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Saturday, February 25

最近、早起きできない日々が続いていたけれどきょうはぱっと目覚めてぱっと起きた。早起きにはただひとつ、ザ・緊張感。精神論。寒いとかじゃなかった。 6時頃家を出て東京駅。新幹線乗り場は若者たちでいっぱい。朝食はお弁当屋で買った、鮭のおにぎり、明太子のおにぎり、卵焼き、唐揚げ、温かいお茶。あいにくの天候で富士山が見えず残念。こだまなのでつらつら進行。豊橋から岡崎は初めて乗る列車で、久しく鉄道ファン(乗り鉄)としての活動をしていなかったためもうそれだけでココロオドル。『更紗の絵』(小沼丹/著、講談社文芸文庫)をうらうらと読む。ああわたしは小沼丹が本当に好きだ。

豊田市美術館に到着。わたしは日本の建築家では谷口吉生にもっとも惹かれる。主張しすぎない建築。針の先のような緊迫感を保ちながらそのなかにいる人々の精神を非常に落ち着かせる効用を持つ気がする。山形にある土門拳記念館も昨年できた金沢の鈴木大拙館も彼の手によるものなので、どうしても訪れたい。前者は春に。後者は冬に。

ひとつめの展示「みえるもの/みえないもの」。ナン・ゴールディン、アラーキー、川内倫子、杉本博司、松江泰治など馴染んだ名前に出くわすが、特に印象に残ったのは中西信洋、クリスチャン・ボルタンスキー、ボリス・ミハイロフ、志賀理江子、ソフィ・カル。中西信洋は蚊取り線香が燃え尽きるまで、アイスクリームが溶けるまで、落葉が地面に舞い落ちるまでの様子、人々の動く脚など、時間の経過とともに移り変わるものを、掌におさまるほどの35mmのスライドを24枚重ねた白い箱として多数展示。ひとつひとつに見入った。ボルタンスキーは積み上げたビスケット缶に子どもの写真を配しそれぞれに裸電球を灯した、祭壇のようなオブジェで、写真は戦前にユダヤ人の祭りであるプーリム祭に集まった子どもたちだという。ディテールや作者名を見るより先に、ひとめでこれはユダヤに関係あるものだ、と感じてしまったそのことについて考え込んでしまう。ボリス・ミハイロフのコラージュ写真は濃い色の絵具に、白を混ぜるのではなく水を多く含ませたような色彩が素晴らしく、わたしはそれを偏愛した。志賀理江子は見逃し続けて、今回初めて観ることができた。

ずっと逢いたかった友人と対面して美術館内のレストランでランチ。スープ、サラダ、洋風ハンバーグ、ホットコーヒー。スープは真四角の白いカップに容れられている。お酒大好きな3人だけれど、夜のためにここではじっと我慢。あれやこれや話は尽きない。

続けて「山本糾 /光・水・電気」、「常設展第Ⅳ期」を鑑賞。山本糾は名前も知らず初めて鑑賞したけれど、作品数が多く、これだけのボリュームがある展示を観られるのは幸せだ。たった一点、二点の作品を観てそのときぐっと胸に刻み込まれる場合もあるのだけれど、初期段階で量で勝負と言わんばかりにこの身に注ぎ込まれるのもよい、と再確認。

離れにある茶室でおしゃべりしてぽつぽつと写真を撮り、美術館前に豊かにひろがる水のそばをそぞろ歩き。水、水、水。友人にオクタビオ・パスの水にまつわる一編を教えてもらった。庭園に植えられた、すっかり葉を落としたメタセコイヤに似た樹々の名はラクウショウというのだった。「水湿地に生育 呼吸根を立てる」と但し書があった。

名古屋へと移動する電車のなかで、どういうかたちであれ、人に本を紹介するという行為の大切さについて話す。本を知る媒介となる人の大切さ。そうした存在なしにわたしたちは本を読みつづけることはできない。

