ベストセラーから遠く離れて <前篇>

「カフェで漫然と本の話をするのはどうかなと企画して、いまこうして恵比寿のカフェにいるわけだけど、どうですかね、これ」

「どうですかね、と言われても……」

「イメージとしては、モデルの杏が広告業界にいた大倉眞一郎と本の紹介をする J-WAVE の番組があるでしょう」

「BOOK BAR ですか? [1]

「そう、土曜日の夜にやってるやつ。ああいう感じで本を肴に四方山話をするのはどうかなと。洒落たカフェで食事でもしながら本をめぐるマニアックにも程がある話をしていたら、おもしろい状況になるのではないかと思ったんだけど」

「BOOK BAR で “マニアックにも程がある話” をしているかは知りませんが……」

「放送を聴いていると杏ちゃんは歴史好きだから、戦国やら江戸やらの歴史の話題についてはけっこうな凝り屋だと思うけど。ま、でも J-WAVE なのであの番組はソフィスティケートされた雰囲気です。ああいうのを目指しますので。それはそうと、なんて名前の店でしたっけここ?」

「Rue Favart です」

「りゅ、ふぁー、ばー。憶えられん。Rue Favart にかぎらずカフェの名前ってさっぱり記憶できないけど、川口葉子が今年の夏にだした本『東京カフェを旅する』にも書いてあって、有名な店のようで。パリっぽくもありメキシコあたりの中南米の趣も漂わせるいい感じのカフェ」

「大好きなカフェです。恵比寿ガーデンプレイスと日仏会館の向かいにあります。All About [2]でも取りあげられてますね。メニューも豊富だし、一階のショーケースにならぶケーキにそそられます。店内の黒板にずらりと書かれたワインリストも圧巻 [3]。『東京カフェを旅する』では

東京オリンピックの年にできた三階建ての一軒家を改装し、1996年にオープン。十数年の日々を歩みながら、まったく鮮度の落ちない稀有な存在。 [4]

と紹介されています。さて、それでは本の話をはじめましょうか。まずは今年の十冊を選んでみます?」

「無理して十冊選ぶこともないんだけど、2010年を振りかえる前口上として年間ベストセラーランキングについてしゃべろうかと。トーハンと日販、あとオリコンの年間ランキングを眺めながら。オリコンは出版取次を通らない本もあるのでいちおう参照しておこうと。ランキングは見ました?」

「年の瀬の風物詩、指示どおりトーハンと日販はあらかじめ見ておきました。オリコンのランキングは Yahoo! からリンクを辿って。トップページのトピックスに出てたんですよね」

「毎年言ってることだけど、このてのランキングを眺めながら思うのは、例によってベストセラーの類いを呆れるほど読んでないという……」

「読まないですね……」

「で、トーハンと日販はランキングがわりと似てるけど、オリコンだけちょっとちがう。トーハンと日販は宗教本を排除していないのが目を引くのと、オリコンの順位では宝島社の agnes b. や Cher を特集した本がランクインしているのが取次のとは異なっていて。あとはだいたいおなじようなものだけど。すべてを検討するのは大変なのでとりあえずトーハンのランキングを見ながらしゃべりますが、ベストテンのなかで読んだ本ってある?」

「ないですね」

「『1Q84』も読んでない?」

「読んでません。読んだかなと錯覚をしたのは池上彰の本ですね」

「でもこれじゃない?」

「これじゃなかったです」

「べつの池上彰の本だった、と。じゃあ一体どれなのかがまったくわからなくなってるけど、この人。池上さん、本出しすぎだから」

「ランキングのなかでは、13位の『日本人の知らない日本語』。マンガですね。これは読みました。おもしろかったです」

「これ何の本?」

「日本語教師が外国人に日本語を教えるんだけど、どのように生徒たちが “素でボケるか” っていう。たとえばテーブルは一台、椅子は一脚と数えるといったときに「先生、便器は何と数えるんですか?」という質問が飛んで、君の人生で便器を数えるシチュエーションがあるのか! という。そんな本です。ほかにも、日本語を教える上での葛藤や悩みが吐露されていたり、日本語に対する著者本人の考察があったりとか。素直に楽しめる真面目な本ですよ」

