「下高井戸シネマで「芳醇なる至高の話芸」と銘打たれてエリック・ロメールの特集が組まれまして。 上映作品のひとつ『海辺のポーリーヌ』を観たのでこれを機にロメール映画について喋ろうと思うのだけど、映画の内容にふれる前にまず、 下高井戸シネマのレイトショーっていつもこんなに人が集まるものなの? 今回、下高井戸シネマに生まれてはじめて来たんですが」
「ものにもよるけどそれなりに座席は埋まりますよ。客層は老若男女を問わずで。いま名画座って流行っていると思うんですけど……」
「流行ってる?」
「流行ってるは言いすぎかもしれないけど、名画座というものに行ったことのない人が訪ねてみるとこんなに観客がいるのかと驚くと思います。 日々の習慣のように名画座に出かけている人でなければわからない世界かもしれませんが」
「『海辺のポーリーヌ』を観にきているじぶんを棚にあげて言うけど、ロメールの特集でなんでこんな人数が集まっているのかがわからない。 どこで知るんですかねこの情報を」
「一応『ぴあ』には普通のロードショー上映とおなじように掲載されています ((と話していたら校正段階で『ぴあ』休刊の報。))。でもやっぱり映画好きが集まっている感は否めないかもしれません。 集まっているといっても大劇場じゃないので、それほど座席数の多くない名画座に映画好きが集まるのでこういう光景になるんですよ」
「メガヒット映画を上映するシネコンに並ぶような人たちは名画座に来るのかな? 本格的なシネフィルはハリウッド映画も単館映画も追いかけるだろうけど、一般的で穏当な趣味としての「映画鑑賞」とは遊離している気がする。 富裕層は名画座に行かないんじゃないですかね」
「どこかで聞いた覚えのある話をしてます」
「たとえロメール作品を観るとしても、富裕層はロメールのDVD-BOXを買って自宅のプロジェクターで鑑賞するよ、たぶん」
「名画座好きの富裕層が聞いたら怒りますよ。 ロメールはDVD-BOXが出てるんですよね。金井美恵子も『楽しみと日々』(平凡社)のなかで
DVDシリーズに、ロメールの全長篇作品と短篇がほぼ収録されて、いつでも続けて彼の作品を見られることは、 ロメール作品が「癖」になってしまっている者としては、信じがたいような出来事なのである。 ((金井美恵子+金井久美子『楽しみと日々』平凡社、2007年、52頁。))
と書いてました」
「金井美恵子は名画座に行きそうなので、こっち側ですね」
「こっち側ってなんですか。……と、名画座談議はそのへんにしておいてロメールの話をしましょうよ。 『海辺のポーリーヌ』は「喜劇と格言」というシリーズの3作目で、1983年の作品です。ロメールはなにかと説教したがる人でして、 ここで掲げられている格言はクレティアン・ド・トロワの “Qui trop parole, il se mesfait” (「言葉多き者は災いのもとなり」)。 ロメールの説教節」
「冒頭、バカンスとして訪れた家の出入口の門に車が乗りつけたあとで、格言がスクリーンに映しだされる」
「アマンダ・ラングレ演じるポーリーヌのセーラー服姿がとってもかわいくて。ラストも最初と一緒の場所で、おなじくセーラー服で終わりますよね。 最初と最後ふたつの場面はたぶんまとめて撮ってると思います。本当にそうだったか検証しようがありませんが、ふつうの撮影方法としては一緒にやってしまうはずなので」
「ストローブ=ユイレだったらきっちり時間の経過を踏まえて厳密に撮るでしょうね」
「比較の相手が極端すぎます」
「ロメールの作品って樹々の美しさが印象に残る作品が多い気がするけど、『海辺のポーリーヌ』では庭の紫陽花も印象的でした。 フランスの紫陽花っていつごろ咲くのだろう。日本と一緒かな?」
「『海辺のポーリーヌ』の舞台は夏のノルマンディーですね」
