ベストセラーからもっと遠く離れて <後篇>

「では後篇をはじめましょう」

「2011年を振り返るにあたっては震災についてふれないわけにはいかないと思うのですが、地震直後って本を読めましたか? わたしは大地震の直後しばらく、音楽が駄目だったんです。ぜんぜん聴く気分になれなくて。細野(晴臣)さんもおなじことを言っていたんですが。アバウトな印象ですけど、音楽家は音楽を聴けなくなったと語っている人が多かったような……」

「菊地(成孔)さんもぜんぜん曲をつくる気になれなかったと言ってましたね」

「でも本は読めたんですよ、不思議と。きっとまったく本を読む気になれないという状態がつづいた人もいたでしょうけど」

「地震の直後に読んだ本って憶えてる?」

「『渋谷カフェ2』(グラフィス)と『吉高由里子のあいうえお』(リトルモア)と『音楽の旅・絵の旅』(吉田秀和/著、ちくま文庫)です」

「何そのちゃらんぽらんなラインアップは」

「いやー、我ながら不可思議な並びですね、これ。でも本当にこれらを平行して読んでました。そちらは?」

「『不合理ゆえに吾信ず』(埴谷雄高/著、現代思潮社)ですね」

「その選択って何か深遠な意味が隠されてるとか?」

「いや、ちょうど『埴谷雄高 夢みるカント』(熊野純彦/著、講談社)を読んだので、埴谷雄高の文章を読み返してみたくなったってだけなんだけど。ただそれだけ。地震直後の読書時間はさすがに情報収集に追われたところもあるから減りはしたけど、本を読むことそれ自体に影響はあんまりなかった」

「そうですね。でも、震災以後、読む本の傾向が変わったとかはないですか? これまで読んでなかった原発関連の本を読んだとか?」

「それもあんまりなかったですね。3月11日以降、書店に地震や原発の本があまた並ぶことになりましたが、ほとんど手にする気にすらなれないものばかりで。むしろ、むかし読んだものを再読したってことが多かったですね。震災直後、変な緊張感というか、躁状態になってる感じがあったでしょ? そのとき本棚から抜きとって世田谷美術館での展覧会カタログ『宮本隆司写真展 壊れゆくもの 生まれいずるもの』を眺めたりしてた。ほかにも『原子力の社会史 その日本的展開』(吉岡斉/著、朝日選書)とか『市民科学者として生きる』(高木仁三郎/著、岩波新書)とか『「核」論 鉄腕アトムと原発事故のあいだ』(武田徹/著、勁草書房)とか、むかし読んだ本の再読に終始した感じですね。あとになって、『原子力の社会史』は新版として、『「核」論』は増補版として新たに書店の棚に並びましたけど」

「「むかし読んだ」のむかしって、いつごろですか?」

「学生のころだから10年くらい前かな? あと『書物の変 グーグルベルグの時代』(港千尋/著、せりか書房)所収の「自然のブラックボックス」を読み返したりしました。この小論はもともと青土社の雑誌『現代思想』の「災害 階級・難民・セキュリティ」という特集(調べてみたら2006年1月号)に掲載されていたもので、当時読んで印象深かったのでまた読んだんですけどね。18世紀のリスボン大地震に直面したルソーの残した言葉「わたしたちの言うがままに、世界の秩序を変えなければならないというのか。わたしたちの法に自然が従わなければならないのか。わたしたちが都市を建設した場所では、地震を起こすことを禁じるというのか」を引きながら考察を進めています。過去に読んだものを振り返ってばかりだけど、それでじゅうぶん、という気がしましたね。あらたに読んだのは『「フクシマ」論 原子力ムラはなぜ生まれたのか 』(開沼博/著、青土社)くらいかも」

「わたしも『市民科学者として生きる』と『原子力の社会史 その日本的展開』を読んで、『書物の変 グーグルベルグの時代』のリスボン大地震の章を読み直し、『「フクシマ」論 原子力ムラはなぜ生まれたのか 』と『災害ユートピア なぜそのとき特別な共同体が立ち上がるのか』(レベッカ・ソルニット/著、高月園子/訳、亜紀書房)を読みました。『「フクシマ」論』を読むと、福島県にとっては3月11日以前も以後も、根本的な状況は何も変わらない、ということがわかり、その現実とじぶんの無知っぷりに愕然とさせられました」

「あの本はおもしろかったですね。ポストコロニアル論の文脈でいちおうの理由はあるものの、スピヴァクをもってくる必要はあまりないかな、とは思ったりしたけど。『災害ユートピア』は未読なのですが、どうでしたか?」

