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Monday, May 7

いろいろと興味ぶかい指摘が盛りだくさんの與那覇潤『中国化する日本 日中「文明の衝突」一千年史』(文藝春秋)であるけれど、著者が強調したいと思われる箇所がわざわざ太字で印字されるという、どうにも安っぽいビジネス書風情をまとってしまう事態が気になりつつ(意図的かもしれないが)、さらにはあきらかに笑わせようとのたくらみが透けてみえるネタとして記述された箇所もまた太字になっていたりして、テキストでボケる場合には太字などの装飾をできるかぎり排除したほうがより効果的ではないかという何の益にもならない意見をしたくなりつつ読了した。

夜、鶏塩味のつけ麺、ビール。

Tuesday, May 8

「東京都写真美術館」で見た「幻のモダニスト 写真家堀野正雄の世界」をきっかけに飯沢耕太郎や金子隆一らによって1980年代に「再発見」された写真家についてくわしく知りたくなる。会場のパネルで「戦後になって写真家としての活動を断念した」と説明されていたその理由が気になって『幻のモダニスト 写真家堀野正雄の世界』(東京都写真美術館/編、国書刊行会)を手にとってみたのだが、なにゆえ堀野正雄は写真家という職を放棄してしまったのかはいまいち判然としない。写真家としての仕事を得ることができなかったとあるけれど、戦前の豊潤な仕事をこうして展覧会で眺めてみれば戦後突如として一切の仕事がなくなるとは考えづらい。しかしながら金子隆一の執筆した評伝を読んでも、

なぜ写真家としての仕事を得ることができなかったのか、と本人に尋ねたことがあったが、そのことについて一切語ることはなかった。

とあるだけだし、もう少し突っ込んだ記述をしている戸田昌子の論考(「「女性美」から大陸への道程」)に目をとおしても、戦前の日本政府の対外戦略に積極的に加担したという写真家の伝記的事実を踏まえて、

たしかに、名取洋之助や木村伊兵衛のように、日本工房や東方社といった、直接の国の組織でない団体に所属して国策宣伝に関わった報道写真家たちの戦後の転身が比較的可能であったのに比べ、陸軍報道部という国に直接雇われる形で対外宣伝に関わった堀野の転身は難しかったという現実はあったのではないかと推測される。

と分析されるものの、「しかし事実は闇の中だ」と疑問が明晰なかたちで解消されるわけではない。なにより異様だったのは本書についている堀野正雄の年譜で、1952(昭和27)年のつぎがいきなり1989(平成元)年。あいだの37年間の記載が一切なし。

夜、たらこと大葉をオリーブオイルとバターで和えたパスタ、赤ワイン。

Wednesday, May 9

何気なく何年ぶりかに『現代思想』(4月号、特集=教育のリアル、青土社)をひらいてみたら、立岩真也の連載「家族・性・市場」がまだつづいていた。

ちびちびと読みすすめていた「ジャン=リュック・ゴダール二万字インタビュー」とでもいった趣の『ゴダール 映画史(全)』(奥村昭夫/訳、ちくま学芸文庫)をようやく読了。費やされる言葉の量は二万字どころではないけれど。原書は1980年、単行本の邦訳は1982年なので巻末のフィルモグラフィーは『パッション』で止まっている。

ハリウッド映画がいたるところでみられているという事実のなかには、真実のなにかがあります。真実なのは、ハリウッドの映画がいたるところで見られているということです。だからそこには真実のなにかがあるわけです。

夜、白米、ちりめんじゃこ、油揚げと葱の味噌汁、秋刀魚の塩焼き、大根おろし、小松菜、生姜と大葉の冷や奴、ビール。

Thursday, May 10

刊行を知らせる広告を目にしてからずっと読もうと思っていた『金融危機とマクロ経済 資産市場の変動と金融政策・規制』(岩井克人、翁百合、瀬古美喜/編、東京大学出版会)に目をとおす。最後の「総括と展望 残された研究課題は何か?」で岩井克人が、

流動性それ自体を創り出す市場としての金融市場の不安定性と実体経済全体のマクロ的な変動との相互連関を分析すること——これが、これからのマクロ経済学の最大の研究課題となるはずである。それは、1970年代以前のマクロ経済学——マクロ経済学をミクロ経済学の単なる集計モデルに還元してしまう新古典派経済学の支配が確立する以前のマクロ経済学——の問題意識に、もう一度戻ることでもある。

と述べながら「わたし自身のそのような試み」として挙げているのが『二十一世紀の資本主義論』(筑摩書房)だったので、本棚にしまってあった本書を抜きとり再読してみたところ、岩井克人の頭のよさにあらためて感服する。ここでいう「頭のよさ」とは展開される所説の妥当性を問うことではない。たとえばグローバル市場経済の危機として『二十一世紀の資本主義論』で中心的に論じられているのはドル(基軸通貨)の危機である。この論について賛否の評論はいくらでも可能であるにちがいないが、それよりなにより12年前にこの本を読んで唸ったのはもっと原理的なレベルの話について、俗論を一蹴するつぎのような箇所だった。

