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Monday, August 17

夜、インドカレー、コロナビール。食後、赤ワインを飲みながらチーズを齧りつつ、『ウィークエンドはパリで』(ロジャー・ミッシェル監督、2013年)をDVDで。イギリス人の中高年夫婦を使って、60年代ゴダールにオマージュを捧げている。最後の『はなればなれに』からの引用はあまりに露骨だが、主人公夫婦がパリの街中を駆けずり回っているところも、なんだか60年代ゴダール風ではある。しかし、引用の仕方やオマージュの捧げ方がまったく粋じゃなく、むしろダサいんじゃないかという事態になっているところがイギリス映画だ。パリに憧れる垢抜けないイギリス人の滑稽さがよく描かれているとも言えるけれども。

平野義昌『海の本屋のはなし 海文堂書店の記憶と記録』(苦楽堂)を読む。神戸の元町商店街にあった海文堂書店が閉店するまでの筆録。素晴らしい書店がなくなってしまったという美談にはしたくはない、という本書の姿勢がよい。そんなに素晴らしい書店だったら閉店しないだろうとあって、それはそうだ。著者の同僚である当時の書店員たちにインタビューしているのだが、つぎのような率直な発言はよい。

文芸書で最も売れた本は?
「印象としては、『海賊とよばれた男』ですかね。うんざりですけどね。」
(p.173)

Tuesday, August 18

通勤の道中は、iPadで『The New Yorker』を読む。

安田知子『パリの晩ごはん』(平凡社)を読むと、「フランス人にとって一般的なごはんと言えばやっぱりステーキ、仕事から帰ってきてさっと食べられるから、と。肉をよく食べるのは、簡単だからという理由もあるらしい」と書いてある。楽だと言うけれど、ステーキを焼くとなると油が床に跳ねるはフライパンが汚れるはで片付けが大変じゃないかと思うのだが。予想どおり、オリーブオイルが四方八方に飛び散りながらの本日の夕食のメインは、鶏むね肉のステーキ。あと、人参ときゅうりのすりおろしサラダ、キャベツとピーマンとトマトのガーリックソテー、ほうれん草のソテー、チーズ、赤ワイン。

筒井淳也『仕事と家族 日本はなぜ働きづらく、産みにくいのか』(中公新書)を読む。雇用や出生や婚姻の国別統計データを捌きながら、大きな政府/小さな政府という認識の枠組みが無意味であるとの指摘が本書の白眉。しかし終盤になると、いかにも「男性の学者」が書いている感あふれる、やや滑稽に思えるような記述に遭遇。

食事の準備はなかなかの重労働なので、フルタイムで働く女性なら、「家に帰ったら夫が食事をつくって待っててくれないかな」と夢想した人もいるのではないだろうか。しかし、たとえ夫のほうが帰宅が早くても、多くの女性は夫がつくってくれる食事にあまり期待しないかもしれない。男は概して料理をするスキルに欠けており、技術が追いついていないからである。比較的高価な素材をあまり手をかけずに調理するくらいならば少しのトレーニングでできるかもしれないが(肉を焼く、パスタをつくるなど)、スーパーマーケットで安売りしていた材料でそれなりの料理をつくったり、冷蔵庫にある材料を見て賞味期限や次の買い物の予定なども考慮しながら合理的に献立を組みあげるなどになると、とたんにできなくなる男性が多くなるだろう。
スキル格差がやっかいなのは、たとえ夫の側が仕事を早めの時間に終われるようになったり、育児休業をとれたりしても、少なくとも短期間では「戦力」にならないことである。要するにトレーニングにコストがかかるのだ。そのコストはたいていの場合、妻が負担することになる。たしかに男性向けの料理教室などはあるが、先ほど触れたような残り物献立や、買い物の予定などは体で覚えるしかない。妻は、夫が家事を一人前にできるようになるまでそういったことを教えなくてはならず、その間は低品質か、あるいはやたら「高品質」だが家計的には非合理的なサービス(高い肉を買ってきて焼くなど)を辛抱強く受け入れるしかない。このようなやっかいな事態を避けようと、妻が「いっそのこと自分で」と考えて料理をてきぱきとやってしまうと元の木阿弥で、結局夫は戦力外のままになってしまう。
(pp.179-180)

