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Tuesday, October 16

『ブルーノ・シュルツ 目から手へ』(加藤有子/著、水声社)。ブルーノ・シュルツは小説を執筆しはじめるまで画家として活動し、作家となってからも画業を打ち切ることなく自作に挿絵を描きつづけた。シュルツの絵画についてはこれまで物語を説明する補完的な位置づけとして扱われがちだったのに抗って、画業がけして副次的なものでなく、彼独特の「書物」をつくりあげるうえで、テクストのみならずイメージが重要な役割を果たしていることを示したのが本書。たとえば、つぎのように。

作品はテクストでも挿絵でもない。テクストを書き、挿絵を描き、それらを組み合わせて本を構築するところまでがシュルツにとっての、そしてシュルツの行なった仕事であり、作品である。/挿絵はすべて残った。しかし、それを読者が読みとらなければならない。使い古しの広告を〈書物〉と認めた語り手や、〈書物〉の読者のように、イメージとテクストを一冊の書物として体験することで書物は複層的に意味をあらわにする。従来、挿絵はテクストの再現的模倣像として、一枚のイメージと一冊のテクストの対応として、本の空間から抽出可能なものとして理解されてきた。シュルツの挿絵はその理解あるいは定義を刷新する。テクストの単なる再現表象を越えたイメージによるテクストの内容の実践あるいは実演、そして複数の挿絵の配置による意味の生成という点で、シュルツの自作の挿絵は書物という空間、そのなかでの挿絵と文字という要素の利用の可能性を拡大している。テクストと挿絵は一冊の書物という構造体の要素なのであり、一冊の書物のなかでそれらが相補的にメッセージを立ち上げ、複層的に伝達する。

あるいは、別の章にある、シュルツの作品のなかにゲーテの、トーマス・マンの、カフカの声を聴きとりながら先行作品からの「影響」を論じ、みずからの方法論にきわめて意識的であった作家の姿を浮かびあがらせているあたりの論旨もとても興味ぶかい。たとえば、つぎのように。

シュルツは既にある作品の要素を取り込み、文学作品がひとつの作品に閉じてはいないことを読み取れるように作品を構築している。それは、単に別の作品を参照させるという一方的な記号的関係ではない。独立した作品の世界を一つの物語に接続する結節点として、シュルツは「祖型」を利用し、先行する作品の特徴的な名前を用いる。/これまで「影響」や「類似」は、シュルツの独創性を否定するかのごとく、シュルツ論では副次的に個別に指摘されてきた。しかし、この個々の「類似」こそ、実は「大いなる統合体」という自身の抽象的な文学像を実現するための操作の結果なのである。「影響」はシュルツの言葉で言うところの「現実の神話化」の操作によって顕在化している。

ここまで読みすすめれば、『シュルツ全小説』(工藤幸雄/訳、平凡社ライブラリー)でシュルツ作品にはいちど目を通しているとはいえ、どうしたって新品で購入すると一万八千円弱もする函入りの書物『ブルーノ・シュルツ全集』(工藤幸雄/訳、新潮社)が欲しくなるというもの。アマゾンでも古書でさらっと買えはするものの、全集が置いてある古本屋の実店舗を二軒、私は把握しているのだった。一箇所は東京荻窪のささま書店、もう一箇所は名古屋のシマウマ書房。古書でも結構な値段がついているのでそう簡単に動く本ではないだろうから、まだ売れていなければ、あの棚とあの棚にあるはずだ。近いうち、私は東京方面のその棚を動かすだろう。

夜、白米、辛子明太子、茄子と葱の味噌汁、鮎の塩焼き、冷奴、もやしのナムル、枝豆入りツナサラダ、麦酒。

Wednesday, October 17

『ナボコフ 訳すのは「私」 自己翻訳がひらくテクスト』(秋草俊一郎/著、東京大学出版会)。ナボコフ作品の英語版とロシア語版を周密に読み解いてゆくさまは、これぞ研究、という肌ざわり。

夜、白米、茄子と豆腐の味噌汁、豚肉のしゃぶしゃぶとキャベツと黄パプリカを胡麻だれで、冷奴、麦酒。

Thursday, October 18

『ロシア・シオニズムの想像力 ユダヤ人・帝国・パレスチナ』(鶴見太郎/著、東京大学出版会)。こちらもこれぞ研究、という書物。シオニズムに関する知識がいまからもう十年以上前の学生時代に読んだ『見えざるユダヤ人 イスラエルの「東洋」』(臼杵陽/著、平凡社)あたりで止まったままインプットを怠り続けている浅学の身にはいろいろと勉強になることだらけ。

夜、白米、人参と玉葱の味噌汁、ズッキーニとキャベツとしめじのガーリック炒め、秋刀魚の塩焼き、レモン、麦酒。

Friday, October 19

ここ数日間は学術書読みがつづいたので、気分を変えて『あたらしい日用品』(小林和人/著、マイナビ)を読む。著者が吉祥寺にある店「Roundabout」の店主であることは、『東京てくてくすたこら散歩』(伊藤まさこ/著、文藝春秋)で紹介されたのを記憶していたのですぐに合点がいったのだが、ぜひ一度訪れてみたいと思いつづけながらいまだに店舗に足を運んでいない。というより、私は生まれてから一度も吉祥寺に行ったことがないのだが。