「『災害ユートピア』は内容に関して毀誉褒貶ありますが、アメリカで起こった地震やハリケーン、テロなど数多くの事例を示しつつ、災害が起こった現場では災害から隔たった人々が想像しているよりずっと人々は冷静でタフに動いていて、そこには独特の共同体が生まれている、パニックを起こしているのはむしろ中央にいるエリートたちだ、ということを指摘していますね。この後だいぶこの著者の名前は目にすることになりました」

「ほかには何かありました?」

「池澤夏樹が自身のコラム「終わりと始まり」(朝日新聞、2011年4月5日付)で「震災躁の後で震災鬱がやってくる」と書いていましたが、わたしは4月がとても辛かったです。直後の衝撃だけはじょじょに薄らいでいく一方で、気持ちが落ち込んで仕方がなく、どうにかして立ち直らないとと思い、わははと笑えて楽しめる本が読みたいなと思いました。それで選んだのが『世界文学は面白い。文芸漫談で地球一周』(奥泉光+いとうせいこう/著、集英社)」

「何その極端な選択は」

「でも、少し救われたんですよ」

「ほかにもたしか核兵器の本とか読んでましたよね?」

「時間が傷を治癒する一方で悲しみは時とともに深くなり、東京にいる自分は現地の人々とは比べようもないけれど、わたしにはわたしのレベルでの後遺があって。その後、感情というものから離れて、極めて科学的に向き合おうと思い『核兵器のしくみ』(山田克哉/著、講談社現代新書)を読みました。これは題名がちょっと誤解を呼びそうですが、原子や元素、核分裂、原子力、放射線などについて一つ一つ解説したものです。何もわからないわたしにはためになりました」

「じゃあ、そろそろ2011年の本を紹介してもらいましょうか」

「あのー、ちょっといいですか? 唐突ですがここで2010年に選んだ本の紹介をしたいんですけど……」

「2010年?」

「そう、前回やった「ベストセラーから遠く離れて」の対談で、それぞれのベストを3冊づつ選んだんですけど、憶えてます?」

「うっすらと」

「わたしが挙げたのは、『わたしの渡世日記(上・下)』(高峰秀子/著、文春文庫)、『話す写真 見えないものに向かって』(畠山直哉/著、小学館)、『蔵書票の芸術 エクスリブリスの世界』(樋田直人/著、淡交社)」

「ああ、その年に刊行された本が『話す写真』しかないっていうラインナップでおなじみの」

「おなじみかどうかはともかく、これら3冊について、タイトルを列挙しただけで内容にぜんぜんふれてないのを思い出して」

「それをいま?」

「話そうと」

「いまさら感全開ですけど」

「ま、いいじゃないですか。いまさら感あふれるコンテンツだらけのサイトなんですし。では『わたしの渡世日記』から! あの対談からほどなく、年の暮れに高峰秀子の訃報が伝えられてショックを受けたことがまず思い出されますが、その後、さまざまな媒体で高峰秀子特集が組まれているのを目にしました。著作もいくつか復刊されて、執筆デビュー作である『巴里ひとりある記』(新潮社)とか『まいまいつぶろ』(新潮社)とか。『芸術新潮』でも2011年12月号で、没後1周年特集として「高峰秀子の旅と本棚」と題したものを組んでいましたね。高峰秀子についていろいろ読んでいくと、とにかく彼女の「読むこと、知ること」への情念に胸打たれるんです。子どものころから役者として働き詰めだった彼女は、まったくといっていいほど一般的な教育を受けられず、彼女に辞書をひくことを教えたのは夫の松山善三なんですね。結婚後に。「ただ一冊だけ本を選ぶとしたら」という問いに「すかさず『広辞苑』と答えた」というエピソードもあったりして、ぐっときてしまいます。彼女の読書遍歴を辿るとおもに短編や随筆を好んだようですけど、話題の小説は必ず読んでいたようで、最後に読んだ小説が『1Q84』だったそうです」

「オーウェルの?」

「数字の9じゃなくて、アルファベットのQ。『1984』じゃなくて『1Q84』です」

「ああ、浅田彰がドクトル梅津バンドと組んだやつ」

「だからそうじゃなくて、村上春樹ですって」

「お、意図せずしてベストセラーに話が戻りましたね。ところで村上春樹の『1Q84』って読みました?」

「えーっと、読んでないです。読みました?」

「いやー、ベストセラーから遠く離れてますから」

「あの高峰秀子が最後に読んだ小説ですよ、読んだほうがいいです。ベストセラー読んでませ〜んとか言ってる場合じゃないですよ」

「文庫落ちしたら読みますよ。『海辺のカフカ』のときも同じことを思ってまだ読んでないけど」

「えー話を戻して、高峰秀子って文才のある人だったと思うのですが、どうでしょう?」

「『わたしの渡世日記』を読んだだけの感想になるけど、いいですか? 達意の文章家って感じではないけど、文章のリズムが心地いいなと。読んでいて小気味いいですね」

「そうそう。わたしは彼女がまわりの人について綴った文章が白眉かなと思っているのですが、あれだけの観察眼と表現する力のあった人にとって、生身の人間ほど面白いものはなかったでしょう。そしていつも人に支えられてきたという、まわりの人々に対する謙虚な想いがあって」

