234

Monday, September 14

野矢茂樹『大森荘蔵 哲学の見本』が講談社学術文庫に収まったというので、解説は誰が書いているのかと確認したら野家啓一だった。穏当というか無難というか、さして驚きのない人選だなあと思って読みすすめると、野矢茂樹による大森荘蔵批判を批判するという文庫解説としては異例の内容となっていて、文庫版あとがきで野矢茂樹がそれに応えてあらためて自説を主張している。このような応酬にこそ、大森荘蔵の哲学(哲学する姿勢それ自体を含めて)が息づいているのかもしれない。

それにしても大森荘蔵の哲学に興味はあってもその人となりにはあまり関心が向かないのだが、一般的にもその傾向はあるようで、大森荘蔵の年譜を確認すると47歳のときに「交通事故に巻き込まれ重傷を負い、入院」とあって、個人史としては大事件だと思うが、Googleで「大森荘蔵 交通事故」と検索しても、交通事故を例とした哲学問題にふれたものばかりが出てきてしまう。

夜、醤油ラーメン(長ねぎ、ハム、もやし、半熟卵)、ビール。

Tuesday, September 15

夜、冷麦、枝豆、ビール。食後に赤ワインを飲みながら読書。木村草太『集団的自衛権はなぜ違憲なのか』(晶文社)と長谷部恭男・編『検証・安保法案 どこが憲法違反か』(有斐閣)を読む。後者は、本の半分くらいが法案の資料で占められているというたいへん有斐閣らしい書籍で、冒頭には長谷部恭男による「序論」が収められている。憲法学からの安保法案批判としては、このわずか8ページの論で必要十分であり、これ以上の詳細な立論は同語反復にしかならないように思う(前者の木村草太の本がそういう事態になっており、よい内容だと思うけれど、同じ主張の繰り返しが散見される)。

『憲法と平和を問いなおす』(ちくま新書)での長谷部恭男による近代的な立憲主義のあり方の説明に従うならば、いわゆる非武装絶対平和主義は立憲主義と両立しない。自国が攻撃された際にそれでも非暴力を貫くというのはイデオロギーであり、そのような価値の押し付けは立憲主義の立場とは相容れない。個人として絶対の非暴力を貫くのは勝手ではあるが、国家として容認するのは難しいだろう。ゆえに、長谷部恭男の論じるような意味で立憲主義を掲げるスタンスは、純朴に「戦争反対」を唱える人びととはちがっている。法解釈上の理屈がとおるかたちで、自衛隊の存在も個別的自衛権も憲法第9条に反しないという解釈の成立を可能にしている。しかし集団的自衛権を行使するとなると、砂川事件最高裁判決をもち出してどれほど屁理屈を捏ねくりまわしても、憲法第9条が動かしようのない「重荷」であることに疑義をさし挟む余地はない。それが嫌であれば憲法を改正し、9条を変えるよりほかない。アメリカ合衆国の要請により、9条はそのままにして解釈を変えるという離れ業を政府がやってのけ、頼みの綱はアメリカの軍事力という状態が現実味をおびる。アメリカに服従するかたちでの集団的自衛権の行使などというのはある意味で「国辱的」だと思うのだが、それはさておき、将来にわたってアメリカが日本を「保護」してくれる保障はどこにもない。

より実質的に考えても、7月閣議決定は、集団的自衛権の行使が容認される根拠として、「我が国を取り巻く安全保障環境」の変化を持ち出しているが、その内容は、「パワーバランスの変化や技術革新の急速な進展、大量破壊兵器などの脅威等」というきわめて抽象的なものにとどまっており、説得力のある根拠を何ら提示していない。我が国を取り巻く安全保障環境が、本当により厳しい、深刻な方向に変化しているのであれば、限られた我が国の防衛力を地球全体に拡散するのは愚の骨頂である。
世界各地でアメリカに軍事協力することで、日本の安全保障にアメリカがさらにコミットしてくれるとの希望的観測が語られることがある。しかし、アメリカはあくまで日米安全保障条約5条が定める通り、「自国の憲法上の規定及び手続に従つて」条約上の義務を果たすにとどまる。本格的な軍事力の行使について、アメリカ憲法は連邦議会の承認をその条件としていることを忘れるべきではない(米憲法1篇8節11項)。いざというとき、アメリカが日本を助けてくれる保障はない。いかなる国も、その軍事力を行使するのは、自国の利益に適う場合だけであることを肝に銘じる必要がある。
(長谷部恭男「序論」『検証・安保法案 どこが憲法違反か』有斐閣、p.6)

