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Monday, April 16

きわめてめずらしいことに朝の通勤電車がすいていたため『装幀のなかの絵』(有山達也/著、港の人)を読む。美術同人誌『画家のノート 四月と十月』の文庫シリーズのなかの一冊で、『四月と十月』から文庫が出たときいたときにはたいそう驚き、ついに文庫ブームが来たのか? みすず文庫や未知谷文庫が誕生する日も遠くないのであろうか! と興奮したものの、その後、(残念ながら)目立った動きはないようだ。 それにしてもいつも本を持ち歩いているくせにいつもいつも栞をわすれがちで我ながら呆れる。栞は代々木上原にある古書店「ロスパペロテス」のものがいちばん好きだ。看板犬のトロくんのイラストが描かれていて、そのイラストは和田誠の手による。栞がほしいがために行きたくなるといっても間違いではないお店だが、もちろん品揃えも素晴らしく、前回行ったときはウィリアム・エグルストンのまだ観たことのない写真集が置いてあった。財政上の理由から泣く泣く購入を断念したけれど。

Friday, April 20

『ひとつの町のかたち』(ジュリアン・グラック/著、永井敦子/訳、書誌心水)を読んだ。著者が高校時代を過ごしたフランス西部の都市ナントについての回想が綴られるが、センチメンタルな思い出や、友人、近親者の話などは一切なく、年代や地形が秩序立てて並べられたりもしておらず、しかしそれが、訳者があとがきで書いているように

時制も半過去を使って過去を物語る箇所や、複合過去で現在の視点から過去を分析する箇所、現在形で現在の町の様子が記述される箇所などがモザイクのように組み合わされていて、何かひとつのことが話題になったかと思うと、それが終わっているのかはっきりしないまま他の場面や回想に切り替わっていることもある。各章の主題の要約も困難だ。この散歩コースの往復のようなゆるやかな語りの枠は、物語的な構造を持たない作品にかろうじて一定の秩序を与え、決められた道筋という緩い秩序をたどりながら、意識や想像がそこから外れてゆくときの感覚や精神の動きを読者に伝えている。

わけでジュリアン・グラックの愛読者を裏切らない。かつ、

ところどころでエロン島やボーリウ島(その頃東側はまだひどく荒涼としていた)などの島に分かれ、堤がなく見晴らしのよい、冬にはよく霧の立つ広大な芝地のあいだを、釣り人ひとり小舟一艘もなく流れるまったく田舎じみた川。その川はこの半ば浸水したオランダ風ナントの、ゼーラントのような分流がつくる沼地がちの迷路のなかで、やがては無人と化す覚悟を決めているように見えた。私は町の川ぞいの、このオランダ的な光景が好きだった。私たちはときどき木曜の散歩でいっときその緑のなかへ、ありあまる孤独のなかで腹這いになる家畜の群のなかへ送りこまれた。そのモーヴの草地で、ある日の午後丈高い草に寝そべり草地をすれすれに流れるロワール川をながめながら、私の心はふいに不思議な静寂主義的啓示に照らされたのだった。ここにいるかよそにいるかは完全にどうでもよく、同時にそれが完全に満ち足りて心地よく、すべての場所とすべての時のあいだに瞬間的な情緒が成立し、空間の広がりと時間とがどちらも融合の普遍的なありかたのひとつのような感じか、少なくともほとんどそれに近い感じになったのだ。(p.132-133)

とか、

私は子どものときにサン=フローランのエヴル川の舟遊びで感じた喜びを思い出していた。それは水の流れをたどって騒音や自動車道路から離れた小さな谷のまんなかに行ったときに生まれる、庭の小道を歩く人の気持ちに近い親密な感じだ。一帯の水を集め、一帯の液体的な精髄を静かに流出するような流れにそって、はじからはじまでその風景をたどってみたことがない人は、決してその風景の核心まで本当に入り込むことはできないし、一瞬たりともそれと一致することはない。(p.151)

とか、

初めて気づく早朝の通りの虚空が、私には魔術的に見えた。不思議なくらい爽やかで静かで、家族が目覚める前に庭の湿った小道を歩く人のように、私は町を歩いた。モラン橋に着くと、タヌール河岸とオルレアン河岸を通った。フェイドー島を渡ったとき、私の右手で黄色みを帯びたばら色の一筋の太陽の光が、建物の正面の一番上のへりにさした。(p.204)

