Monday, October 15
Spotifyを渉猟していたら坂本龍一「BTTB」の20周年記念盤があった。音楽への関心の集中が10代半ばから20代前半に集中しており、途中すっぽり知識が抜けているので時の流れを早く感じてしまうというのもあるが、それにしてもあれから20年、と年月の経過にたじろぐ。
読んでいる最中はおもしろがりながら活字を追っているのだが読了後しばらくするとその内容をほとんど忘れてしまうので再読時には新鮮な気持ちでページを捲れるいいんだか悪いんだかな文章を書くのが吉田健一である。『英国に就て』(ちくま文庫)を再読している。おもしろい。
夕食、白米、油揚げとみょうがと大根の味噌汁、豚しゃぶと大根おろしとゆずポン酢、しめじのバルサミコ酢炒め、ひじきの煮物、ビール。
夜、エロル・ガーナーの「NIGHTCONCERT」を聴く。
Tuesday, October 16
日の出の時間がだんだん遅くなって早起きすると部屋はまだ暗いまま。夜明けの音楽、ファジル・サイの弾くドビュッシーとサティ。
夜はトマトとレタスと鶏肉のコンソメスープを食べながらの映画鑑賞。『ノーマ、世界を変える料理』(ピエール・デュシャン/監督、2015年)を見る。
料理は20皿。半分は手で食べる。花瓶から生えた野菜を食べる。バッタのピュレと酸葉とハーブのアイスを食べる。セロリと海藻のジュースを飲む。私は野生児。樹液や木の粉、何でも食べる。なんでだろう、焼きネギの中から小ネギが出てきた。正直、まずい料理もある(もし東急東横店でnomaが総菜屋を始めたら潰れるだろう)。でも東洋のいち小娘の味覚にそぐわないからってなんだ。堂々たる彼の料理は、違和感を反感に成長させる隙を見せず、私の中の未開、新たな感性ボタンを肯定的に押し続けるのだった。そこで過去の私は死ぬ。新しい私は、苔だろうがバッタだろうが、すべてにショックを受け、壮大な哲学を感じ、なんとか味わい尽くそうと必死になっていた(隣の席のおばあさんは、終始訝しげな顔で食事し、娘夫婦に「まだ終わらんか」と訴えていたが、本当はこの人が正常で狂喜乱舞する私たちが異常なのかもと思った)。
(平野紗季子『生まれた時からアルデンテ』平凡社)
Wednesday, October 17
岩波新書創刊80年記念としてでている『図書』の臨時増刊号に、坂井豊貴が車の免許をもっていない理由をつぎのように書いている。
単純なことだ。学生のとき、宇沢弘文の著作『自動車の社会的費用』を読んでしまい、免許をとる気がすっかり失せてしまったのだ。なお、経済学者のなかには、わたしと同じ理由で免許をもっていない人がときどきいる。
経済学者ではないわたしが免許をもっていない事情に直接的には宇沢弘文の影響はないのだが、『自動車の社会的費用』を読んで、この本が免許をもたないことへの理論武装として強力な援護射撃となったことは疑いない。ひさかたぶりに本書を読み返してみる。信号機のない横断歩道に歩行者がいたら車は停止しなければならないとある道路交通法第38条を平然と無視するドライバーだらけのこの国において、以下の引用文などは社会的には完全に無視されるであろうが、いまなお有効な指摘であろう。まったく古びていない。あきれたことに。
かつてポール・サミュエルソン教授が日本を訪れたときに、自動車のことにふれて、「まともなアメリカ人だったら、東京の街で一カ月間生活していたら完全に頭がおかしくなる」という発言をした。このサミュエルソン教授の言葉に、他の外国人もおそらく共感を覚えるにちがいない。ただ、サミュエルソン教授のように遠慮のない発言をしないだけであろう。
日本における自動車通行のもっとも特徴的な点を一言にしていえば、歩行者のために存在していた道路に、歩行者の権利を侵害するようなかたちで自動車の通行が許されているという点にある。都市と地方とを問わず、道路は、もともと歩行者のために存在していたものであり、各人が安全に、自由に歩行することができるというのは、近代市民社会における市民のもっとも基本的な権利の一つである。この市民的権利を侵害するような自動車通行がこれほど公然と許されているのは、いわゆる文明国において日本以外には存在しないといってもよい。
このように住民、歩行者の基本的な権利を侵害し、ときには生命を奪い、健康を損なうことを知りながら、自動車を運転するということは、ミシャンの喩えにあるように、ピストルを自由に使うのと同じような意味で犯罪的な行為であるということができよう。そして、多くの人々が、自らの生計をたてるために、あるいは生活の必要から自動車を運転し、利用せざるをえないというのが現状であるとすれば、このような欠陥道路を作って自動車通行を許している行政当局の社会的責任は、重大なものであるといわなければならないであろう。
