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Monday, April 4

twitterから離脱というか脱落気味な昨今。SNSから遠く離れる効能として、読書が順調に進む。『みすず』4月号(みすず書房)と伊藤武『イタリア現代史 第二次世界大戦からベルルスコーニ後まで』(中公新書)を読了。

朝食、ブロックベーコンとトマトのグリル、ベビーリーフ、トースト、バター、珈琲。昼食、弁当。夕食、竹輪と長葱とほうれん草の月見うどん、キムチ、麦酒。

Tuesday, April 5

つぎのような対照的な主張の言葉がならぶ二冊を並行して読むのは、読書の幅が広いというべきか、節操がないというべきか。

日中戦争が日本にとって「まちがった戦争」であったことは事実である。しかし、日本はアメリカの圧倒的な軍事力とソ連参戦に敗れたのであり、中国共産党に敗れた歴史はない。また、日中戦争で日本が戦った主な相手は蒋介石が率いた国民党軍であり、中国共産党軍は来るべき国民党軍との戦いのために温存されていた。(三船恵美『中国外交戦略 その根底にあるもの』講談社選書メチエ p.225)

戦争を煽った政治家や指導した軍人が敗北の責任を「科学」に押し付けているのは、戦争責任の追及が自分たちに向かうのを巧妙に回避していることになるわけで、不愉快な気がしますが、マスコミを含めてそのことを咎める議論はなかったようです。それどころかマスコミも知識人も、自分たちが侵略戦争に加担したことの反省もなく、「日本は科学戦に敗れた」という議論に唱和していたのです。とりわけ米軍による原爆投下は、まさしくその「科学戦の敗北」を象徴するものとして見られていたのです。敗戦直後、1945(昭和20)年8月20日の『朝日新聞』の「科学立国へ」という題の記事は「われらは敵の科学に敗れた。この事実は広島市に投下された一個の原子爆弾によって証明される」と始まっています。
そのことはまた、日本の敗北が、正確には「アジア太平洋戦争」における敗北であるにもかかわらず、あたかも米国にたいしてだけ敗北したのであるかのような誤った理解をもたらすことになり、それ以前に日本が中国にたいして敗北していた事実、あなどっていた中国の人々に打ち負かされていた現実を覆い隠すことにもなります。(山本義隆『私の1960年代』金曜日 p.70)

朝食、目玉焼き、ブロックベーコンとトマトのグリル、サニーレタス、バゲット、珈琲。昼食、弁当。夕食、ラム肉のステーキ、玉葱としめじのコンソメスープ、しらすとサニーレタスのサラダ、バゲットとツナ、赤ワイン。

夜、ひきつづき山本義隆『私の1960年代』(金曜日)を読む。

カッシーラー哲学の翻訳を始めるにあたっては、哲学者の廣松渉さんにお世話になりました。
廣松さんと知り合ったのは、大管法闘争の処分撤回闘争の過程です。1963年の1月頃、文学部の校舎で私がタテカン(立て看板)を作っているとき、通りかかった大学院生が、タテカンを作るときには釘は少し曲がっているものを使ったほうが抜けにくく、したがって看板が壊れにくいと教えてくれたのです。50年代の活動家という雰囲気をもっていたその人物とは、その後キャンパスでなんどか顔を合わす機会があり、二度ほど雑誌論文の別刷りを手渡されたことがありました。その論文の著者名が門松暁鐘、哲学者・廣松渉の青年時代のペンネームです。廣松さんから釘の打ち方を教わったのは、私ぐらいかもしれません。(pp.298-299)

Wednesday, April 6

明日の風雨で散ってしまうので桜は今日が見納めと天気予報は伝えているなかで、佐藤俊樹『桜が創った「日本」 ソメイヨシノ 起源への旅』(岩波新書)を再読。佐藤俊樹の書いたもののなかで本書がいちばんよい、と言ったら、本人はあまり嬉しくないかもしれないが、ともかく好著。

