例外の報道写真

その瞬間、現場にいること。社会的事件の生じた光景をカメラにおさめるフォト・ジャーナリストにとって重要な才能は、撮影のテクニックもさることながら、なにより発生の現場に身をおいているということである。世界は、写真家の都合にあわせて動いてはくれない。動くのは写真家のほうである。すぐれた写真家は、嗅覚を研ぎすまし、予兆を感じとる。事件や事故の発生に居合わせる偶然もなくはないだろうが、あくまでそれは例外的な事象であって、報道写真家たちは報せを受けて現場へと赴き、ファインダー越しに瞬間の立ち会いに目を光らせる。

チェコスロバキアで生まれた写真家ジョセフ・クーデルカが1968年8月のチェコ事件——社会主義体制の「正常化」へ向けてプラハの街がソ連を中心とするワルシャワ条約機構軍に占拠された事件——を撮影した写真の数々は、いわゆる報道写真の観点からすると異例といってよいかもしれない。そもそもクーデルカは報道写真家ではなかった。写真で身を立てる意思はあったものの、撮影対象は彼の関心のあったジプシーであったり、舞台写真などであり、いわゆる報道を扱ってはいない。チェコ事件が発生した際、クーデルカは事件の瞬間に立ち会うために現場に赴いたわけではなかった。はじめからそこにいたのだ。写真家のいたプラハの街にソ連軍の戦車が押し寄せてきたのである。クーデルカの写真は「例外的な事象」として撮影された。

東京都写真美術館で開催されているクーデルカの展覧会(「ジョセフ・クーデルカ プラハ1968 —この写真を一度として見ることのなかった両親に捧げる—」)の宣伝紙には、クーデルカの撮った写真の数奇な運命が解説されている。事件当時プラハでの発表が困難だった写真は、スミソニアン博物館学芸員のウジェーヌ・オストロフによってアメリカに運ばれ、マグナムの会長を務めていたエリオット・アーウィットにさしだされる。アーウィットはクーデルカに危険のおよぶ可能性に配慮し、彼の名は出さず「プラハの写真家」として発表した。写真家の名前が伏せられたままプラハ事件の写真はロバート・キャパ賞を受賞する。撮影者がクーデルカであることがおおやけになるのは、チェコに住む彼の父親が亡くなる1984年まで待つこととなる。

展覧会を訪れるまえに、このあまりにドラマティックなストーリーを事前情報として知ることで、強く惹かれつつも多少気がかりだったのは、劇的なストーリーに引きずられ写真本来の膂力ではなく、作品の外側をおおうドラマのほうに酔ってしまうのではないかということであった。だが会場に足を踏み入れた途端、それは杞憂に終わる。写真そのものの魅力に吸い込まれてゆく。

クーデルカの撮影は通常の報道写真のスタンスとはちがっている。東京都写真美術館学芸員の丹羽晴美が書くように、「ジャーナリストとして発表することを前提としておらず、どこかの雑誌に売り込む必要もない。そのため、ことさらに悲痛さを訴えることはせず、突然巻き込まれた市民と全く同じ目線でこの出来事に対峙しているのである」。クーデルカの写真に報道する側/される側という関係性はない。いわゆる報道を意識しないことで、現場の高揚感を独特なかたちで伝えている。街路が戦車で埋め尽くされた光景を前に、写真家は市民たちとおなじ地平にいる。被写体であったかもしれない人物が、カメラを携えシャッターを切っているという例外的な報道写真が誕生した。プラハの市民たちの不安や憤り、そしてときに笑顔の表情をとらえたスナップショット。写真家の表情もまた、被写体とおなじだったはずである。