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Monday, July 25

蚊に愛されるムヒの手放せない季節が到来。

ホルヘ・ルイス・ボルヘス『詩という仕事について』(鼓直訳、岩波文庫)。ボルヘスによるハーバード大学での講義。単行本として刊行された『ボルヘス、文学を語る 詩的なるものをめぐって』が文庫化されるにあたり書名もあらためられて『詩という仕事について』となったとのこと。『これからの「詩」の話をしよう』とかじゃなくてなにより。引用欲がふつふつとわいてくる卓犖たる言葉がならんでいて、

詩は、ことさら風変わりな何物かではない。いずれ分かりますが、詩はそこらの街角で待ち伏せています。いつ何時、われわれの目の前に現れるやも知れないのです。

とか、

時折りですが、我が家にある沢山の本を眺めていると、読み尽くすことができずに死を迎えるだろうという気がします。しかし、それでも私は、新しい本を買うという誘惑に勝てません。本屋に入って、趣味の一つ――例えば、古英語もしくは古代スカンジナビア語の詩――に関わりのある本を見つけると、私は自分に言い聞かせます。「残念! あの本を買うわけにはいかんぞ。すでに一冊、家にあるからな」

とか、

私はしばしば、自分はしばらく前に読んだものを引用しているに過ぎないことを実感します。そしてそれが再発見にも繋がるのです。詩人というのは、恐らく、無名の存在である方がよろしいのでしょう。

とか、

それまでの私はバイロンを、格別に複雑な詩人であると思ったことはなかった。皆さんご存知の詩行です。”She walks in beauty, like the nigth.” 「夜のように、美のなかを彼女は歩む」。あまりにも完璧なので、われわれはそれを当たり前のことと思うのです。われわれは考えます。「なんだ、こんなもの、その気になっていたらわれわれだって書けたぞ」。しかし、その気になったのはバイロン一人でした」

とか、

「人びとはよく、平易な文体とか凝った文体と言います。が、私はこれは間違っていると思う。肝心なのは、本当に意味があるのは、詩が生きているか死んでいるか、ということであって、文体が平易か凝ったものであるかではないからです。それは詩人しだいです」

とか。

昼休みにサミュエル・R・ディレイニー『ダールグレン』(大久保譲訳、国書刊行会)のつづき。『ダールグレン』でも登場人物たちが詩の話をしている。

夜ごはん、グリーンカレー、麦酒。河童忌の翌日に芥川龍之介を読もうと思って家のなかをさがしたらあれほど好きだった芥川の本が一冊もなくて本棚のまえに凝然として立ち尽くす。処分した記憶はないのだが、ない。『新潮日本文学アルバム』を処分するとは思えないのだが、ない。合点のいかないまま就寝。「眠りは死よりも愉快である。少くとも容易には違いあるまい」(「侏儒の言葉」)

Tuesday, July 26

ジョルジョ・アガンベン『事物のしるし 方法について』(岡田温司+岡本源太訳、筑摩書房)。読んでいてよくわかる箇所とわりとわかる箇所とあまりわからない箇所とさっぱりわからない箇所がある。訳者あとがきを読んでいたら、「ちくま学芸文庫」の著者なり訳者なりのあとがきで感謝されまくっていたことでおなじみの筑摩書房の編集者・大山悦子の名が記されており、そしてこの本でもやはり大山さんは感謝されていた。

昼休みにサミュエル・R・ディレイニー『ダールグレン』(大久保譲訳、国書刊行会)のつづき。帰宅途中に新宿のツタヤでCDをレンタル。CDをじゃんじゃか買っていた頃はじぶんのぜんぜん知らない音楽家のものも積極的に手に取っていたけれど、レンタルの場合(レンタルのほうが安くあがるにもかかわらず)どうも既知のミュージシャンの作品ばかり手をのばしてしまうという「保守的」な態度になるのはなぜだろう。

夜ごはん、塩ラーメン、麦酒。

Wednesday, July 27

ツタヤで借りたCDのプラスチックケースはどうしてこんなに途方もない壊れかたをしているのか。

昼休みにサミュエル・R・ディレイニー『ダールグレン』(大久保譲訳、国書刊行会)のつづき。

いま書店をのぞくと原発関連の本が山積みになっているけれど、3月15日の時点でツイッターに「吉岡斉『原子力の社会史―その日本的展開』(朝日選書)って絶版だったかー」と私は書いて、再読しようと図書館で借りようと思って、ちょうどいま原子力発電所の問題がクローズアップされているから予約待ちになってしまうかもと予想しながら近所の図書館で予約したら誰ひとり予約者がなくて、このあっさり借りることのできる状況はどういうことなのかと訝しがりながら『原子力の社会史』を読んで以後、原発関連の議論は等閑視していたのだが、ぽつぽつ取り寄せて読みはじめようとしている。内田樹+中沢新一+平川克美『大津波と原発』(朝日新聞出版)。いきなりへんなのを選んでしまった。Ustreamでの番組を大急ぎで本にしただけあってずいぶん雑なつくりで雑な議論が展開されているのだが、鼎談のなかで中沢新一が「緑の党」のようなものをつくると宣言しているのだけれど、もしもほんとうに実現したならば行く末は柄谷行人のNAMのようになる予感がしなくもない。

