374

Monday, March 26

晴れ。桜満開。
菊地成孔による映画批評本『菊地成孔の欧米休息タイム』(blueprint)を斜め読み。『ラ・ラ・ランド』のことをボロクソに書いているが、『セッション』批判の流れから後に引けなくなっていささかつっぱりすぎな感は拭えない。
夜、ラジコのタイムフリー機能でJ-WAVEの「LAUGH SKETCH」最終回を聴く。佐藤オオキによる実のあるんだかないんだかよくわからない雑談を聴けるのもこれで最後。この番組の功績のひとつは、ゲストとして頻繁に登場した小谷元彦が、その相貌から想像される尖った雰囲気は微塵もなく、親しみやすくておもしろい人だと判明したことである。

Tuesday, March 27

イギリスで発生したロシア元情報機関員の暗殺未遂事件がシビアな外交問題に発展している。
会社の昼休み中に、読みさしだった神崎繁『内乱の政治哲学 忘却と抑圧』(講談社)を読了
佐川宣寿の証人喚問の様子をざっと追う。これまでかなり否定的な意味合いで用いられてきた「官僚的」という語彙にかんして、実際の官僚はそれほどまでには「官僚的」ではないとの理解も多少なりとも存在したかと思うが、そのすべて台なしにする、佐川宣寿の答弁は見事なまでに「官僚的」であった。
渡辺克義『物語 ポーランドの歴史 東欧の「大国」の苦難と再生』(中公新書)を読む。ポーランドの人たちには悪いけれど、ポーランドの歴史でいちばんおもしろいのはポーランドが酷い目に遭いまくっている20世紀前半だと思う。

Wednesday, March 28

ステファーヌ・オードラン死去の報。
桜の花が散り始めている。
会社の昼休みの合間に、会田雄次『アーロン収容所 西欧ヒューマニズムの限界』(中公新書)を読む。
岡田暁生『クラシック音楽とは何か』(小学館)を読了。軽めのクラシック音楽解説エッセイ。四つの楽章をもつ交響曲を順番に聴いてゆく意味について、つぎのように説明している。

「コースと単品」の代わりに「短編小説と長編小説」、あるいは「寸劇と四幕の悲劇」などという比喩を出してもいいであろう。シェークスピアの『マクベス』の各幕を、あるいはトーマス・マンの『魔の山』の各章を、順番をばらばらにして読むとか、好きな章だけ読んで、他のところは眼を通さないなどということはありえない。じっくりと最初から丁寧に読んでいかないと、すぐに筋がこんがらがってくる。登場人物の誰が誰か分からなくなってくる。だから長編は寸劇や短編小説よりはるかに読むのに根気がいる。だがじっくり時間をかけてこそ初めて味わえる感動の深さというものが、そこにはある。だからこそ数々の偉大な作曲家たちは、交響曲をあらゆるジャンルの金字塔と考えた。

『西洋音楽史 「クラシック」の黄昏』(中公新書)を読んだときにも感じたことだが、著者の関心と興味の中心はロマン派であり、上記の引用文のなかで「好きな章だけ読んで、他のところは眼を通さないなどということはありえない」と断定的に書くところに岡田暁生の立ち位置がよくあらわれている。『マクベス』や『魔の山』を、初読のときはともかく、気にいった章だけをピックアップして再編集する好き勝手な態度こそ、ロマン派以降の20世紀的な方法論であるように思うのだが。

Thursday, March 29

桜の花弁が風に舞い、どんどん葉桜になっている。
『現代日本の批評 1975-2001』(東浩紀/監修、講談社)を読む。書名からおおよそ想像がつき、冒頭で東浩紀が説明しているとおり、本書は柄谷行人が編纂した『近代日本の批評』(講談社文芸文庫)の「二次創作」的な試みである。しかしこの「二次創作」が成功しているかは微妙なところで、『近代日本の批評』における討議のメンバーは、柄谷行人、蓮實重彥、浅田彰、三浦雅士というよくも悪くもキャラの立った人たちなので、発言者の名前を隠しても誰が言ったことなのか一目瞭然なのに対し、『現代日本の批評』のほうは東浩紀は置くとしても、市川真人、大澤聡、福嶋亮大らの発言は、発言者の名前と発言内容をシャッフルしてもわからない。優等生的というか、没個性的である。「ざっくばらんな印象を言うと、柄谷さんはやはり引き出しが少ない。そして蓮實さんは嫌みな人。比べると三浦さんは常識人だし、浅田さんは若いけれど教養がある」と東浩紀は述べているのだが、その意味では東浩紀も含め、市川真人も大澤聡も福嶋亮大も「常識人」としての発言に終始しており、議論の内容の妥当性はともかく、全員が三浦雅士みたいなものなので、討論に華がない。
夜、映画鑑賞。『太陽を盗んだ男』(長谷川和彦/監督、1979年)を見る。いまさらながら初見。若い頃の池上季実子は石原さとみに似ている。カルト的な人気を誇る作品の多くがそうであるように、『太陽を盗んだ男』もまたWikipediaを覗くと数々のエピソードで賑わっているのだが、なかでもいちばんいいと思うのはつぎの一文である。

