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Monday, July 30

「興味がない」とひとが口にするとき、それはある種の態度表明である。本当に心の底から無関心な対象にむけて、興味がないとわざわざ宣言するのは稀である。たとえば「グルタミン酸デヒドロゲナーゼに興味がない」という発言が日常的に出現する可能性はいちじるしく低い。わざわざ言わない。ゆえに、わざわざ言うのは、単純な関心の有無以上の意味を含んでいる。関心のない対象が(自分にとって)関心のない場所に留まってくれているかぎり、興味のありなしを示すには及ばない。興味がないという発言が生まれるのは、自身の認識領域のうちに、本来は無関心であっただろう対象がどうしたって関心を向けざるを得ないようなかたちで、鳴物入りで介入してくる場合である。芸能的なトピックやスポーツの催事において興味のありなしの言説が頻出するというのは、鳴物入りであるという要素が大きい。そして、メディアとりわけテレビジョンという装置の存在が、興味のありなしの感情を逆撫でする。ところで私はオリンピックに興味がない。

夜、茄子とパプリカと玉葱とベーコンと小松菜を和えた蛤のパスタ、冷えたボルドーの白ワイン。食後に『ゲンズブールと女たち』(ジョアン・スファール監督、2010年、フランス)を鑑賞。

Tuesday, July 31

『川の光 外伝』(松浦寿輝/著、中央公論新社)を手に取るに至ったのは松浦寿輝の妻が書いているブログに導かれたからで、ブログという情報発信媒体を一時期に較べてまったくといっていいほど読まなくなってひさしいなかで更新を愉しみにしている数少ないブログのひとつがこの「川の光日記」なのだけれど、愛玩する動物を中心とした牧歌的な身辺雑記と配偶者が讀賣新聞紙上に連載している小説についての広報的なエッセイを基本としつつも、なんというか滲み出る知性とユーモアがぐいぐいとこちらのつぼをついてくる。自身のツイッターで「フォロワーが体験したことが無さそうな体験」というハッシュタグをつけて「日仏学院の階段をものすごい勢いで降りてきたミシェル・フーコーに激突しそうになったことがある」と記すひとのテクストから目を離すわけにはいかない。

夜、白米、茄子と油揚げと葱の味噌汁、鯖の塩焼き、ひじきの煮物、卵焼き、葱と生姜の冷や奴、ミニトマト、ビール。

Wednesday, August 1

『20世紀からのファッション史 リバイバルとリスタイル』(横田尚美/著、原書房)を読む。夜、白米、しらす、人参ともやしの味噌汁、鰺のひらき、大根おろし、胡瓜とトマト、茗荷と生姜の冷や奴、ビール。

Thursday, August 2

夜、イエローカレーとヒューガルデン。

Friday, August 3

青土社の雑誌『現代思想』の編集後記をまとめた『現代思想の20年』(池上善彦/著、以文社)を読みながら、この雑誌を購入して読んでいたのは一九九九年六月のスピヴァク特集から二〇〇一年一〇月のオートポイエーシス特集までというわりと短い期間だったことに気づく。編集方針の重点が多分にネオリベラリズム批判に置かれていたことを懐かしみながら、それとはじぶんの思考はいくぶん距離をとっていたのを思い出すなかで、しかしながらつぎのような文章はいまでも犀利な筆致として響く。

「老人雇用開発協会」なる組織があるということが電車内の広告に出ていた。実際何をやっている組織なのか一向に知らないのだが、みんなもっと驚き、あきれ果てるべきなのだ。例えば「開発」という言葉づかいに対して。そして先日テレビのインタヴューに答えてあるNGOの理事が、「うちには優秀な(人的)資源が豊富ですから」、といっていた。一体われわれは石炭なのだろうか。人はいつからこういう言葉に驚かなくなってしまったのだろうか。(「グローバリゼーション」)