日々それなりの時間を料理に投下している者としては、このての記述に含まれている「蔑視」を見逃すわけにはいかない。著者は肉を焼いたりパスタをつくったりする奥深さをまったくわかっていないようだが、それはともかく、「トレーニング」だとか「体で覚える」だとかの表現から透けてみえるように、料理するスキルを知性とはかけ離れたものと捉え、訓練すれば誰にでもできるものだという錯覚がある。一般論を書いているだけでそんなつもりはないのかもしれないが、料理というものを、自身の知的膂力を踏まえれば練習すればできるのだろうけれど、練習していないからできないだけなのだと思っている、傲慢な態度がここにはある。トレーニングの問題ではなく、知性の問題である。料理を体で覚える必要はない。考えればよい。限られた材料を駆使してそれなりの料理がつくれないというのは、単純にその者が何も考えていないだけだろう。「冷蔵庫にある材料を見て賞味期限や次の買い物の予定なども考慮しながら合理的に献立を組みあげるなどになると、とたんにできなくなる」など、愚鈍以外の何者でもない。

Wednesday, August 19

夜、白米、大根と長ねぎの味噌汁、ピーマンとナスとパプリカの塩麹炒め、トマトとパセリ、冷奴とすりおろし胡瓜、焼魚(ほっけ)、シメイブルー。

『タルコフスキー日記 殉教録』(鴻英良、佐々洋子/訳、キネマ旬報社)を読む。古本屋でたまに見かけるのだが、元の定価を大きく超える値段がついているのでとても買う気になれず、図書館で借りた。自身の日記の日本語訳が高額で取引されているのを知ったら、タルコフスキー本人も吃驚するかもしれない。キネマ旬報社による復刊は叶わずとも、せめて筑摩書房あたりで文庫化してほしい。文庫化してほしいという要望はどこに訴えればいいのだろう。復刊してほしければ「復刊ドットコム」だが、文庫化ドットコムというものは今のところこの世の中に存在していない。

Thursday, August 20

夜、牛肉のステーキ、きゅうり、トマト、人参のすりおろし、バゲットとクリームチーズ、アルゼンチン産赤ワイン。

『タルコフスキー日記』のつづきを読む。あわせて『タルコフスキー日記Ⅱ 殉教録』(武村知子/訳、キネマ旬報社)も。タルコフスキーの日記のなかで、『惑星ソラリス』についてソ連当局から寄せられた様々なコメントやクレームに辟易する記述があった。思い出すのは、ワシーリー・グロスマン『人生と運命』(齋藤紘一/訳、みすず書房)の解説に書かれてあったエピソードで、「グロスマンは1949年、『人生と運命』の前編として書いた同じほどの分量をもつ原稿を「ノーヴイ・ミール」編集部にもちこんだ。検閲では原稿の9語ごとにコメントがつけられ、会議と意見の速記録は小説本体と同分量になり、『正義の事業のために』という書名まで押しつけられてズタズタにされたものが、スターリンの死後の1953年になって初めて刊行された」というもの。「原稿の9語ごと」というソ連当局の粘着質な態度に唖然とするが、しかし見方によっては、ものすごく精緻な読解をしているとも言える。好意的な読者でもこんなに丁寧に読んでくれる人はあまりいないのではないかと思う。タルコフスキーの『惑星ソラリス』でも、ソ連当局は「未来の地球の姿を明確にせよ」「脳波は最後まで示すべきだ」「サルトリウスは科学者として非人間的だ」「ハリーの自殺のシーンを短くする」「母親とのシーンは不要」「「地球」シーンが長すぎる」「観客には何だかわからないだろう」「ハリーはなぜ姿を消したのか」などなど大量の指摘事項を作品に投げつけているのだが、これも見方を変えれば、『惑星ソラリス』大好きな人じゃないか。『惑星ソラリス』をこんなにたくさんの指摘ができるまでに真剣に見ている人のほうが、むしろ少ないのではないかという気もする。