日本橋(劇中は渋谷の設定)のビルからの一万円札(当然、劇用)撒きや、国会議事堂前、国会議事堂裏口のゲリラ撮影は相米慎二のB班が「逮捕され要員」として待機させられた。

Friday, March 30

ディートマー・エルガー『評伝 ゲルハルト・リヒター』(清水穣/訳、美術出版社)を読む。

自然科学的な考察と性的暗示が詰め込まれた、デュシャンの複雑な作品《大ガラス》に対して、リヒターは《4枚のガラス》という、ミニマリズム的であり工業製品のようでもあるオブジェで応じた。4枚のガラスは黒い鉄枠に嵌め込まれて並置され、水平の軸を中心に前後に回転させることが出来る。その単純さ、明確さ、そして透明性が、あらゆる文学的、心理学的解釈を拒絶している。1991年にいたってもなお、リヒターはデュシャンに対抗する自分の立ち位置をはっきりさせている。「思うに、デュシャンの中のなにか、あの謎をつくって喜んでいるような態度が僕には合わなかった。だからシンプルなガラス作品をつくって、ガラス版という問題を全く別のやり方で示した」。

《コンストラクション》は、あまりにも「構成され、考え抜かれて」いるように見え、不合理な遠近法空間はどこか謎めいていた。芸術の中のそういう雰囲気をリヒターはつねに嫌っていた。《コンストラクション》はデュシャンのあの《大ガラス》を連想させる点で不快であった。デュシャンによる「つくりこまれた謎」をリヒターは非難していた。「そういう謎かけや《大ガラス》の上の埃とかが、とにかく嫌だった」。

Saturday, March 31

3月の最終日は休日出勤。
『図書』(岩波書店)4月号を読む。冨原真弓が連載で、シモーヌ・ヴェイユに絡めて桜の話をしている。冨原真弓がロンドンに滞在していた1995年の春話。

母国を離れ、家族や友人から別れ、時間の王国である地上に根を失ったヴェイユは、永遠のうちに美を求めた。
わたしは勝手な思い入れで、余命少なくなったヴェイユの生に、散りゆく桜をかさねていた。
「はかなさこそが美と生の証。ぱっと咲いて、ぱっと散る。この潔さ、これが日本の桜のイメージだよね」
「そう? ロンドンの桜は、そんなにぱっと散らないわよ」と友人がわたしの感傷をぶった切る。
なるほど。ロンドンの桜の花はけっこうしぶとい。江戸末期以降、日本の桜の代名詞となったソメイヨシノとくらべると、花はひと回り小さく、白から濃い桃色まで色もさまざまだ。それでも桜が象徴する「はかなさ」は胸をつく。
「それとね、日本人がロンドンで桜だと思っている木は、アーモンドの木かもしれない」と友人がとどめの一撃。
「そうなの?」
「よく見ないと区別がつかないのよ」
「ふうん、わたしには桜にしか見えない」
「アーモンドもバラ科サクラ属だから。ただし、桜とちがって白い花もあるけどね」

夜、フランクリン・アベニューでハンバーガーとビールの夕食ののち、かなり散ってしまった桜を眺めつつ目黒川沿いを歩く。

Sunday, April 1

本日も休日出勤。月月火水木金金。
「おじいちゃん、ご飯はさっき食べたでしょ!」的な発言の目立つ麻生太郎が新聞を読まないと公言していたが、それはともかく、前月をもって日本経済新聞(電子版)の購読をやめたのだった。一年あまりテレビ欄とスポーツ欄と株式市況と連載小説以外のすべての記事を、可能なかぎり正確に読むという作業を毎朝やりつづけて、もう新聞のことは、少なくとも日本経済新聞のことはじゅうぶんにわかったという感じである。この経験から導き出されたのは、日本経済新聞においてしっかり読むべき記事は「経済教室」くらいしかないので、月々4200円払う価値があるかは疑問であるという凡庸な結論であった。
夜、『MONOCLE』4月号を読む。