ベストセラーから遠く離れて <後篇>

「さっき「みすずの本って誰が買ってんだかわからない」と言ったあとに思い出したんだけど、自宅の本棚にみすず書房の本、少なくとも10冊以上はある」

「誰が買ってるのかと思えば」

「じぶんだった」

「恵比寿まで来る途中に読んでいたという本もみすず書房でしたっけ?」

「舘野泉『ピアニストの時間』ですね。フィンランド在住のピアニスト舘野泉がライナーノーツなどに書き残してきた文章をまとめた一冊です。舘野さんの文章がなんとも流麗でして。たとえばシューベルトの「変ロ長調ソナタ」について語っている

ヘルシンキはもう晩秋である。紅葉黄葉が美しい。じつに多彩な色どりなのに、派手やかではなく、深く静かである。樹下には、枝の拡がる範囲に円を描いて、落葉が積もっている。ここには静かな満ち足りた美しさがある。冬を前にして樹々がめいめい自分の寝床を敷いたように思える。あるいは美しい色とりどりの落葉は、大地への樹々の感謝であろうか。何という優しさだろう。変ロ長調ソナタ冒頭の数小節、深いやすらぎと充足感に満ちた大旋律。音は厚いけれど厚ぼったくなってはいけない。朗々と歌われるべきものでもない。静かに内側から光りだすような音で、ただ其処にあるというだけで光の輪が拡がるような歌にしたい。晩秋、身のまわりに落葉を敷きつめた樹々たちを私は思う。 [1]

なんていう一節だとか。読んでいると、豊潤な時候の挨拶で彩られた外岡秀俊『傍観者からの手紙』を思い起こさせるようなところがある。そういえば外岡さんの『アジアへ — 傍観者からの手紙 2』も今年でた本で、版元はおなじくみすず書房」

「欲しくなる、手元に置いておきたくなる本をたくさんだしますよね、みすずは」

「でもさくっと買えない。高いから。みすず書房の本って文庫に落ちないでしょ。欲しいんだけどとてもじゃないけど購入できないものは古本屋でさがすしかないわけで。みすず書房、文庫つくったりという事業展開しませんかね? どうでしょう、みすず文庫。ヒットすると思うんだけど。局地的に」

「局地的に」

「いいでしょ」

「でも絶対やらないと思いますけど」

「みすずのあの本もこの本も文庫化。想像するだけで愉しい」

「文庫だとしても、きっと高価ですよ、みすずのことですから。講談社文芸文庫くらいの値段を覚悟する必要があるかも」

「千円越えは承知の上で。講談社文芸文庫のあの価格はちょっと腹が立つんだけど、みすず書房の文庫だったら許す」

「許すって……。“許す” 基準がよくわかりませんが。ちなみに『ピアニストの時間』っておいくらですか?」

「2,940円」

「お、安い?」

「安くないって。べらぼうに高い価格の本を見慣れているものだから、3,000円を切るとうっかり安価に感じる。みすず書房という看板に騙されて。みすずマジック」

「そうだ、高い高い!」

「今年でたみすず書房の本では酒井忠康『鞄に入れた本の話 — 私の美術書散策』もよかった。渋い本か病気の本かというみすず二大ジャンルでいうと “渋い” ですね、これは。神奈川県立近代美術館の勤務を経て、いまは世田谷美術館の館長をされている方による美術書渉猟です。さて、内容がベストセラーからどんどん離れるけど、このあいだ話していた出版社の名前、何でしたっけ?」

「未知谷のことですか? 今年の暮れに豊崎由美が吉祥寺の古本屋・百年でトークショー [2]をやったんです。海外文学を語りあう企画として。そこにゲストとして参加したのが未知谷、群像社、水声社という三つの出版社の人たちで」

「水声社は知ってるけど、未知谷と群像社は知らないかも」

「未知谷と群像社を知らないなんてモグリですよ、あなた。実はわたし昔、ふらっと行ってみたことあるんです、未知谷に……」

「秘境探訪ですか?」

「ちがいます。えーと、そんな話はさておき、未知谷は今年全国各地の大型書店で創立20周年フェアをやっていましたし、「チェーホフ・コレクション」は大人が楽しめる絵本として定評があります。『たわむれ』『大学生』『可愛い女』などはなかなか素敵な佇まいです。群像社も現代ロシア文学を紹介してきたパイオニアで、今年「群像社ライブラリー」シリーズからでたヴィクトル・ペレーヴィン『宇宙飛行士オモン・ラー』は面白かったですね。ストーリーは「一応SFものです」と言っておきますが、社会風刺ありユーモアあり、薄気味の悪さあり、かとおもえば美しく感傷的な描写にはっとさせられたり、なじみの映画や音楽がちょこっと登場したり。読んでいてわくわくする小説ですよ」

