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Monday, October 30

木枯らし一号。

千葉雅也『勉強の哲学 来たるべきバカのために』(文藝春秋)を読む。勉強を深めてゆくと孤立する(本書のことばでは「ノリが悪くなる」)のは、その道に多少なりとも足を踏み入れた人であれば直感的に理解していることなので、わざわざフランス現代思想の語彙で味付けしながら説明するほどの話ではないように感じたが、しかし、そのての文脈から遠く離れた人に向けての解説であるならば、意味のあることかもしれない。でも、

勉強を「深めて」いくと、ロクなことにならない面がある。そういうリスクもあるし、いまの生き方で十分楽しくやれているなら、それ以上「深くは勉強しない」のは、それでいいと思うのです。
生きていて楽しいのが一番だからです。

と劈頭に書いてあるものだから、読者ターゲットが謎だ。

Tuesday, October 31

午前中は有楽町にいたので、昼食は「AUX BACCHANALES」でオムレツとカフェ。今号で終わってしまう猫沢エミが編集するフリーペーパー『BONZOUR JAPON』を入手。

『図書』11月号(岩波書店)が届く。深井智朗「プロテスタンティズムの倫理とボウリングの技巧」をおもしろく読む。諸説あるらしいが、現代におけるボウリングの競技ルールの基礎をつくったのはマルティン・ルターだという。

ルターの宗教改革、あるいはボウリングが宗教的な意味をもったものであったことと近代のボウリングの歴史的関係が説明できるなら、マックス・ヴェーバーが『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で説明してみせたことを、もう少し分かりやすい事例で紹介することができるかもしれない。元来宗教的な意味をもっていたボウリングが、その意味を失い、ルールとしての形式だけが残され、ただの娯楽、あるいはスポーツとして楽しまれるようになったのだから。まさに世俗化−−元来宗教的であったものが、聖としての性格を失い、この世のものになること−−の典型的な事例であり、私たちは本来ボウリングが持っていた宗教性や倫理性を忘れて、ただゲームとしてそれに一喜一憂している。現在の経済活動も同じではないか。

Wednesday, November 1

むかしの話なのでニフティをプロバイダとして選択した理由はもう判然としないのだが、所有している携帯電話との兼ね合いを考慮すればさっさと別のプロバイダに乗り換えたほうが月額料金はより低くなるにもかかわらずいままで継続してきたのは、デイリーポータルZの存在があったからにほかならない。デイリーポータルZというか林雄司への投げ銭と考えてきたのだが、しかし本日付でデイリーポータルZがニフティからイッツコムに譲渡されたので、ニフティと契約しつづける理由が消滅してしまった。

Thursday, November 2

財務分析のお勉強。損益分岐点の計算式を応用しながら目標利益を達成するための必要売上高を算出させる問題を前にして、こんなちまちま計算をしたところで利益は上がらんだろうと無粋なことを考える。

Friday, November 3

トランプが来日する。天皇にも会うという。いまから彼の不規則発言が楽しみでしかたがないのだが、日本経済新聞はつぎのように書く。

ツイッターでの頻繁な発信は外遊中も変わりそうにない。公にはされない首脳会談でのやりとりを部分的に明かしたり、思わず本音を吐き出したりする可能性がある。トランプ氏の書き込みが始まる早朝から目が離せそうにない。

楽しみにしてそうな筆致である。

文化の日は大抵晴れる。神保町ブックフェスティバルに参戦。ここ最近の書籍の購入にかんしては「古典を文庫で」がテーマなので、その方面にしか目がいかない。トーマス・マン『魔の山』とフォークナー『アブサロム、アブサロム!』を岩波文庫で、オルテガ『大衆の反逆』をちくま学芸文庫で、アダム・スミス『国富論』を中公文庫で。すずらん通りはたいへんな人だかり。飲食も提供されているのだが、古本好きの客層が醸し出す雰囲気がそうさせているのか、なんとなく炊き出しっぽい光景に見えてしまう。ディスクユニオンにも立ち寄って、ビッグバンドの安価なレコードを何枚か購入。古本とレコード。荷物が重くなる。

Saturday, November 4

中央公論新社の創業130周年を記念して刊行されている西洋美術の歴史全8巻。順番に読んでいこうと、まずは芳賀京子/芳賀満『西洋美術の歴史1 古代 ギリシアとローマ、美の曙光』を手にとる。伝播をめぐるつぎの指摘がおもしろい。

しかし興味深いのは、ギリシア・ローマ宗教には伝道の概念がなかったことである。そしてそれにもかかわらず、本章で見たように大陸の西端から東端にまでその文明は伝播した。地理的に東漸しただけでなく、時代を超えてルネサンスへも伝播した。それは、ひとえにギリシア美術のアントロポモルフィズムと、そのギリシア神像の鬼気迫るほどの生命力に満ちた迫真性による、と考えられる。
キリスト教、イスラーム教などにおいては、伝道者が、時には軍人をともない、その宗教を他者・他文化圏・他文明圏へと布教し伝播させることが、宗教組織としての活動の重要な部分を占めている。これらの宗教ほどではないが、仏教においても布教活動は行われた。しかしエジプトの宗教においてはそのようなことはなく、ギリシア・ローマの神々に関わる宗教においても基本的にそのようなことはない(帝政ローマにおいて皇帝崇拝を遠隔地における帝国支配の手段としたのがその例外であろう)。ギリシア人たちは、自分たちの宗教を他者に強制することはなかった。異郷の地におけるギリシア宗教の多くは、その地に移り住んだギリシア人自身かその末裔が担い手であった。アレクサンドロス大王が軍事的攻略により広大な版図を手中にし、非ギリシア文明を支配下に置いたときでも、ギリシア宗教を信ずる者は、異民族の宗教に干渉せずにそのままにするか、あるいはその地の宗教儀式に沿うようにするかであって、さらにはその地の宗教を採用する場合さえあった。つまり、東方の異郷におけるギリシア美術の採用は、ギリシア宗教の強制に伴うものではない。ゆえに西側の伝道の力ではなく、仏教側の選択的吸引の作用とその力強さを改めて認めるべきなのである。

Sunday, November 5

恵比寿へ。東京都写真美術館で「シンクロニシティ 平成をスクロールする 秋期」と「長島有里枝 そしてひとつまみの皮肉と、愛を少々。」を見てから、恵比寿ガーデンプレイスタワーにある「こんぶや」で昼食。おでんの定食と瓶ビール。写真美術館に戻って「写真新世紀 東京展2017」を鑑賞ののち、図書室で少し時間を潰してから、長島有里枝と藤岡亜弥と志賀理江子の鼎談を聴く。話題は紆余曲折しながら結論に着地することもなかったが、そのまとまりのなさがおもしろかった。ところで、長島有里枝の展示を見て感じたのは、人は歳をとるということ。写真家本人は現在にいたるまでの活動は一貫していると語っていたが、少なくとも表面的には初期の作品と最近の作品とでは印象はちがう。少なくとも初期の作品を見て、おなじ写真家がのちに『ku:nel』(マガジンハウス)の仕事をするとは想像できない。『Empty White Room』(リトル・モア)の被写体たちなどは、暮らし系からカツアゲしてそうな雰囲気があるし。NADiff a/p/a/r/tに移動して、MEMで三島喜美代「Early Works」、G/P GALLERYでヴィヴィアン・サッセン「Of Mud and Lotus」を見る。帰り道、「ひいらぎ」のたい焼きを食べる。