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Monday, December 19

会社の忘年会という名のサービス残業に従事する。無賃どころか金まで取られるという俗悪なシステムだが、時間と金と体力の無駄という理由以上に耐え難いのは、取り繕った陽気さでなされる卑陋な会話の数々である。

平安朝文学のあの女性に話をもどそう。
みんなで集まって楽しくわいわい騒いでいる人たちは、ひとり部屋で『源氏物語』や『枕草子』を読んでいる彼女のことを簡単に「暗い」と言うだろう。しかし本当のところは、騒いでいる人の方こそ、「人生」という大問題が自分の前に現れるのを恐れていて、自分の中に暗いものを持っているのではないか。普段いろいろなことを考えていない人には人生くらいしか考えることがない。つまり、楽しそうに騒いでいる人の方が、街頭で「あなたにとって人生とは……」と言って近寄ってくる人に近いところにいる。
彼女みたいな人は暗くて口下手だから友達と楽しく騒げないのではない。そうではなくて、楽しそうに騒いでいるときの話題のなさに耐えられないのだ。彼女だって「春は曙、やうやう白くなりゆく山際……」というような、たとえば、春になってふと漂ってくる沈丁花の香りや、夜、家に帰るときに何ヶ月も縮こまって歩いていた同じ道を、三月のある晩にゆったりと体を伸ばして歩いていることに気がついたときの喜びや、そういう、季節の小さな変化をしゃべる相手が何人かいたら、「生まれる時代を間違えた」とは思わないで済んだことだろう。
語る、話す、しゃべる……というのは、気持ちを対象に向かわせることで自分を前に出すことではない。ところがいまテレビでは目立つことしか考えていないタレントが自分のことばっかりしゃべる(学生の合コンみたいなものだ)。作家の中にも講演会なんかで自分の苦労話と自慢話ばっかりしゃべる人がいる(そんな人の本が売れて威張っていたりする)。確かにあの同窓会でもみんな自分の周辺の話をしただけだけれど、ウケたいとか目立ちたいとか自慢したいとかで話したわけではない。
(保坂和志『途方に暮れて、人生論』草思社、pp.46-47)

Tuesday, December 20

ベルリンのクリスマスマーケットに大型トラックが突っ込むというテロリズムが発生。事件の現場をGoogleマップで確認したら、BIKINI BERLINのすぐそばだった(行ったことはない)。

Wednesday, December 21

学生時分に読んで感銘を受けた本を再読する。古矢旬『アメリカニズム 「普遍国家」のナショナリズム』(東京大学出版会)。刊行は2002年。現在、報道のなかでほとんど呪文のように繰り返されている「ポピュリズム」という言葉を熟考するにあたって、本書はいまなお有益な示唆を与えてくれる。文庫化してほしい。

おおまかにいってポピュリズムということばは、ある特定の状況下に生ずる二つの相反する政治現象を指してもちいられることが多いようである。そうした状況とは、国民ひとりひとりの存在や主張をほとんど無意味にしてしまうほどの強大な政治的・経済的・社会的権力が、国民社会を支配し、国民生活をほしいままに左右しているかにみえる状況である。そしてそのとき、ポピュリズムということばは、一つには、そうした状況下における一般の人びとの疎外感や無力感を梃子として発動される非合理的、情緒的、反動的なデマゴギーや扇動政治を指してもちいられる。と同時にもう一つには、それはそうした状況を草の根から変革しようとする合理的で冷静で地道な改革政治を指すことばとしてももちいられるのである。一つのことばが、これほど対蹠的な二つの政治動向を同時に指ししめす例は、象徴の恣意的な操作があたりまえな政治の世界にあっても、まれであるといえよう。ましてや、近代の政治用語として、ポピュリズムの兄にあたるといってよいデモクラシーが、すくなくとも19世紀以降の合衆国においては、(多様な政治勢力間の対立や、地域や時代のちがいをこえてあまねく)至高の政治的な目標価値とされてきた事情に対比するならば、ポピュリズムの両義性はよりいっそうきわだつことになる。
アメリカ史において、このようなポピュリズムの両義的性格は、第一に立憲や建国の当初における「人民」概念のあいまいさに由来しているといってよいだろう。しかし、第二に、現代のポピュリズムのアンビヴァレントなイメージは、なによりもアメリカ史においてこのことばの起源を画した19世紀末の農民運動に発している。この歴史的に固有な現象としてのポピュリズムは、まさに改革と反動とが混在した社会運動にほかならなかった。そこには、世紀転換期の農民の倫理観、経済観、政治観、社会観のすべてが、多少なりとも反映していたといってよい。それらのすべてを一律に改革的とも、反動的ともよびがたいことはいうまでもない。ようするに19世紀末の農民運動は、一面では相対的な衰退産業のうちに身をおく農民たちのやるかたない憤懣にねざしており、また他面では自分たちこそアメリカ民主主義のにない手であるという彼らの強烈な自負にねざす現状変革志向からエネルギーをえていたといえよう。それは、20世紀においては、ときに民主的な改革運動の先駆者と目され、またときには右翼的な反動政治の原型とみなされるような運動であった。
このようにポピュリズムということばには、当初より肯定的な改良主義的イメージと否定的な反動的イメージとが二つながらにまとわりついてきた。この二つの対極的イメージに通底する政治的特色が、はたしてあるのか、あるとすれば、それはいったいなんであろうか。やや先回りするならば、それはアメリカ・デモクラシーの原像であるといってよいかもしれない。そしてこの原像はおそらく、過去一世紀の歴史的展開が、ポピュリズムという象徴の周辺につみあげてきた夾雑物を取りのけたときに姿を現してくるものとおもわれる。したがってこの原像を回復するためには、歴史をさかのぼらなければならない。
そのさいには、アメリカのポピュリズムをめぐる多様な解釈が、対立しながら、にもかかわらず基本的に合意するいくつかの点を前提とすべきであろう。多くの論者が指摘する第一は、すでに示唆したように、ポピュリストの基本的な状況認識、時代認識の枠組みが、一方における憲法的な「人民主権」の原則と、他方における巨大権力の腐敗、専横という現実との対比から構成されていたとする点である。「人民」の中身が変化し、巨大権力のにない手が推移しても、この基本的な構成はポピュリズムの状況認識の変わらぬ特色である。第二に、ポピュリズムとは、このような状況のうちに不正をみた民衆の反発や抗議の意志の、直接的な政治的表現である。したがって、第三に、ポピュリズムは、論理的に首尾一貫したイデオロギーとはいいがたい。それはむしろ政治的衝動に近い性格をおびている。その点で、社会主義やシオニズムとは決定的に異なる。デモクラシーですら、ポピュリズムに比べればまだしも体系的であろう。第四に、一貫したイデオロギー的指針を欠くがゆえに、ポピュリストはアメリカ史上のさまざまな政治的伝統に依拠してみずからの運動を正当化した。思想的雑居性はアメリカ・ポピュリズムのもう一つの特色である。(pp.54-56)

