「新宿K’s cinemaで公開中の『ふたりのヌーヴェルヴァーグ ゴダールとトリュフォー』(エマニュエル・ローラン監督、2010年、フランス)、どうでしたか?」

「トリュフォー大好きですし、十代の頃からフランス映画をずっと観つづけている身としては、あのフランス映画独特の雰囲気がスクリーンにひろがるだけでただただ嬉しくなるというか、いい湯船につかっている気分になりますね。フランス映画という存在が身近になりすぎちゃってるので、ぬるま湯にひたってると言えなくもないですけど」

「でてくる固有名詞はほとんど見知った人ばかりだったから」

「安心して観ていました」

「トリュフォーが『大人はわかってくれない』を撮り、ゴダールが『勝手にしやがれ』を撮る。以後トリュフォーとゴダールが共闘しながら映画をつくり、やがて決裂するまでの模様をふたりの作品や当時のインタビュー映像を組み合わせて「90分でわかるヌーヴェルヴァーグ入門」とでもいうべきドキュメンタリーに仕立てている」

「鑑賞前、すでに映画を観た人たちの感想をちらほら読んだのですが、トリュフォーはとうに亡くなってますけどゴダールはいまだ存命なのだから登場させたほうがいいという意見もあって」

「そう? このドキュメンタリーって1960年代のフランス映画の空気を伝えようとしているわけだから当時の映像だけで充分かなと思ったけど。ま、ドキュメンタリーとしてはわりとふつうでした。「革新的」なヌーヴェルヴァーグをテーマにしているけれど、そのドキュメンタリー映画は革新的なつくりにはなっていないといいますか。でもよくまとまっていると思いましたけどね。だいたいいまゴダールにインタビューしたところで、絶対好き勝手なことを言い出すに決まってるので、インタビューしないほうが賢明なんじゃないかな。政治的な、というか映画を製作するというそれ自体のスタンスの違いからふたりの蜜月は終焉を迎えますが、悪口雑言だらけのトリュフォーへの手紙にしたって、じぶんに都合のいいことを言い出すよ、たぶんゴダールは」

「まあそうかもしれないです。それにしてもこの映画の終盤、ジャン=ピエール・レオがでずっぱりでしたね」

「トリュフォーとゴダールをくらべるに際して、ジャン=ピエール・レオを軸にすえて描くんですね。トリュフォーの寵愛をえて『大人はわかってくれない』にアントワーヌ・ドワネル役として出演以後、数々のトリュフォー作品にでて、一方でゴダールの映画にも出演していたジャン=ピエール・レオだけど、トリュフォーとゴダールの関係が険悪になるにつれて板ばさみで苦しむ。「ふたりの父親がジャン=ピエール・レオの親権を争っている」みたいな惹句で説明してましたけど。エンドロールも少年の頃のジャン=ピエール・レオのインタビューで締め括るという、ジャン=ピエール・レオのドキュメンタリー映画かと」

「ジャン=ピエール・レオはトリュフォー作品に出演することのよろこびを語りながらも、トリュフォーの分身のような「ドワネルもの」とは別の役をやりたい気もちが沸き起こって、ゴダール作品にでるのは鎖をとかれた感じだとか言ってましたよね」

「ゴダールの『男性・女性』のなかの冒頭、カフェでジャン=ピエール・レオが入口のドアの開閉に異常な執着をみせるシーンがあるけど、あれが鎖のとれた瞬間ですかね? ドアを閉めろ! ドアを!」

「あれはたんにゴダールの演出だと思いますけど……。ゴダールってものすごく細かく俳優に演出するってこの映画でもいわれてて。役者の仕草まで指示するというのはちょっと意外でした」

「『はなればなれに』の撮影シーンもでてくるけど、指示出しながらキビキビ動いてて、ちゃんと監督やってますよね。って、ゴダールを何だと思ってるのかという話だけど。ところで映画監督としてのみならずアンドレ・バザンの『カイエ・デュ・シネマ』誌上で批評家としても活躍し、ヌーヴェルヴァーグの映画作家たちはヒッチコックやホークスを擁護したことで有名ですが、トリュフォーがヒッチコックにインタビューしたときの写真なんかがでてきてて『映画術』(晶文社)を読み返したくなりました」

