったけれど、幸いにしてきょうも晴れた空が清々しい。とはいえ市内一帯に靄がかかっていて、初夏の明るい陽射しではあるものの、放射状にのびるいくつもの通りもエッフェル塔も昨日観たサクレ・クールも、あの高層ビル群はラ・デファンスだろうか、それらはすべて霞んで見える。いよいよ暑くなってきて、日に灼けるので帽子をかぶった。

本当はこのままずーっとシャンゼリゼ通りを闊歩してルーブルにたどり着きたいところだが、のちの行程を鑑みてメトロでポン・ヌフまで移動。初めて見る初夏のセーヌ川だ。嬉しい。わたしはやっぱりパリではセーヌ川がいちばんのお気に入りだ。河岸まで降りてきらきら光る川面を見つめ、水の匂いを体内に取り込みつつ歩く。京都の鴨川沿いをそぞろ歩きしたことを思い出したが、あれはちょうど1年前の6月だった。そのままシテ島を通過して左岸へ渡り、サン・ミシェル橋のたもとのカフェでお昼ごはん。こちらもまた、エリック・ロメールの映画『満月の夜』(1984年、フランス)に登場するLe Depart Saint-Michel(ル・デパール・サン・ミッシェル)というカフェで、肉も魚も美味しそうだったけれど、のちの行程を鑑みて(何しろきょうは頗るハードプラン)、少し軽めにプレーンオムレツとバゲットとサラダとビール(Heineken)をいただいた。それほど濃厚ではないメニューを頼んでも完璧に満腹になるのだからちょうどよかった。このカフェも昇天しそうに美味しく、英語も通じるのでいつの日かのリピート確定。カフェはサン・ミシェル大通りに面していて、ソルボンヌ大学やサン・ジェルマン市場やリュクサンブール公園がぎゅっとひしめくサン・ジェルマン・デ・プレからカルチェ・ラタンへと通じる人々の群れで賑々しいが、不思議と五月蝿さはまったく感じない。

ふたたびシテ島に戻ってノートルダム大聖堂へ。入口のすぐ上に並ぶ、キリストの祖先であるユダヤとイスラエルの王を象った28体の彫像、天空から下界を見下ろす怪物キマイラ、聖堂内に入れば数々のステンドグラスが美しいこの大聖堂はやはり素晴らしく、パリのなかではセーヌ川の次に思い入れがあるといってもいい。ただやはりあまりに観光地然としてしまっている感じは否めない。

わたしにとって今回のシテ島散策でのいちばんの目的は、ノートルダム大聖堂の裏手、サン・ルイ島側の突端にある、強制収容所へ送られた人々の追悼記念碑を見学することだった。明るい草地に設置された記念碑のまわりには薄紅の花がまばらに植えられている。数年前に刊行された『エレーヌ・ベールの日記』(エレーヌ・ベール/著、飛幡祐規/訳、岩波書店)は、ユダヤ系フランス人女性としてパリに暮らしたエレーヌ・ベールが1942年から1944年にかけて綴った日記で、パリでごく普通の青春を過ごしていた著者が、やがてユダヤ人の印である黄色い星を胸につけ、収容所に送られるまでの苦闘の日々を思慮深く、正直に、切実な筆致で記した烈しくも静かな衝撃を与える一冊であり、(エレーヌが)“生きていればおそらくキャサリン・マンスフィールドのような繊細さをもった作家になっていたであろう”との評もしみじみ首肯けるものだったけれど、きっと彼女の名前もここに刻まれているのだろう。「大勢の人に溢れ、太陽がいっぱいのサン・ミシェル大通り」「スフロ通りからサン・ジェルマン大通りまでは、わたしにとって魔法の領土だ」とエレーヌは書いた。

サン・ルイ橋を渡ってサン・ルイ島へ。シテ島よりも静かで落ち着いた雰囲気といわれるこの島での散歩を楽しみにしていたけれど、まあ、島のなかに入ってしまえば普通の街路だ。もっともっと小さな島で、両側にセーヌ川が運河のようにのぞめるくらいの大きさだったらもっともっと素晴らしかった。