理論の正しさは経験からは演繹できない。いや、経験から演繹できるような理論は、真の理論とはなりえない。真の理論とは日常の経験と対立し、世の常識を逆なでする。それだからこそ、それはそれまで見えなかった真理をひとびとの前に照らしだす。
世間にひろく流布している経済学批判の多くは、まったくの的外れである。それらはたんにひとびとの日常的な経験をそのままくり返すだけの批判でしかない。いわく、現実の人間は経済学が想定しているほど合理的ではない。いわく、現実の人間は経済学が想定しているほど利己的ではない。いわく、現実の市場における価格は経済学が想定しているほど自由に上下しえない。いわく、現実の市場における資本や労働は経済学が想定しているほど自由には移動しえない。いわく、……。それらは、真の理論とはなにかということを理解しておらず、したがって、アダム・スミスの偉大さも理解していない。

夜、白米、辛子明太子、油揚げの味噌汁、豚肉と茄子とピーマンと葱の炒めもの、ほうれん草のおひたし、蒸し南瓜、ビール。

Friday, May 11

大澤真幸『〈世界史〉の哲学 古代篇』(講談社)を読んでいる。ページ数が全体の半分に届いたあたりで「第三者の審級」という語彙が出現したことをここに報告しておきたい。

夜、ほうれん草、万能ねぎ、大根おろし、生卵をのせた温かいうどん、ビール。

Saturday, May 12

東急東横線に揺られて渋谷からみなとみらいまで。「横浜美術館」で「マックス・エルンスト フィギュア×スケープ」展を鑑賞する。松井冬子の展示のときのあの賑わいはどこにいってしまったのかと思う祭りの後のような動員数で、絵画や彫刻や印刷物など多岐にわたる作品を残したエルンストは紅白歌合戦のゲスト審査員もやっておいたほうがよかったかもしれない。

みなとみらい線で日本大通り駅に移動して「チャラン・ポラン」で昼食。「フランス人日本料理愛好家チャラン・ポランが考える日本のごはん屋さん+α」というどこまで信用したらよいものか判然としない店のホームページに記載の紹介文をたよりに、昭和6年頃の竣工という古いビルの二階へ向かう。味噌汁つきのおばんざいプレート(しらすと大葉ごはん、豚メンチ、切干大根、かつお時雨煮、木くらげゴーヤほうれん草おひたし、キングサーモン幽庵バター)を焙じ茶とともに。窓から見える「象の鼻パーク」には林檎のかたちをした赤いバルーンが浮かんでいた。

横須賀線で品川までぐぐっと北上し、「原美術館」で「杉本博司 ハダカから被服へ」展へ向かう。展覧会のカタログが945円という杉本博司にまつわる価格としては最安値ではなかろうかと思われるのを理由に購入。館内の「カフェダール」で休憩。今夜はコンサートがあるらしく中庭に置かれたピアノ周辺で準備に急がしそうな渋谷慶一郎とスタッフの様子を眺めながら、スパークリングワインを飲む。

ちくま文庫のカレル・チャペック旅行記コレクションは『イギリスだより』と『チェコスロヴァキアめぐり』の二冊が自宅の本棚に収まっているところで、品川駅の本屋「WALL PAPER」に残りの『スペイン旅行記』『北欧の旅』『オランダ絵画』だけが幸か不幸か置いてあったのでいきおいで大人買い。いちど図書館から借りだして読み終えている本だけれどなんとなく手元においておきたい気分が強まって、港千尋『パリを歩く』(NTT出版)も一緒に。

Sunday, May 13

「代々木公園」の「タイフードフェスティバル」訪問。混雑するのはわかっているので午前10時の開始すぎに訪れるものの、もうすでに混んでいた。好天のもと、買い込んだタイ料理を公園の芝生に敷物をしいて食する。タイ料理ミーツピクニック。

帰りに「渋谷ヒカリエ」のギャラリーに立ち寄る。「ダミアン・ハースト New Spot Prints」(8/ ART GALLERY)と「透明な混沌 Crystal Chaos」(8/ CUBE)。殺人的な混雑ぶりの様相を呈している「渋谷ヒカリエ」であるがギャラリーのある8階は比較的空いている。「渋谷ヒカリエ」でトイレに行きたくなったら8階を目指せ。この日記始まって初の有益な情報提供ではなかろうか。それにしてもオープン当初の賑わいが沈静化するとひどく閑散としてしまうのではないかといささか心配にもなる「渋谷ヒカリエ」の8階。

夜、カレーとビール。