ところで、長谷部恭男の論考は最後、自著(『憲法と平和を問いなおす』)をお薦めして終わるのだが、これが長谷部流のユーモアなのか本気なのか、いまいちわからず。

Wednesday, September 16

リチャード・パワーズ『オルフェオ』(木原善彦/訳、新潮社)を読む。木原善彦が訳者あとがきでアリ・スミスの作品を引き合いにだしていて、このスコットランド生まれの女性作家のことは以前から気になっているのだが、日本語訳がほとんどないので誰か訳してほしい。

夜、白米、油揚げと長ねぎと豆腐の味噌汁、秋刀魚の塩焼き、大根おろし、油揚げの黒胡椒炒め、キムチ、冷奴とおろしきゅうり、ビール。iPadで『The New Yorker』を読む。

Thursday, September 17

『ku:nel』(マガジンハウス)がリニューアルするらしく、次号は休刊とのこと。雑誌において「リニューアル」という言葉は不穏な響き。今号はリトアニアを撮った高橋ヨーコの写真がいい。

夜、ベーコンとほうれん草とエリンギのパスタ、赤ワイン。

Friday, September 18

夜、近所のカフェで夕食。iPadで『The Economist』を読む。

2016年の春夏コレクションが始まっているが、コレクションが始まるとインターネット上の情報が短期間に膨大な数溢れかえるので、もう逐一追う気力がない。パリが終わってから、後から見返すほうが効率がよい。

Saturday, September 19

安保法案については、内閣法制局の事務方は内心本位ではないと考えていると忖度する。

ひさかたぶりに複数の美術館&ギャラリーをどどっと行脚。場所は六本木。
・ニキ・ド・サンファル展(国立新美術館)
・隣の部屋 アーティスト・ファイル2015 日本と韓国の作家たち(国立新美術館)
・水谷吉法 YUSURIKA(IMA CONCEPT STORE)
・高梨豊 ニッチ東京(タカ・イシイギャラリー フォトグラフィー/フィルム)
・マーガレット・バーク=ホワイト作品展(フジフイルムスクエア写真歴史博物館)
・竹川宣彰 アフターアワーズ(OTA FINE ARTS)
・ルイス・ボルツ Sites of Technology(WAKO WORKS OF ART)
・石田尚志+Nerhol PERFORMANCE / 8.6.2015(YKG Gallery)
ルイス・ボルツの写真が素晴らしかった。ギャラリーに置いてあったSteidlから刊行されている写真集『Common Objects』が気になる。ボルツ作品の合間に、透明フィルムに印刷されたアントニオーニ、ゴダール、ヒッチコックのスチル写真がさし挟まれるという凝った構成のもの。

夕刻、これぞ臨海部の再開発地区と呼びたくなる天王洲アイルに赴く。T.Y. HARBORで夕食。連休のあいだはテラス席は予約で満席とのことで、2階の店内を見下ろす席で、食べて飲む。

Sunday, September 20

早稲田松竹で『やさしい女』(ロベール・ブレッソン/監督、1969年)と『ピクニック』(ジャン・ルノワール/監督、1936年)の二本立て。

長谷部恭男の本を再読しようと本棚から『憲法とは何か』(岩波新書)を抜き取る。先日言及したちくま新書の『憲法と平和を問いなおす』は所有していないので、15日の日記は刊行時に図書館で借りて読んだときの記憶を頼りに書いているのだが、それはそうと、わたしが長谷部恭男の書くものを好きなのは、真面目な話の合間になんともいえないユーモアが交じり込んでいるからで、『憲法とは何か』にもそれはあって、つぎのようなくだりにはぐっとくる。

「国を守る責務」なるものも同じで、国民を何か義務づけたいのであれば、法律を作ってその義務に反したときは罰金をとるなり監獄にいれるなりの制度を構築する必要がある。それがなければ、憲法に「国を守る責務」が書き込まれていても、それ自体に意味はないし、法律ができていれば、憲法の条文は不要である。これに対して、そうした「義務づけ」を伴わないから「責務」なのだという話もどうやらあるようだが、こうなってくると一体何がいいたいのかもはや理解不能である。理解不能な発言をする表現の自由も現行憲法によって保障されてはいるが、理解不能な話にもとづいて憲法を変更すると、憲法自体、何をいっているのか分からなくなってしまうので、止めておいたほうがよいであろう。(p.19)

夜、白米、油揚げと大根とわかめの味噌汁、鯵のひらき、大根おろし、タコとわさび、きゅうりの白胡麻和え、ビール。