「でも世の中的な位置づけがよくわからない。みんな知ってるのかな? いま未知谷のホームページ [3]を確認してるんだけど、「NEW TOPICS」の更新は今月15日が最新で、その前が5月、さらにその前が2009年1月って、放置気味のブログみたいな事態になってる。新刊案内はちゃんと更新されてるけど」

「あのー、いまここに未知谷の図書目録があるんですけど……」

「おしゃれカフェに未知谷の図書目録。なんでそんなものがあるのか。でもこの目録愉しいですね。未知谷、『小沼丹全集』や『国枝史郎伝奇全集』をだしてるのかー。さきほど名前をだした酒井忠康の本も刊行してますね」

「国書やみすずほどではないけれど、本好きにはわりと知られている出版社だと思うのですが」

「じゃあ、国書やみすずはメジャー扱いしていいわけだ。誰でも知ってますもんね、国書やみすずなんて。もはや大手出版社と言ってもいい」

「よくない。言いすぎです。でも忠告しておきますが、未知谷や群像社だって見方によってはメジャーですよ! 局地的かもしれないけど」

「局地的にメジャー。言葉に矛盾がある気がするけど。それにしても、冒頭におしゃれなカフェの話なんかをしていたとは思えない展開になってる。恵比寿のカフェを検索しようとしてこのサイトがヒットしちゃった人はどう思うのだろう? カフェ紹介の先を読み進んでゆくと国書とか不穏な固有名詞がならんでる」

「しかも、締めが未知谷。この対談、どこに需要があるんですかね……」

「ベストセラーについて語り合っているはずだったのに、1位の『もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら』について一切言及しないまま終わる」

「「もしドラ」にふれないで回顧する2010年ベストセラー。前代未聞ですよ」

「「もしドラ」のことは読んだ人たちに任せます。せっかくだから最後に、それぞれ今年読んだ本で印象に残ったのを挙げましょうか。絞って三冊でお願いします」

「では迷いに迷って断腸の思いで。わたしは高峰秀子『わたしの渡世日記(上・下)』(文春文庫)、畠山直哉『話す写真 — 見えないものに向かって』(小学館)、樋田直人 『蔵書票の芸術 — エクスリブリスの世界』(淡交社)を」

「2010年刊行が畠山さんの本だけって、『みすず』の「読書アンケート」みたいなノリですな。挙げてもらった本に関しての詳細は、次回以降にふれられればと。ではおなじく三冊、適当に選びますけど、山尾悠子『歪み真珠』(国書刊行会)、木村敏『精神医学から臨床哲学へ』(ミネルヴァ書房)、蓮實重彦『随想』(新潮社)でしょうか」

「『随想』はわたしも読みました」

「じゃあ、『随想』の話も次回以降に。ほかにも挙げたい本はたくさんありますけどね。日本人作家による小説に限定したとしても、多和田葉子『尼僧とキューピッドの弓』(講談社)とか」

「あー」

「柴崎友香『寝ても覚めても』(河出書房新社)とか」

「あー」

「星野智幸『俺俺』(新潮社)とか」

「あー」

「ほかにも津原泰水『琉璃玉の耳輪』(河出書房新社)とか大江健三郎『水死』(講談社)とか湯本香樹実『岸辺の旅』(文藝春秋)とか福永信『星座から見た地球』(新潮社)とか橋本治『リア家の人々』(新潮社)とか小野正嗣『夜よりも大きい』(リトル・モア)とか梨木香歩『ピスタチオ』(筑摩書房)とか小川洋子『原稿零枚日記』(集英社)とか朝吹真理子『流跡』(新潮社)とか……」

「きりがないですね。外国文学では『ローベルト・ヴァルザー作品集 1 』(鳥影社)が局地的に盛りあがってました」

「ああ、きりがない。あと、新潮社のトマス・ピンチョン全小説も今年」

「ピンチョン! きりがないので、きょうはこのへんで」

2010年12月某日 恵比寿 Rue Favart にて ( 文責:capriciu )
  1. 『ピアニストの時間』 舘野泉:著、みすず書房、2010年、122頁 []
  2. 吉祥寺「百年」古本の買取と販売 | 読んでいいとも!ガイブンの輪 歳末特別編 at 百年2010 []
  3. 未知谷 []