「エッセイまんがみたいなもんですか」

「そうですね。近年快進撃をつづけるエッセイまんがのなかでもアカデミック系といいますか」

「その話でいうと、きのう帰りの電車で柳瀬尚紀の『日本語ほど面白いものはない』を読んでいて。田舎の小学六年生に「日本語がいかに天才か」を教える内容で、小学生相手に日本語の奥深さを柳瀬尚紀流に解説している」

「わはは、と笑える感じですか?」

「わははというか……やっぱり柳瀬尚紀って変なこと考えるなーという感じ。そのむかし東大の教科書『知の技法』で柴田元幸が

名訳者は大勢いても、化け物と呼べるのは柳瀬尚紀だけでしょう。ジェイムズ・ジョイス『フィネガンズ・ウェイク』の訳となると、もう何がどうすごいのかわからないくらいすごい。 [5]

と書いていたけど。柳瀬さんは自身のプロフィールに「大学教師を辞職し、辞書駆使して翻訳活動に専念」って書くような人ですから、まあ想像してもらえれば」

「小学生の反応はどうだったんですか?」

「良好だったみたい。さらっと読めるいい本でした。脱線したので話題をベストセラーに戻すと、ランキングのなかで読んだのは『これからの「正義」の話をしよう — いまを生き延びるための哲学』くらいかな。マイケル・サンデルの本。このあいだ電車の中刷り見てたら池上彰とサンデルが対談したらしくて [6]

「へー」

「サンデルさんは、どういう位置づけなんですかね? 日本で」

「日本での位置づけはおおむね歓迎すべきものとして扱われているように思いますが」

「そうなの? うーん、サンデルの本って日本の文脈に即していうと、大学教授が一般向けの新書を書いてうっかりヒットしちゃった雰囲気に似てる気がして。ちがうかな。『これからの「正義」の話をしよう』自体は悪くない本だと思いますけど」

「この人ってなんで火がついたんでしたっけ?」

「「白熱教室」でしょ。といってもテレビを見ないのでどういう授業だか知らないけど」

「テレビをまったく見ないわたしたちがテレビの話をすると火傷しますよ」

「日本でサンデルがどのようなかたちで受容されているのかは興味あります。つい最近ジョン・ロールズ『正義論』の新訳が紀伊國屋書店から7,875円という恐ろしい価格で上梓されたけど、『これからの「正義」の話をしよう』を評判になっているからと読んでみた人すべてが『正義論』以降のアメリカ政治哲学で議論されてきたリベラリズムやらリバタリアニズムやらコミュニタリアニズムやらの思想的文脈を咀嚼しているわけではないでしょう。『これからの「正義」の話をしよう』で多少は解説されているとはいえ。通勤電車で読んでる人を見かけましたけど、現代アメリカの政治哲学や法哲学に知悉したサラリーマンがわんさか存在するはずもない。いたら怖いし。どういう風に読んでるのかな。サンデルの本では勁草書房から邦訳のでている『リベラリズムと正義の限界』を読んでみたけど、延々とロールズ批判をやっているコミュニタリアンなわけですよ、この人は。共同体主義的な視点から「善」を捉えようとするサンデルの所説の妥当性はさておくとして、たとえば仲正昌樹『集中講義! アメリカ現代思想 — リベラリズムの冒険』といった入門的な解説本を紐解いてみればわかるように、『正義論』をスプリングボードとする政治哲学・法哲学の議論の流れのなかでサンデルはたくさんいる登場人物のうちのひとりなんだから、あの人だけ群を抜いて人気がでちゃうとバランス悪いように思うんだけど。どうなんでしょ」

「んー」

「ほかのベストセラーとして、出版取次を経由してない本で『超訳 ニーチェの言葉』というのがオリコンのランキングにあったんだけど。なんですか、これ」

「なんですかね、これ」

「自己啓発系?」

「自己啓発だと思いますが」

「ニーチェが自己啓発。すごい時代になったもんだ」

「……」

「じぶんの言葉が自己啓発本になっているとニーチェ本人が聞いたら発狂するかもしれない。でも晩年のニーチェはすでに発狂してたからショック療法でひとまわりして病が治るかもしれない」

