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Monday, April 30

『エレーヌ・ベールの日記』(エレーヌ・ベール/著、飛幡祐規/訳)読了。お昼を食べてから北千住の東京芸術センターシネマブルースタジオにて『狩人』(1977年、ギリシャ/フランス/ドイツ)を観る。鑑賞中、アンゲロプロスの作品をもう観ることができないのだという動かしようのない事実を幾度も反芻し、絶望的な気分に襲われる。それにしてもアンゲロプロスの作品って画面に登場する人物の数が多い。先日、自宅のDVDでデプレシャンとアンゲロプロスを続けて観たらデプレシャンでうわ、人多い、と思って次のアンゲロプロスでもうわ、また人多い、と思った。わらわらわらわら。

帰宅して白ワインを飲みながら本棚から久しぶりにリトルプレスの『ぽかん』(ぽかん編集部)01号を抜き取り、ぱらぱら。「本そのものより読書という行為をテーマにした雑誌」というコンセプトに基づいたこの冊子は本当にいい。わたしも実は、本というものにそれほどのこだわりはない。判型や紙質による本の佇まいとして好きなタイプというのはあるけれど、たとえば友人が市販のノートに自作の詩や散文や絵を書きつけたものをかつて贈ってくれたことがあって、それを今でもくり返しくり返し読みつづけているように、どんな場所に書かれたものでも胸に響けばそれでいい。

祝日であっても月曜の夕食といえばの蛤のパスタ(蛤、ベーコン、小松菜、パプリカ)をいただいてから、にんじんとかぼちゃの常備菜を制作し、実家から持ち帰ってきた洋服の整理。途中で飽きてやめて、『イルカ』(よしもとばなな/著、文藝春秋)を、きょうはなんだか一日がすごく長い気がする、なかなか一日が終わらない、いつもあっという間に終わってしまうのに…と考えながら読んでいたらじわじわと気分が悪くなってしまい、身体が怠くてたまらなくなったので本を投げ出して不安を抱えながら就寝。明日から五月だというのに。

Tuesday, May 1

朝起きたら昨夜の不調は消え去っていた。ふだんと同じように新しい月を始められることに感謝した。『放浪の画家 ニコ・ピロスマニ』(はらだたけひで/著、冨山房インターナショナル)読了。 ゲオルギー・シェンゲラーヤ監督によるピロスマニの伝記的映画『ピロスマニ』は一度スクリーンで観たことがあるけれど何ともいえずいい映画だった。黒をバックにした絵は、ふつうに背景を黒で塗っているとばかり思っていたがそうではなく、黒い部分は黒紙の地の部分を使い、白やほかの色で輪郭を描いて造型を生み出していたらしく、飲み屋などでピロスマニが絵を描いていると人々は真っ黒な紙から次々に人や動物が浮き出てくるさまに驚嘆したという。そりゃそうだろう。あんなに素晴らしい絵が出てきたらもう。

Thursday, May 3

朝から雨が降っている。早くも本降りの様相を呈している。きょうは出かけない。バゲット、目玉焼き、小松菜とベーコンのソテー、ヨーグルト、珈琲の朝食を摂ってから、黙々と雑誌と洋服の片づけに勤しむ。ものを捨てるのは大好きだけれど整理はとても苦手。頭の中と同様にとっちらかっているのだ。

一息ついて、赤ワイン、サラミをいただきながら『歌うつぐみがおりました』(オタール・イオセリアーニ/監督、1970年、グルジア)を観る。こういう主人公みたいな男性、友人にもいる。みんなで集まってさあいこうか、というときに、あ、ちょっとここで待ってて、と言ってどこかに行ってしまう奴。楽しく飲んでいる最中にひとり抜け出し、何食わぬ顔をして戻ってくる奴。でも憎めない奴。むしろとてもみんなに好かれている奴。

また片づけ。

買いものに出る。

また片づけ。

赤ワイン、チーズをいただきながら『唇によだれ』(ジャック・ドニオル・ヴァルクローズ/監督、1959年、フランス)を観る。この監督、『カイエ・デュ・シネマ』の創刊者かつ編集長だったのかー、知らなかった。
また片づけ。

えんえんと片づけをしていたもののそれほどお腹はすいておらず、しかし、開け放たれた窓から薫る夕餉の匂いに食欲が刺激される。夜はおつまみメインで、牛肉と小松菜とセロリと玉ねぎの炒めもの、ピクルス、ミニトマト、塩辛、ビール。 また片づけ。

