Monday, June 27
関東地方、梅雨明け。統計史上最も早く、平年より22日も早いのだそう。長い夏になるね。夜は、冷やし中華とビール。この夏もこの献立を幾度もくり返すことになるだろう。
Saturday, July 2
それは、見ている主体がやってのける分類学というか、頭の中で瞬時にやってのける分類化という現象なのです。これはランプだ、いやランプではなく煙草だ、マッチをすることだとか、そういう作業を見ているわたくしがほとんど一瞬でやってのける。そうすることが映画を見ることだとわたくしは思っているのです。(蓮實重彦『ショットとは何か』(講談社)p.87)
わたくしが「ダンシング・イン・ザ・ダーク」のデュエットに惹きつけられるのは、それが、『たそがれの女心』のダニエル・ダリューとヴィットリオ・デ・シーカのダンスがそうであったように、男女の仲が親密さをますという状況が、映画においては、あくまでも同じステップを踏むという二人だけが演じる優雅で親密な運動にいかにキャメラを向けるかという映画的な現実としてあるのだというまぎれもない事態に、ここでも見るものを立ちあわせてくれるからなのです。(同p.241-242)
まず、『山の音』ですが、その場面の直前、早朝に鼻血を流していた原節子を義父の山村總が介抱するという微妙なできごとが語られていたことを思いだしておきましょう。そこには、意識されざる誘惑ともいうべきものが演じられていたとみることが不可能ではないからです。その後、まわりに樹木が生い茂った公園で二人は再会するのですが、そこでは、立ち並ぶ木々の影が地面に長くのび、その間をぬうようにして並んで歩く義父とその嫁とは、ときおり振りかえっては相手の表情を窺いあっています。そのとき、彼らは、交互に鈍い逆光を受けとめながら微妙な表情におさまるのですが、それを生々しく画面に定着させるために動員される映画的な技法は、切り返しというごく単純なものにすぎません。それでいながら、そこに描き出されているのは、驚くほど豊かな世界の無限の拡がりなのです。そのまわりにはいくつもの人影が散在しているのですが、ここでの義父とその嫁とは、彼らだけの孤立ぶりをたっぷりと享受しているかにみえます。しかも、その孤立ぶりは、単純であることの美徳というほかはないショットの自在さと奇跡のように同調しています。ですから、二人は、映画が不意に映画自身と出会ったときだけに姿を見せるはてしない拡がりへと向けて、ゆるやかに踏みこんで行くかのようなのです。この瞬間、スクリーンには、鈍くはじけているような動揺が拡がってゆくのです。(同p.265-266)
『山の音』について蓮實重彦が綴る言葉もまた、『山の音』のこの公園の2人のシーンと同じくらい果てしなく美しい。
Sunday, July 3
ひょんなことからチケットが手に入り、めちゃめちゃ久しぶりにクラシックのコンサートに行くという機会が飛び込んできたのであった。初台の東京オペラシティコンサートホールで、フランソワ=グザヴィエ・ロト指揮&ケルン・ギュルツェニヒ管弦楽団による演奏を聴く。曲目は「モーツァルト:ピアノ協奏曲第20番 ニ短調 K466」と「ブルックナー:交響曲第4番 変ホ長調《ロマンティック》(1874年第1稿)」。ピアノ協奏曲のピアノ演奏は河村尚子。久しぶりに生で演奏を聴いて、お腹に響く音を受け止めて、その場の空気もあわせて味わって、素晴らしい時間だった。
鑑賞後は東京オペラシティ53階の叙々苑にて、大きすぎる窓に向かって肉を焼く。眼前にひろがる雲の切れ間から、次々にこちらに向かって飛行機が飛んできて、わたしたちを乗り越えていく。なんだか夢に見そうな光景だった。