「はあ」

「それにしてもニーチェってあまりにテツガクテツガクした雰囲気で、ちょっとダサイって感じすらあったんだけどまさか自己啓発に化けるとは衝撃です。ニーチェの言葉を引用するって青臭いところがあるし。『超訳 ニーチェの言葉』を読んで感銘を受けた人はつぎに『悲劇の誕生』を読むといいですよ。うんざりするから」

「そのへんの話に明るくないわたしでも、ニーチェって……とは思いました」

「ニーチェの本もそうだけど、こういうベストセラーって意外と老舗の本が大勢を占めない。『1Q84』は新潮社だけど、それくらい」

「いわゆる老舗出版社ってあんまりでてきませんね。ランキングを瞥見すると、大和書房とかディスカヴァー・トゥエンティワンとか飛鳥新社とか……」

「知ってるのもあるけど、一般にみんなが出版社としてイメージする版元があまりでてこない」

「講談社とか文藝春秋とか」

「で、出版業界のなかでわりとマイナーなところがベストセラーだしたりするんだけど、マイナーといってもみすず書房や国書刊行会の名前はけっして登場しない」

「作品社とか月曜社とか」

「でてこない。でてきたら怖いけど。年間ベストセラーで一位が山尾悠子『歪み真珠』(国書刊行会)で二位が矢内原伊作『完本 ジャコメッティ手帖』(みすず書房)だったら、ようやく日本が文化的に成熟したと言える」

「言い切りましたね」

「頭おかしくなったとも言える」

「 “頭おかしくなった” のほうが適切ですね」

「みすず書房の矢内原伊作の本って8,000円くらいして、いつも思うんだけど、みすずの本って誰が買ってんだかわからない」

「研究者とかですかね?」

「みすず書房の本は高すぎてとてもじゃないけど買えない。本好きってだいたい貧しいからさ」

「あのー、時は平成ですよ。飯代を本代に充てたような昭和初期の苦学生じゃあるま……」

「みすず書房の本を買えるのは富裕層ですよ、あなた。だけど、みすず書房の本を買う富裕層ってまったくイメージできない」

「知的好奇心にあふれた富裕層が聞いたら怒りますよ」

「富裕層はベストセラー買うよ、たぶん。みすずや国書の本を買うかなあ。ところで国書刊行会が今年『切手帖とピンセット』とか『世界の市場』とかアノニマ・スタジオがだしてもおかしくないような本を出版しているんだけど、できあがった本はやっぱり国書になってしまうという惨状を目にした」

「惨状って」

「おしゃれ本に収まらず、やたら情報量が多くて」

「アノニマやピエブックスがつくると余白が多いですね。国書がつくるとぴっちりになる」

「ふわふわしてないから、国書は。ぎゅっとしてる。デザイン本だとしても字を押し込まないと気が済まない」

「国書刊行会の編集者で有名なのは、樽本さんでしたっけ?」

「アルフレッド・ベスター『ゴーレム 100』の渡辺佐智江の訳者あとがきで「樽本周馬」の名前を意識するようになりました。そういえば樽本さん、デイリーポータルZの記事「珍書・奇書を出し続ける出版社」でも登場してた [7]。どうでもいいけど、この記事での樽本さんの写真、港千尋に似てませんか?」

「ほんとどうでもいい話を……。たしかにちょっと似てますけど」

「樽本さんが今年手がけた本のなかでよかったのは、ウィリアム・トレヴァーの『アイルランド・ストーリーズ』ですね。すばらしい短篇集でした。本年国書のなかでベストワン、おすすめ。ところで、きのうみすず書房が今年刊行した本の一覧を眺めていたんだけど、みすずって渋い本か病気の本ばっかりだしてるんですよ。なんなんでしょう、この出版社は」