つかれた。

Friday, May 4

朝、ピザトースト、ヨーグルト、珈琲。

「生誕100年記念写真展 ロベール・ドアノー」「幻のモダニスト 写真家堀野正雄の世界」を観に東京都写真美術館へ。ロベール・ドアノーは一昨年くらいからの堀江敏幸の著書やドアノーの著書(堀江敏幸訳)、数々の展覧会などでじぶんにとってはすっかり“パリ郊外”のイメージしかなくなってしまった気がするが、つまり「パリ市庁舎前のキス」や「パリ祭のラストワルツ」などの、もっともよく知られた“おしゃれなパリ”を撮った人というイメージからは遠く離れてしまったのだけれど、それでもやはり、今回のように約200点の作品を一度に目にすると、そうしたメジャーな作品もいいものだなぁとしみじみ思えた。初公開となるカラー写真にも驚かされた。1980年代、DATAR(国土整備庁)によるフランス国土を記録するプロジェクトに参加して、故郷であるパリ郊外を撮影しつつ発せられた

思い出の中にある郊外は単色で、黒い自動車が何台か通っているだけだ。しかしいま、甘ったるい色に塗りたくられた建物の足もとに見出されるのは、さまざまな色の車が連なった首飾りだ。

という言葉が印象に残る。

お昼はおなじみRue Favartにて、たらこと大葉のパスタ、パン、スープ、アイスカプチーノ、ベリーのムース。Rue Favartは雰囲気もいいし、味もいい。何食べても美味しい。きょうのパスタには細かく刻んだトマトとムラサキ玉ねぎも加えられていて、美味しさを加速させていた。

リムアートでNerho「Misunderstanding Focus」、LIBRAIRIE6/シス書店で「動物相」、ナディッフで佐内正史「ラレー」。Nerhoの「Misunderstanding Focus」よかった。人の顔を正面から撮影した写真紙を幾重にも重ね、一定の法則に従って紙を切り取っていく。直線的に切り取られた場合は地層に、曲線的に切り取られた場合は水紋に見える。人の顔が歪み、センチメンタルでフラジャイルな空気が全面に押し出される。「動物相」では先日再び手に入れた『ことばの食卓』で挿画を手がけた野中ユリや、これから渋谷で観ようとしている展示でその作品にお目にかかれるであろう合田佐和子の絵があった。赤木仁のぱっきりしたキュートな鹿の絵はピロスマニの描く鹿を思い出させる。あと先日見逃してしまい悔しい思いをした勝本みつるのオブジェ、少しだけだけれど観ることができて嬉しかった。作品集がほしい。佐内正史の「ラレー」を観ていたら「カレーとラーメンはいつだって食べられる」と言った友人の顔が浮かんできた。傘をさして渋谷に移動し、ポスターハリスギャラリーで「寺山修司と天井棧敷◎ポスター展」。きょうは修司忌! ということで入場無料。銀座線に乗って表参道へ。ずっと食べたかったはらロールでロールケーキを食べる。ケーキはふわふわ。フレッシュなりんごジュースも美味。スパイラルにて「平出隆 FOOTNOTE PHOTOS」。平出隆の『葉書でドナルド・エヴァンスに』抄と、その旅行時の写真を照らし合わせながら観ていくもので、時間も集中力も必要だった。観終わったときにはぐっとこみあげるものがあった。呼びかける言葉のやさしさ。観ているあいだずっと、わたしの前には平出隆の言葉と写真が、後ろには展示を観るともなしに観るカップルや友だち連れが絶え間なく喋りながら通り過ぎていって、2つの世界が同時進行していることを不思議に感じていた。
お寿司を買って帰宅。

Saturday, May 5

朝、『新潮』2012年4月号と平出隆の展示を観たあと我慢できずに買ってしまった『カフカが泣いたホテル』を読む。朝5時をまわって、外はもうすっかり明るい。今年のGWは前半は天気良好、後半はどうだろね、という感じで、予想どおりきのう、おとといと雨が降ったわけだけれど、きょうはわたしが一日外で過ごす日であるゆえさすがに輝かしい晴天だ。自他ともに認める晴れ女ここに極まれりと奢りつつ自惚れつつクイニーアマン、マヨネーズ味のチキンがのったパン、珈琲で朝ごはん。

大好きなフリマ仲間とフリマに出店側として参加。ここ数ヶ月の自宅と実家の片づけはこのフリマのためということもあったのだけれど、いまはなき『TITLE』とかいまもあるけど古い『Casa BRUTUS』とか初期の頃の貴重な『クウネル』とか、目玉商品はほとんど一昨年と昨年のフリマで売ってしまったため、今年はあまり売れる自信がなかった。それでもフリマは母が好きだったため幼い頃から、まだみんなが“フリーマーケット”というよりは“ガレージセール”と呼んでいた頃から出店者として参加していたので、わたしはフリーマーケットの雰囲気がとても好きだ。肝心なのはお店側になること。お客として買いに行くことはそれほど興味がない。

貨幣を得ることを目的としていないため、開店直後からうちの店はすでにそこそこの商品に対しても3桁の値付けで、ほかにそんな店はない。ほかの店が3桁で売る頃には2桁で売る。いつだってうちが底値。そのせいかありがたいことに商品はほぼ完売し、破格の安さでコルビュジェのDVD-BOXも購入し、満足。また来年も、と言いたいところだけれど来年はあるのだろうか(売る物が)。一日中屋外にいると疲れる。ぐったりして帰宅するも疲れた身体に鞭打って食材と花の買い出しに。きょうはカルセオラリアとマトリカリアを買った。呪文のような花の名前。