「おすすめなだけあって『わたしの渡世日記』はおもしろかったです」

「必読ですよ。ではつづいて2冊目、『話す写真 見えないものに向かって』(畠山直哉/著、小学館)です。畠山さんについては諸々話すと長くなるからひとつだけわかったことを話すと、写真家には「語る人」と「語らない人」がいる、ということですかね。まえに市橋織江のトークショーを聞いたことがあったんですけど」

「銀座の三越でやってたやつね」

「インタビュアーに何を訊かれても感覚的な言葉でふわっとした回答しかしてなかった。決してつまらないというわけじゃないんだけれど、ああ、この人は言葉で突き詰めていく人じゃないんだなと」
「じぶんの写真について、あるいはもっと広く写真という表現手段について、言葉で説明することにあんまり興味なさそうでしたよね、市橋織江は」

「そうなんです。くらべて畠山さんは」

「真逆ですね」

「写真家にもいろんな人がいるっていう、あたりまえの話なんですけど」

「タルボットの『自然の鉛筆』にまで遡って写真について探究していますから、畠山さんは。カメラというメディウムを使って表現をするということに関して、多少なりとも写真家は考えるものでしょうけれど、畠山さんは針が振り切れるまで、原理的なレベルで、それも歴史的な検討も踏まえつつ考えている。そんな印象です」

「少し前に出かけた東京都写真美術館の展覧会もすばらしかったです」

「新しく出た写真集、欲しかったけど展覧会カタログを買うにとどめた」

「では最後、3冊目は『蔵書票の芸術 エクスリブリスの世界』(樋田直人/著、淡交社)です」

「ぞうしょひょう?」

「蔵書票ってわかります? 本の見返し部分に貼って、その本の持ち主をあきらかにするための紙片。エクスリブリスともいいますね」

「蔵書票にはもともと興味があったんですか?」

「いえ、まったく。手にとったきっかけは長くなるのでまた再来年あたりに話すとして、この本を読んでみたら蔵書票についてひととおり知ることができてとても勉強になりました」

「蔵書票の愉しむポイントはどのへんなんでしょうか?」

「素敵な図案がたくさんあって、美術品として愉しめるんです。この本を読んで以降も蔵書票についてちょこちょこ調べていたら、現存する最古の蔵書票は15世紀につくられた木版のものらしく、図柄がハリネズミ。うーん、いまいち可愛くないんですけど……。ま、ユーリー・ノルシュテインの『きりのなかのはりねずみ』くらい可愛かったらそれはそれで欲しくなって困るんですけど」

「蔵書票って収集するもの?」

「収集の対象にもなってますけど、自作するのもおもしろいですよ。本まわりの愉しみのひとつとして、アリなのでは? 蔵書票についての知識よりとりあえずどんな図案があるのだろうと知りたければ、『エクス・リブリス 和の蔵書票コレクション』(小槌義雄/監修、ピエブックス)を読むといいんじゃないでしょうか。で、これ、とってもピエブックスな本です。わたしが最初に読んだ硬派な本にくらべて、なんともマイルドな口あたり。余白が多くてふわっとした感じで」

「市橋織江みたいですね」

「強引につなげなくていいですよ」

「同じような内容でも国書刊行会が出せば絶対ちがうものになりますよ。情報ぎっちぎちで。というか、おなじ話を去年しましたね」

「してますね」

「進歩がない」

「ないですね。来年もおなじ話しますよ、きっと」

「国書といえば『写真との対話』(近藤耕人+管啓次郎/編、国書刊行会)という本があって。畠山さんのインタビューも載ってておもしろいですよ」

「話がつながってるんだか脱線してるんだか、よくわからないことになってます。では最後に、2011年に読んで良かった本を3冊挙げておきますね。『島守』(中勘助/著、百年文庫28『岸』収録/ポプラ社)、『甦る相米慎二』(木村建哉+藤井仁子+中村秀之/編、インスクリプト)、『森有正先生のこと』(栃折久美子/著、筑摩書房)です」

「えーと、そろそろ時間も時間ですし、その3冊については……」

「ん? 次回ですか?」

「また来年」

2011年12月某日 代官山 DAIKANYAMA T-SITE Anjin にて ( 文責:capriciu )