朝食、ハムと玉葱のピザトースト、珈琲。昼食、弁当。夕食、白米、ほうれん草と長葱の味噌汁、茄子とピーマンの胡麻油炒め、ほっけ、冷奴とトマト、麦酒。

Thursday, April 7

世界史の復習をルネサンス期あたりから。樺山紘一『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』(中央公論社)を読む。

朝食、アップルパイ、珈琲。昼食、弁当。夕食、ネギ醤油ラーメン、キムチときゅうり、麦酒。

Friday, April 8

朝食、ソーセージ、ほうれん草、人参のグリル、バゲット、茹で卵、珈琲。昼食、グリーンカレー。おやつ、ガトーショコラ、珈琲。夕食、浅蜊とパプリカのパエリア、鶏肉のマスタードクリーム煮、レタスとトマトとしらすのサラダ、赤ワイン。料理に集中していたら有給休暇が終わってしまった。『Aesthetica』4/5月号を読む。

Saturday, April 9

北鎌倉へ。円覚寺を訪れたら見頃は過ぎたものの桜の花弁はかろうじて枝に残っている。小津安二郎の墓を探すと、急勾配の坂の上の一画に墓地はあった。酒の瓶や缶がいくつも墓前に供えられている。墓までの急な坂を歩きながら思い出すのは、マノエル・ド・オリヴェイラをめぐるつぎのエピソード。

山根 小津さんのお墓参りをされたときもお元気で、お誕生日にみんなからプレゼントされた大きな花束を、ポルトガルまで持って帰るわけにいかないから小津さんの墓に捧げようとおっしゃって、持っていらした。
蓮實 抱えきれないほどの花束でした。
山根 あんまり大きいから、われわれが持ちましょうと言ったら、「自分で持っていく」とおっしゃって、円覚寺(鎌倉)の石段を九十五歳の方が登っていくから、ヒヤヒヤしました。お墓の近くになると石段が急になって、しかも乱雑になっている。足でも滑らせたら大変だと思いましたけど、一気に登られました。心臓にペースメーカーを入れてらっしゃるというんだけど、少しもそういう感じがしませんでした。帰りなんか、蓮實さんが「ほらほら」というからみたら、オリヴェイラさんが後ろ向きに石段を降りてきたでしょう。みんながあんまり心配するんで、わざと後ろ向きに(笑い)。
蓮實 それも跳ねるようにね(笑い)。
山根 お茶目な方ですね。
(『国際シンポジウム 小津安二郎 生誕100年記念「OZU 2003」の記録』蓮實重彦・山根貞男・吉田喜重/編著、朝日新聞社、pp.279-280)

北鎌倉から鎌倉へ。横須賀線は通勤ラッシュなみの混雑ぶり。昼食にオクシモロンでカレーを食べる。オクシモロンの下の階にあるアクセサリー店の行列が毎度すごい。オクシモロンも行列するので、交差する人の波。鶴岡八幡宮で散りゆく桜を見物してから、川喜多映画記念館で山中貞雄『河内山宗俊』(1936年)を鑑賞。たいへんおもしろく見たけれど、半分くらいの科白は何を言っているのかわからなかった。旧川喜多邸別邸(旧和辻哲郎邸)の公開日だったのであわせて見学。なんだかんだで小町通りを三往復くらいしてから帰宅。

Sunday, April 10

日曜日だけ新聞(日経)を読むようにしているのだが、一面から最終面まですべての記事を追い、どうでもいいような広告にまで目をとおすので二時間くらいかかる。無駄に精緻な読みをやっているのだが、新聞をよく読むと、高度な議論は勿論していないもののそれなりに文化的な話は書いてある。しかしながら、会社などによくいる新聞を読めと喧しい中高年の多くに文化的素養をまるで感じないのは不思議な現実である。

朝食、トースト、目玉焼き、ソーセージのグリル、レタス、珈琲。昼食、米、ほうれん草と大根の味噌汁、みつば入り卵焼き、しらす山葵、ごぼうの漬物、ごま昆布、鯵のひらき、大根おろし、麦酒。夕食、豚肉のカレー、らっきょ、麦酒。生まれてはじめて市販のルーを使わずにカレーをつくった。