「ヒッチコックのフォトジェニックぶりがすごいです」

「あとゴダールが老年のフリッツ・ラングにインタビューしている映像があって」

「ゴダールが緊張してましたよね」

「ちょっとおどおどしながらラングから話を訊きだそうとしている。ゴダールがなんか偉そうなことを言いだしたら本人にあの映像を見せつければいいかと」

「若い頃のゴダールの姿って格好よくて好きですけど、でもゴダールってキザだなーと今回あらためて思いました」

「『大人はわかってくれない』がカンヌ映画祭に出品されトリュフォーが賞賛を浴びてるときに、ゴダールはパリに残って「カンヌに行く旅費がねーんだよこっちは」とぶーたれていて」

「あれ、情けなくてかわいい」

「でもヌーヴェルヴァーグって、この映画でも説明されていたけれど観客動員というデータからみるとぜんぜんだめですよね」

「ジャック・ドゥミの『ローラ』が3万人しか動員できなかったという話がでてきて、『ローラ』好きのこちらとしては憤慨して拳を握り締めましたよ」

「ゴダールの『カラビニエ』は2万人にも届かなかったらしいんだけど」

「うーん、それは……」

「妥当な数字だという気もする。『勝手にしやがれ』が公開された当時の観客の反応というのも映像として残っていて、あれはおもしろかったです。あんな映画ろくでもない、駄目な映画の見本みたいだというおばあさんが登場するんだけど、あれで思い出したのは去年銀座の映画館で『ゴダール・ソシアリスム』を観たときに、おばあさんがひとりで観に来ていたのを目撃して。ゴダールの長編デビュー作を貶す老女の映像を観ながら、2010年にゴダールの新作を劇場に観に来る老女を思い出していた」

「『勝手にしやがれ』のラスト、ベルモンドがよろめきながら歩く有名なシーンがありますよね。今回のドキュメンタリーでは「路上でまだ名の知れていない俳優を少数のスタッフだけで追いかけて撮影した」と説明が入り、インディペンデント精神溢れる制作現場の熱を感じさせる、ぐっとくるシーンだと思うのですが、それを観ながら、最近読んだボルヘスの『詩という仕事について』(岩波文庫)で、バイロンの詩について「「なんだ、こんなもの、その気になっていたらわれわれだって書けたぞ」。しかし、その気になったのはバイロン一人でした」というボルヘスの言葉があったんですけど、これをもじれば「「なんだ、こんなもの、その気になっていたらわれわれだって撮れたぞ」。しかし、その気になったのはゴダール一人でした」だなと」

「はじめに触れたように『ふたりのヌーヴェルヴァーグ』はトリュフォーとゴダールの決裂で幕を閉じるんだけど、ふたりのあいだの齟齬の引き金になっているのは1968年前後の時代状況ですね」

「カンヌ映画祭の中止を求めて檄を飛ばすのだけど、トリュフォーとゴダールに温度差があるんですよね。去年、神保町ギャラリーメスタージャでひらかれていた山田宏一写真展にも騒然となってる会場をおさめたのがありました」

「ちょうどこの時期のパリをテーマにした映画がベルナルド・ベルトルッチの『ドリーマーズ』(2003年)ですね。ベルトルッチの作品はノスタルジーたっぷりでしたけど」

「ヌーヴェルヴァーグの作品って見方によってはノスタルジーたっぷりかもしれないけど、不思議と古びた感じはあまりしないんです」

「たしかに映像は古いかもしれないけれど、古びるとはちがう。古くても古びてはいないから」

「いまなお「新しい波」だと」

「『ふたりのヌーヴェルヴァーグ』はエンドロールが終わって、最後に字幕を担当した名前が出てくるんだけど」

「山田宏一と寺尾次郎の名前が」

「あれ、ぐっときますね。この映画いちばんの名シーンじゃないでしょうか」

「シーンじゃないですって」

2011年8月某日 新宿 Brooklyn Parlor にて ( 文責:capriciu )