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Monday, December 12

岡田暁生『西洋音楽史 「クラシック」の黄昏』(中公新書)を再読する。19世紀ロマン派の時代に誕生した思考や感性が、現代に至るまでわれわれを強く縛っている事実を明快に論じている。

あまり悲観的になるのは禁物だろうが、一つ確実にいえることは、われわれはいまだに西洋音楽、とりわけ19世紀ロマン派から決して自由になっていないということ、その亡霊を振り払うのは容易ではないということである。クラシック・レパートリーの演奏についてはいうまでもあるまい。過去にしがみつことを批判して、19世紀以前に作られた曲を全面的に禁止したりしたら(1970年代のブーレーズは半ば本気でそれをもくろんでいたようにも思えたが)、もはや演奏家という商売自体が成り立たなくなるだろう。時代の先端を行くと自負する現代音楽の作曲家たちもまた、過去の西洋音楽に多くを負っている。彼らはいまだに五線譜を使ってオーケストラやピアノのための「作品」を書き、コンサートホールで上演する。彼らの作品で頻出する絶叫や痙攣や苦悩や瞑想のポーズなども、ロマン派から受け継がれたステレオタイプな身振りだ。その新奇な音響や作曲家自身による難解な解説はともかく、記譜法やそこからおのずと規定されてくる音システム、あるいは美学や制度の点では、現代音楽は意外にもかなり保守的だとすらいえるかもしれない。同様にポピュラー音楽の多くもまた、見かけほど現代的ではないと私には思える。アドルノはポピュラー音楽を皮肉を込めて「常緑樹(エヴァーグリーン)」と呼んだが(常に新しく見えるが、常に同じものだという意味だろう)、実際それは今なお「ドミソ」といった伝統的な和声で伴奏され、ドレミの音階で作られた旋律を、心を込めてエスプレシーヴォで歌い、人々の感動を消費し尽くそうとしている。ポピュラー音楽こそ、「感動させる音楽」としてのロマン派の、20世紀以後における忠実な継承者である。(pp.228-229)

上述の認識を踏まえたうえで、ロマン派の桎梏がなぜこれほどまでに強烈なのかを徹底分析した論考をわたしは読みたい。

Tuesday, December 13

iOS 10.2が公開され、アップデートしたところカメラのシャッター音が多少はマシになった。

高階秀爾『芸術空間の系譜』(鹿島出版会)を読む。1967年刊行の本で、高階秀爾の肩書きがまだ国立西洋美術館の研究官であった頃のもの。

Wednesday, December 14

青柳いづみこ『ショパン・コンクール 最高峰の舞台を読み解く』(中公新書)を読む。音楽教育におけるショパン・コンクールというものの存在の功罪を評したり、ショパン・コンクールのクラシック音楽演奏史における位置づけを深掘りする本かなと予想して読んだら、もちろんそれらを論じてはいるものの、本書の重心は、実際のショパン・コンクールのドキュメントにあった。それにしても、あとがきに記されているショパン本人がショパン・コンクールに出場したら絶対に落ちるという笑い話は、音楽演奏のありかたの本質を突くような、ほんとうはあまり笑えない話なのかもしれない。

よく仲間うちで冗談に、もしショパンがショパン・コンクールに出場していたとしても絶対に一次予選で落ちるね……と言い合うことがある。
要因はいくつもある。まず第一に、ショパンはワルシャワのフィルハーモニーのような大会場は嫌いだった。ロマン派の時代にはいって芸術は市民に開放されたが、ショパンは大衆に背を向け、貴族のサロンのような小さな空間で、自分の演奏を本当に理解してくれる洗練された耳の前で弾くことを好んだ。
2015年のショパン・コンクールの公式楽器はスタインウェイ、ファツィオリ、ヤマハ、カワイで、ショパンが一番好きなプレイエルは取り寄せることができないだろう。よし運んだとしても繊細すぎて音が聞こえないだろう。
コンクールではミスのない安定した演奏を心がけなければならないが、ショパンは出来ばえにむらがあった。1831年にパリに出てきたとき、彼のピアノを聴いたカルクブレンナーはすぐにそのことを指摘している。メンデルスゾーンも姉ファニーへの手紙で、「君のショパンに対する評価は低すぎる」として、「君が聴きに行ったときは、きっと気分が乗っていなかったんだろう−−あの人には別に珍しいことでもないけれどね」と書いている。
ショパンのパリ時代、リストとタールベルクのピアノ合戦に象徴されるような「コンクール」がさかんにおこなわれていたが、ショパンは争いごとを好まなかった。彼は誰かと比較されるよりも「唯一無二」であることを望んだ。そしてそのとおりの存在だった。
ショパンはロマン派のただ中に生きた作曲家だが、大げさなもの、大がかりなもの、大きな音のするものには興味を示さなかった。習作時代には饒舌な作品を書いたこともあるが、どんどん余分なものをそぎ落し、厳しく自分を律し、簡素な作風に昇華させていった。
そんなショパンを愛する人々によって、よりよいショパンの弾き手を求めて1927年に創設されたショパン・コンクールは、最初から本質的な矛盾をはらみながら、戦後2回目以降はきっちり5年ごとに開催され、ポリーニ、アルゲリッチ、ツィメルマンなど大スターを産み、2015年に第17回を迎えた。(pp.243-244)

Thursday, December 15

蓮實重彦『シネマの扇動装置』(話の特集)は、いまさらながら初読。

Friday, December 16

日本経済新聞社がファイナンシャル・タイムズ紙を買収してからしばらく経つが、いまなおごく限られた特定の場所でしかファイナンシャル・タイムズを買うことができないのはどういうことなのだろう。日本では売る気がないのだろうか。

Saturday, December 17

横浜で法事的なものに参列し、品のよい日本料理を食べる。

Sunday, December 18

恵比寿→銀座→乃木坂→表参道というルート。
・エレナ・トゥタッチコワ / In Summer : Apples, Fossils and the Book(POST/LimArt)
・鷹野隆大 / 距離と時間(NADiff Gallery)
・尾仲浩二 / タテイチクロワク(銀座 中松商店)
・Mon YVES SAINT LAURENT(POLA MUSEUM ANNEX)
・DOMANI・明日展(国立新美術館)
・アン・コーリアー / Women With Cameras(RAT HOLE GALLERY)
・Pierre Huyghe / A Journey That Wasn’t – Creature(Espace Louis Vuitton Tokyo)
・アセンブル 共同体の幻想と未来(Eye of Gyre)
エレナ・トゥタッチコワ、DOMANI・明日展の今井智己、アン・コーリアーが印象に残る。エレナ・トゥタッチコワは写真集も購入。

夜、表参道のCICADAで夕食。赤ワインのカラフを注文してから飲み足りなくてグラスを頼んでしまい、結果的にはじめからボトルにしたほうが安くついた失態が悔やまれる。