メトロでコンコルド広場に向かい、オベリスクと噴水を眺め、灼熱のチュイルリー公園へ。白い砂と緑と観覧車のこのフランス式庭園はあまりに広大で、でも前方にはカルーゼル凱旋門、ふり返れば凱旋門やエッフェル塔をしっかり視界にとらえられるためなんだか遠近感がおかしくなるようだし、同一線上にこれだけの歴史的建造物が並んでいるというのは、わたしの偏愛する鎌倉の鶴岡八幡宮の鳥居が由比ケ浜から本宮めがけて一の鳥居、二の鳥居、三の鳥居……と並ぶあの地理をどうしたって想起してしまうし、とにかくこの公園には骨抜きにされてしまう。ツァイ・ミンリャン監督の『ふたつの時、ふたりの時間』(2001年、台湾/フランス)でジャン=ピエール・レオが座っていた公園のベンチはこの公園だったか。入口でミネラルウォーターを2本買って水分補給し、オランジュリー美術館でモネの睡蓮を鑑賞したのちルーブル美術館に併設されているモードと織物美術館でマーク・ジェイコブズの手がけたルイ・ヴィトンの展覧会を楽しむ。マーク時代のヴィトンの広告を動画でテンポよく見せていた展示がよかった。チュイルリー公園の木陰のカフェでビール(Carlsberg)を飲んでひと休みしてからルーブル美術館を150分かけて観た。たった150分。

驚いたのがジャン=バティスト・グルーズの『こわれた瓶』という絵を目にしたときで、この絵をはるか昔、どこかで何度も何度も観ているはずだ、と記憶をたどっていったらクロード・ミレール監督、シャルロット・ゲンズブール主演の『なまいきシャルロット』(1985年、フランス)のなかでほんの一瞬、映る絵だということに思い至ったのだけれど、ほんの一瞬といっても、いきなりこの絵の一部をクローズアップしたカットが挿入されるためそこになにか意味があるのだろうかと妙に心とらわれ、いまだにその謎は解けていないし、それもあって鮮やかに瞼のうらに焼きついた絵だったわけで、ようやく初めて絵の名前と作者を知ることができた。あと今回新たな発見として、コローってすごくいいじゃないか! というのがあって、それはきっとその前に17世紀のバロック絵画や18世紀に隆盛した重厚な肖像画、19世紀のロマン絵画などをえんえんと観つづけたあとの、深い森や静謐な湖畔を優しく詩情豊かに描いたコローの作品はまるでちょっとした清涼剤のように感じられたせいもあるのだろうけれど、あらためてバルビゾン派の魅力に気づかされたのだった。モナリザは相変わらずの混乱のなか微笑んでいて安心した。

帰り道、サン・ラザールのカリフールに寄ったら300円の値札がついたワインがずらりと並んでいてうらやましい限り。ミネラルウォーターとHeinekenを買って帰る。ところできょうもエッフェル塔を間近に見なかった。

Thursday, June 21

海にむかう水が目のまえを流れていさえすれば、どんな国のどんな街であろうと、自分のいる場所は河岸と呼ばれていいはずだ、と彼は思っていた。明け方に降りた露がからまって草々がしっとりにおいたつおだやかな小川のほとり、石とコンクリートで無機質な護岸工事がほどこされた都市の川べり、亜熱帯の半島の、生活排水と汚水がまじったなまあたたかい大河にかかる桟橋、向こう岸が見えないほど幅があってもう海と区別のつかない大陸の河口。歩いていても立ち止まっていても、水は彼に音のあるめまいを引き起こし、視線を下流へ下流へと曳航していく。その先になにがあるのかを教えてくれるものは、誰もいない。(『河岸亡日抄』、堀江敏幸/著、新潮社)