Thursday, December 22

有給休暇。エコノミスト誌のクリスマス特集号をiPadで。昼間、一ヶ月前には雪が降っていたとは思えない温暖な気候のなか、新宿でレコードを買う。今年のレコード漁りは本日でおしまい。

夜、mp3を開発したドイツ人技術者、ヒット曲を量産して音楽業界を独占する大手レーベルの首脳陣、発売前のCDを工場から盗み出していた労働者、という彼らのスリリングな道程の交錯を追うドキュメント、スティーヴン・ウィット『誰が音楽をタダにした? 巨大産業をぶっ潰した男たち』(関美和/訳、早川書房)を、アナログレコードを聴きながら読んだ。

Friday, December 23

寺尾隆吉『ラテンアメリカ文学入門 ボルヘス、ガルシア・マルケスから新世代の旗手まで』(中公新書)を読む。たんなる作家紹介に終始せず、ラテンアメリカ各国の政治的・社会的文脈を踏まえながら文学を捉える内容で、その批評にも鋭利な棘があってよい。

短編や中編においてはその文才をいかんなく発揮したポラーニョだが、長編になると、細部を際限なく輻輳する悪癖にしばしば陥っている。『2666』の第4部「犯罪」はその典型的な例であり、確かに次から次へと現れる女性死体の描写が小説世界に重苦しい空気を添えているのは事実だが、これほどページを費やす必然性があるとは思われない。
また、ポラーニョの長編の場合、作品が長くなっても、表層のストーリー展開が複雑化するだけで、そこに内容的な深さや質的な広がりが生まれるわけではない。ヨーロッパ、アメリカ、アフリカを股にかけた作品の地理的スケールは大きいが、そこにできあがる象徴体系は概して貧弱で、ガルシア・マルケスのように現実世界の奥深さを見せてくれることもなければ、コルタサルのように現実世界の向こう側に読者を誘うこともない。作者の主観的ヴィジョンに基づいて、現実から自立した虚構世界を作り上げることに成功してはいても、人間や現実社会に向けて鋭い洞察を打ち出すまでにはいたっていない。(pp.119-200)

夜、小津安二郎『早春』(1956年)を見る。小津映画における東野英治郎はいつも呑んだくれている気がする。

Saturday, December 24

降誕祭前日を「たらふく飲んで食べる日」と定義するのはキリスト教の風習の誤読でしかない雰囲気を抱えつつも、この季節の欧米におけるあきらかにカロリー過多な食の光景を概観することで気を取り直し、二子玉川の高島屋に向かった。地下食料品売り場へ。RF1で桜島どりのもも肉ロースト、ミートローフのパイ包み焼き、サーモントラウトとほうれん草のテリーヌを買い、Signifiant Signifiéでバゲットを買い、GRAMERCY NEWYORKでケーキを買う。SLOW HOUSEで食卓まわりの雑貨も買った。自宅に戻り、サラダをつくって、テーブルをセッティングして、シャンパンをあける。たらふく飲んで食べて、最後は胃腸薬「セルベール」を飲んで締める。

Sunday, December 25

Instagramで欧米におけるクリスマスの食卓風景を眺めてみると健啖家はほとんどいないので、昨日のクリスマス解釈は誤謬であると言わざるをえない。そもそもクリスマス前日にたらふく食べているのが間違っていると思う。

夜、小津安二郎『お茶漬の味』(1952年)を見る。こわいイメージの佐分利信が、この映画では優しい。