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Monday, November 10

有給休暇を取得した月曜日の午前中、来日するというテリー・ライリーの「In C」を聴きながら小沼純一『ミニマル・ミュージック その展開と思考』(青土社)のライリーの章を読んだ。

テリー・ライリーの《インC》は、或る意味で、曲が始まってしまったら、どこを切り取ってもおなじひびきがする。雑な言い方をすれば、ドレミファソラシドというハ調の音階すべての音が同時になりひびき、ビートをもって渦をなしている。ひとはこの音楽をどこから聴きはじめてもいいし、やめてしまってもいい。ひとつの持続のなかに身を耳を浸していって、そのどこもおなじようなひびきのもっとこまかいところを注視していくと、その音の運動はけっして止むことはなく、むしろ曲が終わってしまっても聴き手のなかでは終わることなくつづいていゆく。《インC》はひとつの聴き方を修得する場でもある。
六四年サンフランシスコ、或る晩、仕事を終え家に帰るバスのなかで、突然この作品の完全なアイディアがライリーの頭のなかに浮かぶ。彼は家に着いて、徹夜して楽譜にし、しばらくして大きなコンサートを開いた。これは聴衆もショッキングだったが、ライリー自身にとってもひじょうに大きな経験だった。思想的にも、また革命的にも成功だった。ライリーは感動したのか動転したのか、ともかく持っているものを売り払い、荷造りし、妻と子供を連れてキャンピング・カーでメキシコへと旅だってしまうだろう。

脳内がミニマル・ミュージックに浸されたその流れで、スティーヴ・ライヒの「Electric Counterpoint」をかけた。パット・メセニーのギター演奏によるこの曲は、これまでの人生で一番聴いたミニマル・ミュージックかもしれない。

音楽をとめて、読書。先週から読んでいたトゥーラ・カルヤライネン『ムーミンの生みの親、トーベ・ヤンソン』(セルボ貴子・五十嵐淳訳、河出書房新社)を読み終えた。それなりの紙数を割いてヤンソンのセクシュアリティ、具体的には同性愛について書かれてあって、ヤンソンは積極的に自身の性的指向について語ろうとはしなかったようだが、評伝によれば彼女が同性愛者であることは公然の秘密だったとのこと。しかし日本人がヤンソン(やムーミン)ついて書いているもので、そのことに直接言及しているものはほとんどないように思う。もちろん書けばいいってものではないが、まったくふれないというのは、それはそれである種の抑圧が働いているような感じがする。つづけて読んだのは、シモーヌ・ヴェイユ『工場日記』(田辺保訳、講談社学術文庫)。ヤンソンとヴェイユ、どちらも冨原真弓がふかく探究している人物だけれど、本日読んだのものに冨原訳はなし。

昼食後、ひさしぶりにプロジェクターをひっぱりだして、ジャン=リュック・ゴダール監督『JLG/自画像』(1995年)を見る。鑑賞後は、松浦寿輝『ゴダール』(筑摩書房)と浅田彰『映画の世紀末』(新潮社)における本作への言及箇所を確認しつつつまみ読み。蓮實重彦『ゴダール革命』(筑摩書房)は言及の箇所が少しだけだった。

夜、白米、烏賊の塩辛、かぶの味噌汁、蛸と万能ねぎのわさび醤油和え、秋刀魚の塩焼き、ビール。マルグリット・デュラスの本を二冊、『モデラート・カンタービレ』と『破壊しに、と彼女は言う』(どちらも河出文庫)を読んだ。

Tuesday, November 11

夜、豚肉とかぶの葉、万能ねぎをのせた塩ラーメン、ビール。

Wednesday, November 12

夜、豚そぼろ肉としめじと玉ねぎのトマトソースパスタ、紫玉ねぎとコーンときゅうりのサラダ、赤ワイン。

Thursday, November 13

夜、白米、大根とわかめの味噌汁、秋刀魚の塩焼き、大根おろし、かぶの葉の炒めもの、ビール。

Friday, November 14

夜、中村屋のインドカレー、きゅうりと紫玉ねぎのサラダ、ビール。

Saturday, November 15

快晴。上野駅で下車。昼食に上野恩賜公園にあるパークサイドカフェを予定していたのだが、あまりのよい陽気にきっと行列ができているに違いないと推察して、焼肉店の土古里に変更する。ネギ塩牛タンと牛カルビのセットメニューを注文。上野公園を横切るついでにパークサイドカフェを見やると、やっぱり行列ができていた。

東京藝術大学大学美術館に到着。「河北秀也 東京藝術大学退任記念 地下鉄10年を走りぬけて iichikoデザイン30年展」を見学。焼酎「いいちこ」の広告を一挙に紹介する展示で、とても充実した内容なのに、なんと入場無料。図録買って帰ろうかと考えながら会場から出ると、受付の女性に呼び止められ、よろしければどうぞと図録をタダでくれた。どういう太っ腹具合なのか。お金の流れの仕組みがさっぱりわからない。

それはそうと、河北秀也の掲げたテキストがよく、とりわけ次のくだりにとても共鳴する。

ただ一つ考えているとすれば、今を生きる自分のことだけである。当然と言えば当然なのだが、自分は「いいちこ」という商品をリードしていくのにあたいするのか、リードしていくのに何を知らなければならないのか。美術、音楽、科学、スポーツ、経済、家庭、企業、政治、行政、宗教、戦争・・・何か足りない知見はないだろうか、死角はないだろうか。もっと知らなければならないことはないだろうか、常に考えている。しかし、ビジネスマンはこれらのことを無視し、競合商品のことや売上げ目標などをもっとも大切なこととして企業に提示する。また限定された世界だけをピックアップした数値を眺めるだけのマーケティングというシステムに頼る。安易な専門教育では「社会を意識したモノヅクリを」とか「社会に受け入れられるようなデザインを」とか言って、社会や人々のためにデザインすることを簡単に要求する。そんなことより社会のもろもろの事を良く知るのが先ではないだろうか。

会社員をやっていると、あの「限定された世界で右往左往している感じ」というものに、いつも驚く(呆れる)。

つづけて国立西洋美術館のフェルディナント・ホドラー展、あんまり混んでいないようだったら入ってみようと思って赴いたら、空いていた。鑑賞者としては空いている美術館は結構なことだが、なんで空いてるんだ、もっと混んでよい、混むべきではなかろうかと思うくらいホドラーの絵画はよかった。

本日が返却期限のロバート・イーグルストン『ホロコーストとポストモダン 歴史・文学・哲学はどう応答したか』(田尻芳樹・太田晋訳、みすず書房)を読み終えて、無事返却。夕食は近所のカフェで。

Sunday, November 16

日曜日は雑事と散歩と読書。

スーパーで買い物を済ませ、まだ紅葉の色づきには早い樹々の道のりを散策し、保坂和志『朝露通信』(中央公論新社)と矢野久美子『ハンナ・アーレント、あるいは政治的思考の場所』(みすず書房)、仲正昌樹『マックス・ウェーバーを読む』(講談社現代新書)を読んだ。

夜、白米、かぶと長ねぎのコンソメスープ、焼き鮭の玉ねぎとしめじのバルサミコ酢ソースがけ、マッシュポテト、人参のピクルス、ベビーリーフ、赤ワイン。