夏至のきょうは、ある理由で夕方から夜にかけてパリ市内がちょっとしたお祭り騒ぎになるらしい。朝から心躍らせつつ夜を待つ。

メトロのラッシュの洗礼を受けて向かった先はパリのはずれのオステルリッツ駅。ゼーバルト・プランの最終目的地だ。予想してはいたけれど、予想以上に殺風景で極めて普通の駅だった。それでも満足した。舗道に出てすぐ目の前を流れるのはセーヌ川。対岸には近代的な企業ビルが立ち並び、ポン・ヌフのあたりからのぞむセーヌ川とはやはり趣が異なるけれど、でもむしろそれが河岸というものを際立たせている気がして妙にぐっとくる光景だ。そのまま川沿いを進み、倉庫のような大きな建物のなかにあるギャラリーでバレンシアガとコム・デ・ギャルソンの展示を鑑賞。この展示は基本的な前情報を得ていただけで、ブランド好きなミーハー心を満たすために訪れたといってもいいくらいだけれど、コム・デ・ギャルソンは2012 S/Sプレタポルテコレクションを間近に見られるというなんとも嬉しい展示で大満足。それにしても水がそばにある土地で、倉庫風建造物のなかにあるギャラリーに身を置いているとどうしたって清澄白河の倉庫ギャラリーを思い浮かべてしまう。ギャラリーを出て再びしばらくセーヌ川の風に吹かれたあと、オルセー美術館に移動。ザ・観光地ふたたび。

オルセー美術館といえば、2010年の夏に乃木坂の国立新美術館で「オルセー美術館展2010 ポスト印象派」が開催されたことが思い出されるが、ちょうどそのとき、本場のオルセー美術館は改装工事中だった。晴れて改装後、照明効果によって作品が鑑賞しやすくなったと評判の新生オルセーに足を踏み入れると思うと感慨深いものがある。この美術館の建物はもともと駅舎だった、ということからして鉄道ファンの端くれとしては胸が高鳴るものがあって、たしかに半月ドーム型の窓はいかにも駅の風情だし、中央の通路にはかつてホームと線路があったらしいと聞いてかつての光景を夢想する。収蔵作品も、ルーブル美術館よりもなじみのものが多く、個人的にはこちらのほうが楽しめる。さまざまなところで嫌というほど参照されるマネの『草上の昼食』『オランピア』のほか、ルノワール『ムーラン・ド・ラ・ギャレット』、ミレー『羊飼いの少女』(『落穂拾い』より『晩鐘』よりこの絵がいちばん好き)、ゴッホの『星降る夜』などを観てまわる。お昼は美術館内のレストランで牛肉のタルタル、ポテト、バゲット、白ワイン。東京にユッケがないならパリでタルタルを食べればいいじゃないということでしょうか。

すでに相当に疲労した身体を奮い立たせ、メトロに乗ってランビュトー駅で下車し、ポンピドゥー芸術文化センターに到着。国立近代美術館で常設の近現代美術と企画展のゲルハルト・リヒター展を観る。常設展では、春に荻窪のささま書店で図録を購入したクプカの作品がいくつも並んでいて感嘆の声をあげた。あんなにいくつもクプカの絵が並んでいるのは初めて観た。しかし現代美術はわりと観ているほうだろうと自負していたものの、現代に近づけば近づくほど名を知っている作家はマルレーネ・デュマス、イブ・クライン、フランシス・ベーコン、ヴェルナー・パントン、ジグマー・ポルケなど数えるほどしかいなくて意気消沈した次第。

ともあれこれでパリの三大美術館をやっと制覇できた。慣れない異国の地でも、美術館のなかにいると安心する。何かに守られているような気がする。というのは美術館好きに共通の感情であろう。外に出るとさすが夏至、まだまだ真っ昼間のような明るさと熱気に包まれる。そして楽しみにしていたお祭り騒ぎというのは、パリでは夏至の日を音楽の日と定め、この日だけは夜通し、パリの路上でどこでも好きに音楽を奏でてよいというもので、たしかにポンピドゥーセンターにいる間、時折りにぎやかな音楽が窓越しに聴こえてきていたし、広場での大道芸には人だかりができて、サン・ラザール駅前ではロックバンドが演奏をしていたけれど、あらゆる路上で、という感じではなく、ホテルに戻るとほぼまったく音楽など聴こえなくなった。夜7時頃から盛り上がり始めて深夜にピークを迎え、明け方まで騒ぐと聞いていたけれど、みんないつまでわいわいやっているのだろうか。それに音楽のジャンルも、細野晴臣のラジオ番組「DAISY HOLIDAY!」でコシミハルがかけるような古き良きシャンソンのような楽曲が歌唱されたりアコーディオンで奏でられたりという状況を期待していたのでちょっと拍子抜けだった。それにしても2012年の夏至の日を東京ではなくパリで迎えるとは思わなかった。そしてパリ3日目にしていまだエッフェル塔を間近に見ていないという状況も信じ難いものだった。