先月テレビのニュース解説番組で「就職も進学もしない若者が増えている」というタイトルで放映していた。今年高校を卒業した若者がインタヴューに答えて「何もすることがないです」と言っていた。昼間ゲームする姿が映り、隣で父親がため息をつく。彼は月十二万円で深夜のコンビニでバイトしているとさりげなく映像が映る。キャスターと解説者はこれを見て、覇気がないですね、若者はもっとチャレンジしなくては、となげく。そして最近こういう若者が多いと。
このさりげない番組に現在という時間が集約されている。一体、彼は無気力で現代の病におかされているのだろうか。豊かさの果ての地獄絵図なのだろうか。番組はそういいたげだ、しかし、まったくそれは違うのだ。彼は働いているのだ。コンビニに就職しているのだ。年収一五〇万円で。なのに彼は働いていることに一切なっていない。彼の労働はまったく無いことにされているのだ。誰一人ひどいとは言わない。コンビニ等で例えば外国人等と低賃金競争に巻き込まれ、さらに次の段階で、おそらくは彼の一〇倍以上は年収のあろう人たちによってたかってそのことは無いことにされ、さらに個人の病のせいにさせられている。何かあって人は働いたりするわけでもなかろうに。(「変容する空間」)

Saturday, August 4

八月の酷暑のなか木場なり清澄白河なりの地下鉄の駅から徒歩で東京都現代美術館に赴くのは心身ともに大いなる疲弊を免れないから、東京駅からバスで三〇分ほど揺られて「Future Beauty:日本ファッションの未来性」展に向かう。本展のディレクションは安心の深井晃子。ファッションの展覧会だけあって鑑賞に訪れる人の服装もおしゃれ。しかしそんななかで、近所のコンビニに酒のつまみでも買いに行きそうな格好をしたやや場違いな雰囲気をまとう中年男性がひとりいたのだが、その人がファッション関係の学生っぽい鑑賞者よりも遥かに熱心に展示を見入っていたのが印象ぶかい。あの人は何者か。

東京都現代美術館は毎年夏になるとあきらかに家族連れなどの集客を狙う企画展を実施しているが、はたして「現代美術」館としてそれはどうなのかと軽く思うものの、講談社が漫画雑誌を大量に捌くことで学術文庫と文芸文庫を維持している(かどうかは知らないが)のと相似的な事態だと考えれば合点がいく。

ふたたびバスで丸の内に戻り、オアゾの食事処でとんかつと温野菜の定食をたいらげてから、丸善でじきに閉店するという松丸本舗を遊覧。銀座に移動して買いもの。帰宅後、遠くの夜空に見える花火を眺め、夜は素麺と枝豆とベルギービール。

Sunday, August 5

朝食は、鮭のおにぎり、レタスの味噌汁、ひじきの煮物。最新号の『みすず』(みすず書房)を読み終えてから、炎天下のなか近所の焼肉店にお昼ごはんを食べにいく。立ち寄った図書館の雑誌棚を前にしたら『週刊東洋経済』(東洋経済新報社)が読書の特集を組んでいて、企画としての目新しさは皆無だがそれなりの売れ行きは確保できるだろうという編集部のさもしい姿勢が透けて見える意味でビジネス誌における本の特集は女性誌における占い特集と同等の浅薄さを感じるのだが、それはともかく佐藤優がインタビューで知識人の家には三、四千冊の蔵書があると述べていて、正確な数を勘定したことはないものの自宅の本棚を思い起こしてみれば少なくとも千冊以上はあるだろうが三千冊などとてもないので、ちょこっとインテリとして今後も生きていく所存である。

インテリアに東欧の香り漂う近所の居心地のよいカフェで珈琲とケーキ。魚屋と八百屋と花屋で買いもの。

『80年代アメリカ映画100』(北沢夏音/監修、渡部幻/主編、芸術新聞社)をぱらぱらと読んでいたら、掲載されている映画のうち観たことのあるのはわずか十本。