夜、ごはん、長ねぎの味噌汁、かんぱちといさきのお刺身、蒸したかぼちゃ、塩辛、ビール。定期購読している冊子を一ヶ月遅れで読んでいる。『みすず』2012年4月号を読んで就寝。

Sunday, May 6

朝、『新潮』2012年4月号の続き。おとといに逆戻りしてしまったかのような曇り空を見上げながらバゲット、ヨーグルト、珈琲の朝ごはん。

食後、久しぶりに『Herstories 彼女たちの物語』(榎本正樹/著、集英社)をぱらぱらと捲って柴崎友香のところを読み返した。ふだん、ブログやTwitterを見ていて、いい文章を書くなあとかいい本読んでるなあとか思う男性はみな、柴崎友香を読んでいる。もちろんそうした女性であっても読んでいるのだけれど、なにやら男性が目立つ。わたしは読まず嫌いといえる作家がわりとというかけっこういて、実は柴崎友香がその筆頭で、どうしても一冊読み終えたことがなく、毎回途中で挫折してしまう。もしかしたら、と思い当たる原因がふたつあるので、それがクリアできれば読める気もして、というか絶対好きなはずで、読まず嫌いというのは本当は正確ではないかもしれなくて、読みたくてたまらないのに、読めない。小説を書くにあたってのこの作家の思想や嗜好に対しては、「地理が好き」だとか「粗筋が書けない話を書きたい」だとか「目に見える世界そのものの美しさを書きたいという思いが強くあって、それがたとえば車内から見る光だったり一瞬の風景だったり」だとか極めつけは「『ショートカット』ぐらいから語り手=カメラに徹する気持ちが強くなってきました。この作品でも、自分の目がビデオカメラになればいいと思って風景を描写しました」だとか、わたしは小説を書けるわけもないし書いてみようとも思わないけれど、無条件にいいなあと思うし、この本だけでもこうした数々の共感ポイントが得られるのだからいはんやほかの書物をやであろう。まあこのインタビューは2007年のものであるから、いろいろ状況も変わってきているかもしれないし、そもそも柴崎友香の本当の魅力は違うところにある、と考える人もいるだろうけれど、そのへんはわたしはさっぱり不案内だ。ちなみに

小学校の頃、よく再放送で時代劇を観ていて、中でも『大岡越前』がいちばん好きでした(笑)。ディテールは覚えていないのですが、見栄っ張りの人物が嘘をついたために騒ぎが大きくなって、それを収拾するだけの話の回があったんです。その時に「人を斬らなくても時代劇ってつくれるんや」と思って、感動したんです(笑)。

とも柴崎友香は語っていて、これはわたしも記憶にある。『大岡越前』だったか『水戸黄門』だったか『長七郎江戸日記』だったか定かではないけれど、きょうは剣戟のシーンがないのか! と驚いたことがあった。時代劇といえば、わたしは断然『三匹が斬る!』(もちろん初代の)が大好きだった。

きょうもきょうとて街へ出る。清澄白河まで出向いて、前々から気になっていたhane-cafeでタコライスとカレーライスのハーフ&ハーフ、桜とベルギーチョコのアイスクリーム、珈琲でお昼ごはん。ミニチュアの飛行機や航空会社のポスターがところ狭しと置かれているが、わたしをもっとも興奮させたのは本棚に並んだANAの機内誌『翼の王国』のバックナンバーだった。店内の雰囲気も本当に清潔で気持ちがよかった。

「しまぶっく」、「eastend TOKYOBOOKS」と、古本屋ふたつ。東京都現代美術館にて「田中敦子 アート・オブ・コネクティング」「靉嘔 ふたたび虹のかなたに」を鑑賞。田中敦子のひたすら円の描かれた作品群を観ていると否が応でも草間彌生を想起してしまうが、展覧会図録におさめられていた、東京都現代美術館のキュレーターである長谷川祐子のテキストでは「草間がひとつひとつの水玉に生物的なアニミスティックな生命感を自分の分身のように与えていったのに対し、田中の円の反復はすぐれてシステマティックなものだった。そこには草間のような自己言及性や直接的なパフォーマテヴィティの反映はなかった。田中は光の明滅のプログラムを色、速度、関係性の係数を円と線におきかえ、自己の記憶としてそのつど再生しなおしながら、世界に存在しうる多様な「関係性」のメタファーとして描いていった。」と言及されていた。

地下のレストランにて一杯のワインで喉を潤す最中に激しい雨。やんだところでそそくさと外に出て、木場公園を散歩するも、本当は5月の木場公園というのはもっともっと日の光が降り注いでもっともっと緑が眩しい場所なのだ。本当は。今年は天気が悪すぎる。

夜はハヤシライス、カマンベールチーズ、赤ワイン。明日からはまた勤労。