とかいったくだりでは、抒情あふれる甘美な言葉の連なりとイメージの氾濫により幸福な読後感がもたらされるのだった。

Saturday, April 21

週末、平日よりも早起きしてしまうわたしは子ども。朝5時からヨーロッパの映像をYouTubeでいろいろ観ていい気分だ。地図を眺めるのが好きで受験生の頃はそうそう行けなかった鎌倉の地図や江の電の路線図をえんえん眺めているだけで救われたものだった。いまはGoogleマップで都会から離れた草地や畑のなかにある街や村を眺めるのが好きで、だいぶ前にどこかの孤島をいつものように眺めていたら突然遊園地があらわれて、たしかオランダの小さな島だったと思うのだけれどいまいくら探しても見つからない。こんなところに遊園地があるわけがないと不思議で仕方なかった。遊園地ではなかった、という話もあるかもしれない。

銀座のヴァニラ画廊で「エクスリブリス・コンチェルタート ~日欧幻想蔵書票展~」。蔵書票はエロチックなものだとわかってはいたものの、展示作品の、これでもかこれでもかのエロさに頭がくらくらしてきてしまう。でも初のヴァニラ画廊訪問としてはうってつけの展覧会のセレクトとなったのでは。とってもヴァニラ画廊らしい。有楽町のロフトでものすごく久しぶりにSX-70のフィルムを買った。せっかく持っているポラロイドにもっと出番を与えたい。でも与えすぎると間違いなく破産してしまう。フィルム代。銀河鉄道銀座線に乗って表参道で下車し、スパイラルにて「細倉真弓個展 KAZAN」。展示数が少ない。もっともっと観たかった。近くの中華料理店で夕食をとってから、シアターイメージフォーラムでレイトショー。『メランコリックな宇宙 ドン・ハーツフェルト作品集』。マックス・ゴールドバーグという映画批評家が「スタン・ブラッケージとチャールズ・M・シュルツ(『ピーナッツ』)の霊を、ほぼ同分量チャネリングできる映画作家がいると言ったらどう思うだろうか」というコメントを寄せていたのをきっかけに観たいと思った。スタン・ブラッケージの『DOG STARMAN <完全版>』(1961-64年、アメリカ)は2000年代初頭あたりに六本木だか中野だかで観ていて、観た時期とかかっていた映画館と、おまけに作品の内容も朧げなのだけれど、その、観たという体験をすごくよく憶えていて、この『DOG STARMAN』は無声映画であるため、上映時間の78分間、映画館のなかにはフィルムのまわされるカタカタカタという音が微かに聞こえているだけだった。萩原朔美は『DOG STARMAN』のことを「フィルムのマチェールを感じさせるのが、ブラッケージの作品だ。『ドッグ・スター・マン』の魅力もそこにある。フィルムがキャンパスの布に思えてくる不思議さ」と評しているのをこのたびwebを探ったところ知ることができ、ドン・ハーツフェルトもまさしく手で直接線を描いてアニメーションをつくりだしていて批評家はその観点からもあれやこれやと考える道筋を与えてくれるのでそれをいま、ひととおり読んでいる。

Sunday, April 22

『季節の宴から 辻邦生第四エッセー集 1974〜1975』(辻邦生/著、新潮社)読了。今年の四月は例年にくらべて雨も多くて肌寒く、「暑さ寒さも彼岸まで」という言葉も通用しなくなっている気がしてならない。完全に一ヶ月ずれている。でも三寒四温真っ只中のこの時期に、辻邦生の次のような文章を読めたのは幸運だった。

パリでは復活祭がくるまで、季節は何度か冬に逆戻りする。朝、カーテンを開けてみると、灰色の雲が垂れ、薄暗い家々のあいだに冬と同じく石炭の煤煙の臭いが流れている。昨日までつづいていた笑うような明るい早春の光景は嘘のように消えて、外套の衿を立てた人々が陰気に不機嫌に歩いている。私は朝のコーヒーをいれながら、春への希望が微塵に打ち砕かれているのを見て、急に意気沮喪する。前の日まであれほど自信に満ちていた作品の計画さえ色褪せた、つまらないものに見えてくる。私は溜息をついて、枯れた並木のつづく石だたみの道を見下ろし、見せかけの春に欺かれた自分の軽率さを嘲笑したいような気持になる。そんなとき、窓の上のあたりで鳩が甘い温かな声で「くう、くう」と鳴くのを聞くのである。それは冬には絶対に耳にしなかった、楽しげな春の先触れの声なのであった。次の瞬間、私の心は、急に日が射してきたように明るくなる。「やはり春は来ていたのだ。もう冬は終ったのだ」私は思わず声をだしてそう叫ぶと、図書館をめがけて駆け出していったものであった。(p.298)

図書館めがけて、というのがいいですね。ちなみにこれはあとがきだが、あとがきもひとつの章として扱えるくらいの存在感。

夜遅く、ずっと読みさしのまま置いておいた『河・岸』(蘇童/著、飯塚容/訳、白水社)を読んでしまおうと読み出したら面白くてとまらず、眠気も吹き飛ばして読了。ひさしぶりに物語らしい物語を読んだ。活劇、と呼びたくなる。そしてすごく現代的。現代の文学だ。