名古屋にて宴、夜の部。そのままカラオケ。カラオケは実に4、5年ぶりくらいで、かつては毎週のようにカラオケで歌を歌っていたわたしとしてはカラオケで歌うことを渇望していたため水を得た魚のように歌い続けた。プッチモニ、真心ブラザーズ、椎名林檎、一青窈、小沢健二、はっぴいえんど、などなどなどなどたくさん。歌いわすれた歌もたくさん。友人との再会を約束して深夜、寒風にさらされながらホテルに帰る。興奮した頭と神経をなだめつつ、海の方角を確認してから眠る。

Sunday, February 26

起床。頭痛。お酒の酔いではなく狂騒による頭痛。頭痛のわけは愛すべきものだけれど、頭痛は地獄。それでもとりあえずこめかみを押さえながらよたよたと歩いて窓のカーテンをあけるとその瞬間、頭上から鳩が群れをなして前方へと飛去っていった。この先には海がある。再び弧を描いてこちらに戻ってくるのを楽しみに待っていたが、ある地点で鳩たちはとどまり続けこちらへ戻ってくる様子はなかった。幼い頃、鳩の群れが、我が物顔で空をぐるっと旋回し続けるのを飽かず眺めていた。子どもの頃から本当に、ぼーっと何も考えずにひとつのものを眺めているのが大好きだったのだ。もっと頭を使って過ごせばよかった。

6時に起きて7時にホテルを出て、白壁地区と呼ばれる、古い街並みのある街で朝食をとる予定がものの見事に撃沈。リスケ。朝食抜きで名古屋市美術館に向かい、「ベン・シャーン クロスメディア・アーティスト ―写真、絵画、グラフィック・アート―」を観る。ベン・シャーンがここまで写真を数多く残していたことは知らなかった。しかもどれも頗る良いのだった。これらを観るためだけに訪れてもいいくらいなのでは。

お昼は気を取り直してsora cafeにてミートソース風味のえのきたっぷりそぼろ丼、わかめスープ、大根とにんじんの煮物、温かい烏龍茶。窓から見える若宮八幡宮の緑がきれい。

慣れない地下鉄に乗って本山〜東山公園エリアへ。シマウマ書房とON READINGで次から次へと好みの本に出会う。シマウマ書房はあらゆるジャンルがバランスよくそろっていて、ON READINGはリトルプレスも豊富。欲望のままに過ごしたら確実に破産してしまう。それでもこれは! という邂逅を果たした数冊を買い、それらを携え、ON READINGの階下にあるcafe metsaで一服。タルトとキッシュか迷ったのちマスカルポーネとベリーのタルトを選び、本日初の珈琲とともにいただく。ここまでで相当長居してしまい、土地勘もなく移動も困難なことからほかにも行きたかった本屋はあきらめた。このあたりが名古屋における本の情報の発信地となっているらしい。知らなかった! 知らないことばかりだ。

帰りの新幹線で和牛と緑黄色野菜たっぷり弁当、ビール。のぞみのかっ飛ばしっぷりに感心し、旅の帰路で常に心に宿る、日常に戻る寂しさと安堵の入り交じったこの心情はなんだろうとゆるい思索を重ねながら音楽を聴いているうちにあっという間に東京。帰宅。

帰宅という文字を目にするたびに以前、マノエル・ド・オリヴェイラの『家路』(2001年)が公開されたとき、仲間と「今回のオリヴェイラの新作、タイトルが『家路』って……」「ずいぶん素っ気ない」「せめてもうちょっと。『わが家への道』とか」「叙情的に、『ただいま』とか」「『おかえり』とか」「『帰り道』とか。ぐっと可愛らしい」「もういっそ事務的に『帰宅』でいいじゃん」などと話したことを思い出す。いまはそうでもないけれど、当時はまだ洋画の邦題といえば仰々しいものが多かった気がして、単語いっこ、というのがわたしたちにとって新鮮だった。

自宅で戦利品(本)を並べて悦に入る。