「ベストセラーから遠く離れた途端、しゃべりに勢いがついてる……。えーっと、重箱の隅をつつく話題で対抗しますと twitter で知ったんですけどみすず書房にロゴができたんですよ、今年6月に [8]

「知らないよ」

「最近のみすず書房の本の裏表紙をみるとちゃんとロゴが印刷されてるんです。なぜいまロゴをつくろうとしたのかが謎ですけど」

「齋藤智裕『KAGEROU』」

「お、ベストセラーの話に戻った!」

「たぶん来年のランキングで上位に食い込む、ひょっとしたら一位になるかもしれない本。立ち読みでもしました?」

「してないです。興味なし、です」

「もちろん読んでないんだけど、この小説にかんしては斎藤美奈子が朝日新聞の文芸時評で

「わからない」の効用」と題して「「わからない」の効用はわからなさそのものにある。私の頭はこんなに悪かったのかと思うと愕然とする。しかし文学が、いや世界が簡単にわかると思うほうが間違いなのだ。
人気俳優が手がけたことで話題の某社小説大賞受賞作は、わかるものだけを並べた小説だった。今後も作家活動を続けるという彼こそ文芸誌を読んで愕然とすべきではなかろうか。 [9]

と皮肉を書いてる。まあ「「わからない」の効用」って意見もちょっと凡庸というかクリシェですけどね。わからないことこそが素晴らしい、っていうのは。でもそういうことを言いたくなる程度の小説なのでしょう。それはそうと『KAGEROU』で思ったのは、版元はポプラ社でしょ。いまこの小説のせいでポプラ社の評判ががた落ちになってるんだけど、ポプラ社って絵本とかで好きな人は好きというか」

「思い入れのある人はたくさんいるはずです。わたしもポプラ社の本は子どものころたくさん読みました」

「最近では『百年文庫』もだしてるし。なんだけど『KAGEROU』一冊をだしたがために社員の一時的な給与は潤うかもしれないけれど、えらく出版社の評判を落としてしまった気がして。ほかにも二階堂奥歯の『八本脚の蝶』だってポプラ社でしょう」

「え、そうなの? 意外!」

「『八本脚の蝶』はいま絶版になっていて、古本で買おうと思ったら福沢諭吉をださなくちゃいけなくなってる。で、いま『八本脚の蝶』をポプラ社が復刻したら、ポプラ社へのネガティブ評価が回復しますよ。局地的に」

「局地的に」

「復刻したほうがいいと思うんだけどね。復刻したら日本中で何人かは、お、ポプラ社やるな! と思うって」

「数十人くらいでしょうか」

「数十人か……。数百人くらいいてほしい。『八本脚の蝶』は国書刊行会が復刻するのがふさわしいのだけど、本当は。国書だしてくれないかなー、空気読まずに豪華装幀にしちゃって五千円を超えるような価格で」

「ベストセラーの話をするはずが、国書とみすずの話ばかりしてます! ベストセラーから遠く離れました」

「J-WAVEからも遠く離れた」

2010年12月某日 恵比寿 Rue Favart にて ( 文責:capriciu )
  1. BOOK BAR []
  2. Rue Favart …恵比寿 [カフェ] All About []
  3. 今回の対談中においては理性維持のためワインを注文することはなかったので、まちがっても「酔いどれ対談」ではない。しかしながらどうみても「酔っているとしか思えない会話」との印象を読者に与えるとすれば今後の課題である。 []
  4. 『東京カフェを旅する — 街と時間をめぐる57の散歩』 川口葉子:著、平凡社、2010年、45頁 []
  5. 『知の技法 — 東京大学教養学部「基礎演習」テキスト』 小林康夫、船曳建夫:編、東京大学出版会、1994年、77頁 []
  6. 『週刊文春』 2010年12月30日・2011年1月6日号、文藝春秋 []
  7. @nifty:デイリーポータルZ:珍書・奇書を出し続ける出版社 []
  8. Twitter / misuzu_shobo []
  9. 『朝日新聞』 2010年12月28日朝刊、朝日新聞社 []