「ノルマンディーの海もまた美しい。で、ぜんぜん関係ないけど米田知子の写真でおなじく海水浴の季節のノルマンディーを撮っているのがあるでしょ」
「関係ないにも程がありますよ」
「「ノルマンディ上陸作戦の海岸/ソードビーチ・フランス」というタイトルの写真。 米田知子の海は蒼さが強調されていて、ロメールの撮るノルマンディーの海の色合いとはずいぶん違うなーと。 原美術館での「終わりは始まり」(2008年)は素晴らしい展覧会でした」
「スターリングラードと呼ばれた街で男女がプールで抱き合っている写真とかね! あの写真の場所はたしかハンガリー。 うん、あの写真展は本当に素晴らしかったですねー。いやそうじゃなくて、ロメールですよ、ロメール」
「ロメールの代表作って何でしょ? 『海辺のポーリーヌ』はどういう位置づけなのだろう」
「日本で初めて公開されたロメールの作品ということで有名だと思います。1985年ですね」
「プラザ合意」
「関係ないです」
「Wikipediaに載ってるロメールの写真 ((スタンダップコメディアン?))はなんでしょうか。スタンダップコメディアンですか?」
「……」
「猫背だし。フランス版のWikipediaだとどうなんだろうと思って調べたら、同じ写真だった。しかもサイズがちょっとでかい。 偉大な監督扱いされてないんじゃないの、これ。大丈夫?」
「大丈夫ですって。えーっと、情報量ゼロの対談にしたくないので映画についてちゃんとふれますと、ロメールの映画は色あいが独特ですよね。 「ロメール調」とでも呼びたくなるような色調で。それといつもスクリーンから風を感じる。木の葉がそよぐ音とか……。 こうした色調は撮影時期がちがってもあまり変わらないですね。 70年代の『クレールの膝』にしても80年代の『海辺のポーリーヌ』や『緑の光線』、90年代の『夏物語』、2000年代の『我が至上の愛〜アストレとセラドン〜』にしても。 どれをとっても画面の緑がとても豊かで」
「緑好き。『海辺のポーリーヌ』でもポーリーヌのところに別所が訪ねてきてまた二人で出ていくショットがあるけど」
「ちょっと待った。別所って誰?」
「別所哲也になんとなく似てませんかね、あの人。相貌だけじゃなくてイケメンなんだけどいまいちぱっとしない感じがまた」
「各方面に失礼なこと言ってます! 別所じゃなくてパスカル・グレゴリーですって」
「憶えにくいから別所でいいですよ。スクリーンからポーリーヌが消えて別所が消えて、それでもつぎのショットに移らずにカメラは樹々の緑を映し続けるという。 普通に考えれば、あれは「余っている」ところでしょう。でも切らない。緑好きのなせる技ですかね」
「もしかしたらゴダールの音楽の使いかたに似ているのかもしれませんね」
「ゴダールの音楽ほどぶった切り感はないけれど。ロメールはそれに較べたら自然な感じ」
「そこにカメラがありました、だからまわし続けました、って感じかな」
「もちろん、それもあくまでロメール的な「自然さ」ではあるけれど」
「そうした自然描写の美しさに目を奪われる一方で、ストーリーはどうでもいいっちゃどうでもいいですね。 『海辺のポーリーヌ』は要約すると「海辺の別荘にいとことやってきた15歳の少女ポーリーヌが体験する恋愛騒動」ですからね。それ以上でも以下でもないです」
「映画はじまって間もなく、海岸で主な登場人物の4人が出会うでしょう。あの瞬間、もうだいたいの事情がわかっちゃうんですよ、この映画。 別所がもう一人の男に対して露骨に嫌な顔をする。あんなにわかりやすい表情ないよ、普通」
「いろいろ露骨です。別所がポーリーヌのいとこにやっぱり君のことがいまでも好きなんだ、とディスコで言い寄る場面だってすごい紋切型で。 いとこは嫌がってるのにまた別所がしつこい」
「そのしつこさがまた紋切型」