夜ごはん、アスパラとほうれん草のパスタ、赤ワイン。

Thursday, July 28

定期購読で届く『装苑』(文化出版局)と『一冊の本』(朝日新聞出版)。

『一冊の本』の金井美恵子の連載は今回、朝日新聞への厭味ではじまり朝日新聞への厭味で終わるのだが、厭味といってもそれは保守派が朝日新聞を批判する際の常套である「偏向」に向けられたものではなくて、ジャーナリストという言葉をつむぐことで金を稼いでいる人間に向けて、あなたにその資格はないよと言っているような厭味であって、槍玉にあげられているのは朝日新聞編集委員の曽我豪なのだけれど、金井美恵子の手にかかるとこの朝日新聞編集委員は言葉に鈍感な通俗ジャーナリストとしか思えなくなるのだから不憫といえば不憫である。

夜ごはん、白米、味噌汁、鯵のひらき、冷奴、キムチ、麦酒。小松左京とアゴタ・クリストフとレイ・ハラカミの訃報。

Friday, July 29

開沼博『「フクシマ」論 原子力ムラはなぜ生まれたのか』(青土社)を読む。池袋リブロに行ったらこの本がずらりとならんでいて、青土社の本がこれほどまでにずらりとならんだ光景などかつてあっただろうかと感慨に浸るわけであるが、ポストコロニアル理論に立脚しながらの福島の原子力発電所をめぐる地域研究は(スピヴァクの議論が引用されたりする)、論文量産の道具として「ポスコロ」と揶揄されたりもしてきたポストコロニアル理論が、こうしたアクチュアルなかたちで意義のある論文として結実したこともまた感慨深いけれど、事態が事態だけに感慨に浸っている場合でもなくて、

原発の危険性をあえて報じようとせず「安心・安全」の大本営発表を垂れ流す旧来型マスメディアへの批判は既にあり、それは今後も追及されるべき点であろう。しかし、一方で、圧倒的な「善意」「善き社会の設立」に向けられているはずの「脱原発のうねり」もまた何かをとらえつつ、他方で何かを見落としていることを指摘せざるを得ない。原発を動かし続けることへの志向は一つの暴力であるが、ただ純粋にそれを止めることを叫び、彼らの生存の基盤を脅かすこともまた暴力になりかねない。そして、その圧倒的なジレンマのなかに原子力ムラの現実があることが「中央」の推進にせよ反対にせよ「知的」で「良心的」アクターたちによって見過ごされていることにこそ最大の問題がある。とりあえずリアリストぶって原発を擁護してみる(ものの事態の進展とともに引っ込みがつかなくなり泥沼にはまる)か、恐怖から逃げ出すことに必死で苦し紛れに「ニワカ脱原発派」になるか。3・11以前には福島にも何の興味もなかった「知識人」の虚妄と醜態こそあぶり出されなければならない。

と、原発の問題をめぐっての言説を全方位的に『「フクシマ」論』は批判する。

夜ごはん、近所のラーメン屋にて。帰宅後、晩酌とともにヘルンハルト・シュリンク『週末』(松永美穂訳、新潮クレスト・ブックス)。

Saturday, July 30

サミュエル・R・ディレイニー『ダールグレン』(大久保譲訳、国書刊行会)が読んでも読んでも終わらないので気分を変えて竹森俊平『日本経済復活まで 大震災からの実感と提言』(中央公論新社)。

夜ごはん、中華粽、葱と豆腐の中華風スープ、麦酒。

Sunday, July 31

朝、『装苑』(文化出版局)をぱらぱらと読んだあと少し眠り足りなかったので仮眠。ユーロスペースに『エルミタージュ幻想』(アレクサンドル・ソクーロフ監督、2002年、ロシア/ドイツ/日本)を鑑賞にいく予定だったので、ソクーロフを観るとなっては寝不足のままではまずかろう。あるいは昼ごはんに、白米、味噌汁、ホッケ、野沢菜とあるところに麦酒とつづかなかったのはソクーロフを観るまえにアルコールを体内にいれるのはまずかろうという判断が働いたからである。ソクーロフ断酒。休肝ソクーロフ。90分超のワンカット長回しの映画を観たあと、渋谷アップリンクに併設するカフェTabelaで麦酒を注文し、ソクーロフ断酒解禁。Flying Booksをのぞこうと思ったら休み。

夜ごはん、蕎麦、ふたたび麦酒。