歩行者の安全が保障されないような道路構造のもとでは、自動車運転者がどのように細心の注意をはらおうとしても、交通事故を防ぎえないことはいうまでもない。このような道路で、歩行者に危害を加える危険性が非常に高いことを知りながら、自動車運転をおこなおうとするのは、どのような倫理観をもった人々なのだろうか。そして、自動車運転を常習とするとき、交通事故のもたらす悲惨さに対する感覚は麻痺してゆき、歩行者に対する配慮も欠くことになってゆくであろう。
とりわけ「歩行者に危害を加える危険性が非常に高いことを知りながら、自動車運転をおこなおうとするのは、どのような倫理観をもった人々なのだろうか」とのくだりがよい。
夕食、白米、茄子とみつばの味噌汁、秋刀魚の塩焼き、大根おろし、野沢菜のきざみ漬け、みかん、ビール。
Thursday, October 18
サウジアラビア政府に批判的だった記者がイスタンブールのサウジアラビア総領事館内で殺害されたのではないかとの疑惑に、ムハンマド皇太子も関与しているのではとの報道が流れている。事実であれば大変な話であるが、本当だとしたら皇太子のあの柔和な表情をあたまに浮かべながら、「あんな人がこんなことを」という科白がぴったりだと思った。あの笑顔が不気味に思えてくる。
ムーティ指揮によるヴェルディの歌劇「アイーダ」を流しながら、ミランダ・ジュライ『最初の悪い男』(岸本佐知子/訳、新潮社)を読む。
夕食、ベーコンとキャベツとみつばのパスタ、ビール。
Friday, October 19
大沼保昭の訃報。
天気予報がコロコロ変わり、実際の天気も安定しない。「女心と秋の空」という表現を知ったのは中学校の授業中に教師が発言したときだったと記憶するが、そのときに思ったのは移りげな心理に男女は関係なく、人によるだろうということ。ずっと後になってもともとは「男心と秋の空」から派生した表現だと知ったのだが、やはり男女は関係なく、そんなの人によるだろうという話である。
Saturday, October 20
朝の音楽、Lori Scacco「Desire Loop」を聴く。
晴れ。洗濯物を干してから朝食を食べる。ゴンチチの世界の快適音楽セレクションをひさかたぶりにリアルタイムで聴く。
外出。広尾にあるCafé des prèsで昼食をとろうと向かったら、建物の工事の関係で休業していた。あてが外れたのでフレンチフライ専門店のAND THE FRIETでポテトを食べてから、CANVAS TOKYOでテイクアウトしたカフェラテを片手に有栖川宮記念公園を散歩する。ENOTECAで贈り物用の赤ワインを購入ののち、日比谷線と山手線を乗り継いで渋谷に移動。
いま話題の渋谷ストリームから渋谷ブリッジまでを散策する。渋谷ブリッジ方面は閑散としていて、まだまだこれからといった雰囲気。それにしても渋谷川沿いの再開発は自動車優先で、ところどころで車道に邪魔されて歩行者がまっすぐ歩けないとはどういうことだろう。東急電鉄の幹部たちは『自動車の社会的費用』を読んだほうがいい。渋谷ストリームにあるスペイン料理の店XIRINGUITO Escribaで早めの夕食をとってから、上野に向かう。
上野の森美術館で開催中のフェルメール展へ。現存するフェルメールの作品数を考えれば、文字どおりの「フェルメール展」なるものの開催は不可能で、フェルメールと同時代を生きた画家たちの作品が一緒に展示されるのが通例であり、正確には「フェルメールとその仲間たち展」である。このたびの展覧会は相当数のフェルメールの画業を堪能できるとはいえ、例に漏れず、出品数の大半は「仲間たち」のものである。今回の展覧会は、産経新聞とフジテレビの記念事業であり場所が上野の森美術館というところで、本質からずれた無駄なところに金をかけるテレビ的な演出満載の展覧会だろうと推測して向かうと予想どおりで、予想どおりとはいえいささか辟易する。無料で配布されていた石原さとみの音声ガイドは受け取らなかったので内容は知らない。物販もろくなものが置いてなくて、小林頼子『フェルメール論 神話解体の試み』(八坂書房)を置くくらいの知的膂力は維持してほしいと思うものだがそれは野暮な話だろうか。見れば見るほどいろいろな点が気になりだすフェルメールの絵画自体は見ることができてよかったけれども。
上野駅のアンデルセンでバゲットを買って帰る。道中の読書は『SALUS』や『メトロミニッツ』など駅構内で入手したフリーペーパー。
Sunday, October 21
見事な秋晴れ。だが、日常に雑事に追われて一日が終わる。森本あんり『異端の時代 正統のかたちを求めて』(岩波新書)を読む。
TOKYO FMで放送された「村上RADIO」を聴く。村上春樹は猫が好きらしい。村上春樹と保坂和志はお互いをどう思っているのか知らないが、相貌はとても似ている。どちらも小説家で、音楽が好きで、猫が好きで、そして顔も似ている。