「だからやっぱり説教だと思うんですよ。お説教って定型的ですからね。格言とか、ねらいが明確で理解しやすくなくちゃダメなわけで。 古典のエッセンスを現代映画に持ち込んでる。ちょっと芝居がかっているというか、舞台的なところがあると思います。実際そういうタイプの映画も撮ってるしね、ロメールは」
「だから話自体は紋切型でも構わないっていうスタンス」
「ロメール本人もあまりに物語を重視する映画の見方に釘を刺しています。蓮實重彦によるインタビューにこたえて
映画というと、人びとは、いまなお物語にしか興味を示そうとしないのです。 ((蓮實重彦『映画狂人のあの人に会いたい』河出書房新社、2002年、222頁。))
と語っています。ところで別所、もといパスカル・グレゴリーは巧いですよね。どうしようもなくだめな感じがよく出てます。 でも、なぜポーリーヌのいとこにとってだめなのかがよくわからない。しつこいからかな」
「そう、だめな理由がよくわからない」
「みんなそれぞれ相思相愛じゃないんだけど、相思相愛じゃない理由がわからないんです。わからないことだらけでもよしとしてるんでしょうね、ロメールは。 ロメールの台詞ってロメールの思考を断片的にちりばめている感じがする。 別所とポーリーヌが食事をするシーンでの別所の独白って、よくよく考えてみると一本の映画のなかで必然性があるわけでも一貫性があるわけでもない。 でもロメールの映画っておもしろい。自然の中に舞台があるような。登場人物がひたすらしゃべるから演劇っぽくなるんですね」
「ロメールの映画ってよく男女の機微うんぬんという文脈で語られるけど、ちょっとちがうんじゃないかって気がする」
「ロメールについて書いているものを資料として持ってきたんですけど、たとえば中条省平は
エリック・ロメールは主として恋愛を題材に選びながら、人間精神の奥深い不思議さを描いてきた物語作者ですが、それ以上に、 人間の限られた生をこえる世界の豊かな多彩さに目を凝らす映画監督でした。その意味で、ロメール映画には、世界のすべての細部に神を見出すような 汎神論的なまなざしが感じられます。 ((中条省平「ロメールのまなざし」『ふらんす』白水社、2008年12月号、40頁。))
と書いてますし、あるいは渡辺淳『映画と文学の間—メリエスからロメールまで』(清水書院)をひらくと
現在進行形の日常生活での、とりわけ愛の交歓・交錯の構築からロメールの映画では、その陰に潜む人間世界の不条理性や偶然性や相対性などが、 いろいろの形で浮かび出てくるのは不思議というか見事というほかない。 ((渡辺淳『映画と文学の間—メリエスからロメールまで』清水書院、1997年、235頁。))
とあるんです。 やっぱり恋愛だけじゃなくて、その先にある人間のもつ根っこの部分、さらには人間のいる世界そのものを掴みとろうとしたのがロメール映画なのではないでしょうか」
「だから表面上は恋愛を描いているからといって、デート映画にはなりえないわけですよ、ロメールは。 というか、お互いによほどのシネフィルでないかぎりデートでロメールなんか観ない。もしかりに観たら、絶対に途中で寝ると思う」
「片方が映画好きで、その相手がそこまで映画に興味ない場合は厳しいかもしれません」
「ロメールはデートに向かない」
「格言がでました」
「それはそうと、人間性の核心部分とかいうけど、無性に突っ込みを入れたくなるショットは山ほどありますけどね」
「たとえば?」
「ポーリーヌのいとこに電報を届けにくる郵便配達人が無駄にかっこいいとか」
「あの人70年代のロックンロール歌手みたい。顔の両側に垂れている帽子が髪の毛かと思った」
「あと、ポーリーヌのいとこをたぶらかす男が、わかりやすいくらい怪しさ満点とか」
「頭髪の薄いプレイボーイですね」
「大体ああいうハゲ方をするフランス人は怪しいに決まってる」
「でました紋切型」