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Monday, March 16

今月の『ギンザ』(マガジンハウス)に「大人のオリーブ」がさし挟まっているというので、栗尾美恵子のインタビューでも載っているのかと思ったがそういうのではなかった。しかしいまインタビューを載せるなら『オリーブ』ではなく『婦人公論』のほうが適しているかもしれない。

ところで、マガジンハウスの雑誌(だけでなくこの手の雑誌全般にいえることだが)における対談ものの大半は、対談相手同士がならんだ写真を載せることそれ自体が目的化しているようなスカスカな内容だと相場が決まっているけれど、『ギンザ』での岡村靖幸がゲストと結婚について語る連載が、妙な充実さを誇っている。

夜、白米、人参と長ねぎの味噌汁、黒胡椒で炒めた豚肉とマスタード、マッシュポテト、トマトと新玉ねぎのサラダ、ビール。

Tuesday, March 17

往復の通勤時間中の読書にあてていたDeyan Sudjic, B is for Bauhaus: An A-Z of the Modern Worldが読み終わった。

夜、素うどん、ビール。

Wednesday, March 18

ロンドンのヴィクトリア&アルバート博物館でアレキサンダー・マックイーンの展覧会が始まっているという話を耳にしたので、ロンドンまでの旅費を捻出できないかわりにKristin Knox, Alexander Mcqueen: Genius of a Generationを本棚から取り出す。アレキサンダー・マックイーンが他界したすぐあとに上梓された、彼のコレクションをまとめた写真集。

『クウネル』(マガジンハウス)が届く。冒頭、吉本由美がむかしの『クロワッサン』や『アンアン』や『オリーブ』について喋っている。さきの『ギンザ』にしてもなんだか懐古趣味の風情が強いのは、マガジンハウスが創立70周年だという流れでの編集意図があるのだろうか。

夜、万能ねぎをのせた豆腐と油揚げの煮込みうどん、ビール。

Thursday, March 19

『悪童日記』(ヤーノシュ・サース監督、2013年)を見る。アゴタ・クリストフの原作を映画化。「映像化不可能と言われた小説の映画化」と仰々しく宣伝していたけれど、この程度の映像化であればできるでしょうよ、という感想。

夜、グリーンカレー、ビール。

Friday, March 20

夜、担々麺と黒ビール。彩りがたいへんグロテクスな夕飯となってしまった。『エコノミスト』誌を読む。

Saturday, March 21

上野の森美術館で「VOCA展」を見る。毎年欠かすことなく律儀に鑑賞している「VOCA展」だが、今年はこれは! と思える作品には出会えず。

昼食は上野公園にあるPARK SIDE CAFEで。開店当時はすんなり入れたと記憶しているのだが、いつのまにか行列のできる店になってしまっていて、少し待ってから店内へ。森のガーデンサンドと赤ワインを注文。

不忍池をぐるっと散歩し、まるでベルリンにでもあるような建築といった佇まいのかっこいいマンション、湯島ハイタウンを眺めつつ、旧岩崎邸庭園に向かう。散歩がてら思いつきで来てみた旧岩崎邸庭園だったが、ちょうど「午後のミニコンサート」に遭遇。芝庭のベンチからピアノの音とテノールの歌声に耳を傾ける。

湯島ハイタウンにある輸入雑貨店nicoに立ち寄ってから、スカイ・ザ・バスハウスに向かい名和晃平の展示「FORCE」を鑑賞する。入口に中田英寿から送られた花束が飾ってあったのが謎。

日暮里から初台まで移動し、ブック・カフェ・ギャラリーMOTOYAへ。注文したハイネケンを飲みながら、「もうひとつのBook Fair」と題された展示を見学する。

夜は近所の焼鳥屋で夕食。焼鳥に大根サラダに鳥雑炊にビール。入った店で酒ばかり注文している。

本日の読書は、今福龍太『ジェロニモたちの方舟 群島―世界論〈叛アメリカ〉篇』(岩波書店)とハンス・ケルゼン『民主主義の本質と価値』(長尾龍一、植田俊太郎/訳、岩波文庫)。

Sunday, March 22

午前中の雑事を終えて、目黒通りにあるCLASKAで、豚ロースのたけのこ蕗味噌焼き、サラダ、ごはん、味噌汁というランチメニュー。あわせて赤ワインのグラスを注文する。食後ぐったり疲れてしまったのは、午前中の雑事のせいか赤ワインによる酔いのせいか。屋上までいって目黒の風景をぐるっと眺め、2階にある雑貨屋を覗いてから、学芸大学駅のほうへ。途中、SUNNY BOY BOOKSに立ち寄ってから帰宅。

移動中の読書は、丸山真男『政治の世界』(松本礼二/編注、岩波文庫)。以下は「人間と政治」(1948年)から。

ともあれ現代のこうした圧倒的な政治化と集団的組織化傾向に対して、人間の内面性に座を占める学問や芸術や宗教の立場が殆ど反射的に警戒と反撥の身構えを示すのは理解出来ないことではない。そうした態度を単にインテリゲンチャの特権階級とか保身本能に帰するのは、未だ問題の存在を衝いたものとはいえない。いかなる政治権力であろうと、それが政治権力である限り人間の良心の自由な判断をふみにじり、価値の多元性を平板化し是に強制的な編成を押しつける危険性から全く免れてはいないのである。権力が駆使する技術的手段が大であればあるだけそれが人格的統一性を解体してこれを単にメカニズムの機能化する危険性もまた増大する。権力に対するオプティミズムは人間に対するオプティミズムより何倍か危険である。しかしながら同時にわれわれは古典的な近代国家におけるような私的内面的なものと公的外部的なものとを劃然と分離しうる時代には既に生きていないという現実から眼を蔽ってはならない。(中略)従って今日は内面性に依拠する立場自体が、好ましからざる政治的組織化に対抗して自主性を守り抜くがためには必然にまた自己を政治的に組織化しなければならぬというパラドックスに当面している。その際政治的なものの範型——効果本位とか、対立の単純化(敵・味方の二分法)とかいったような——に、ある程度まではどうしても我が身をはめ込むことを余儀なくされる。もしこの煉獄を恐れて、あらゆる政治的動向から無差別に逃れようとすれば、却って最悪の政治的支配を自らの頭上に招く結果となろう。殷鑑は遠くない筈である。

夜、白米、かぶとわかめの味噌汁、秋刀魚の塩焼き、大根おろし、スナップエンドウの塩茹で、タコとわさび醤油、ビール。