Friday, August 21

夜、夏野菜パスタ(茄子、ピーマン、トマト、ししとう、しめじ、ベーコン、アンチョビ)、プレミアムモルツ、アルゼンチン産赤ワイン。iPadで『The Economist』を読む。

Saturday, August 22

朝9時の東京駅は、いまだ「夏休み」が終結していないことを思い知らされる行楽の雰囲気満載の混雑っぷりで、構内にいるだけで疲弊しそうだ。膳まい京葉ストリート店で牛たん丼弁当を、あえん おそうざいキッチンでサラダを買って、東海道本線に乗り込む。目的地は三島。クレマチスの丘で、「クリスティアーネ・レーア 宙をつつむ」展を見るため。なるべく節約しようとの強靭なる意志をもちつつ、最短時間で到達する必要性もさしてないのもあって、新幹線や特急をつかうのは控える。が、それなりの旅情は味わいたい(お弁当も食べるし)落としどころとして、東海道本線のグリーン席に腰を下ろす。品川に到着するあたりで、牛たん丼を平らげて、熱海に着くまで読書。川端康成が伊豆について書いた随筆と小説を集めた『伊豆の旅』(中公文庫)を読んでいたところ、「正月三ガ日」という短編で、つぎのような描写に出くわす。

東京駅の気ちがいじみた混雑、汽車のなかは立ちづめ、熱海駅の騒ぎがまた大変である。(p.128)

こちらは正月の話だが、今昔、あまり変わらずという気分に。熱海に近づくにつれ、車窓から見える海が美しい。

熱海到着。乗り換え。熱海から先はJR東海になるのでJR東日本のSuicaが使えず、いったん駅を降りてから三島行きの切符を買いなおす。不便だ。そのまま三島まで行ってもいいのだが、改札口で駅員に手続きをしてもらわなければならないので、どちらにしろ不便さは変わらず。三島駅を降りてバス停に向かうと、とんでもない行列で驚く。まさか、クリスティアーネ・レーアの作品を見るためにこんな数の人が! と一瞬思うもそんなわけはなく、富士山麓での長渕剛オールナイトライブのシャトルバス待ちの行列だった。ちょっと感動的な大行列。あのシャトルバスのなかでは「巡恋歌」の大合唱がはじまったりするのだろうか。

クレマチスの丘への送迎バスの時刻表を見誤って、つぎに来るのは40分後だと判明。タクシーに乗る。節約の意思が台なしだ。タクシーのなかで長渕剛オールナイトライブについて調べる。公演時間は夜9時から翌朝6時とあって、意味がよくわからず。夜9時開始だというのに、昼の1時前であんな行列になっているのも、理解が届かず。

ヴァンジ彫刻庭園美術館で目あての「クリスティアーネ・レーア 宙をつつむ」展をじっくりと見わたす。庭園をぐるっとまわって、ミュージアムショップを覘き、CIAO CIAOでスパークリングワインを飲んで休憩し、IZU PHOTO MUSEUMで「戦争と平和 伝えたかった日本」展を見ていたら帰宅の時間。充実した気分で帰りのバスに乗る。三島駅に着くと、途切れを知らない長渕ライブのバス待ち行列が。

夕食は、三島駅にある沼津魚がし鮨で、近江握り、ねぎとろ軍艦、生ビール。帰りの東海道本線ではエコノミスト誌のつづきを読もうと思ったのだが、予想どおり半分以上を睡眠に費やしてしまい、東京に到着。

Sunday, August 23

朝食、ホットケーキ、珈琲。洗濯。髪を切りに美容院へ。昼食、素麺、枝豆、ビール。スーパーに買いもの。花を買う。弁当用につくりおきのおかずをつくる。夕食、焼き茄子と豚ばら肉のベトナム風甘酢サラダ、白米、トマトとモッツァレラのカプレーゼ、コロナビール。ラジオ。ル・コルビュジエ『建築をめざして』(吉阪隆正/訳、鹿島出版会)を読む。あっという間に休日が終わってしまう。