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Monday, October 13

台風19号が接近中。が、午前6時に目が覚めて窓を開けてもその予兆は感じられず。録音しておいた世界の快適音楽セレクションを聴きながら、クロワッサン、スクランブルエッグ、ほうれん草の黒胡椒炒め、珈琲の朝食。

午前中は読書。数ヶ月前に、三冊の文庫をセットで買った山田宏一『シネ・ブラボー』(勁文社)をまとめて読む。三冊はそれぞれ「小さな映画誌」「映画について私が知っている二、三の事柄」「わがトリュフォー」という副題つきの映画エッセイ。

ベーコンと蛸とトマトとほうれん草の白ワインペペロンチーノ、バゲットとレバーペースト、白ワインの昼食ののち、午後も読書。

青木淳悟『男一代之改革』(河出書房新社)を読む。なんで松平定信? という執筆動機が不明の表題作につづく、ちまちました地理上の事実を正確にそして執拗に綴る「鎌倉へのカーブ」がよかった。青木淳悟の淡々としつこい文章が好きだ。

ウィトゲンシュタインの弟子が書いた回想録ノーマン・マルコム『ウィトゲンシュタイン 天才哲学者の思い出』(板坂元訳、平凡社ライブラリー)を読了。ウィトゲンシュタインの哲学について何も知らなくても読める。哲学者=変人という紋切型のイメージを裏切らない奇妙なエピソード満載である。

この年は例年にない暑さで、ウィトゲンシュタインのいた二階の部屋は、非常に居心地の悪い日が多かった。虫除けの金網が風通しを悪くしているが、あれは取りはずせないものだろうかと、彼は言い出したこともある。はずしたら、虫がものすごく入って来て、暑さよりもひどいことになる、と私が答えても、ウィトゲンシュタインは、信用しなかった。イギリスもヨーロッパ大陸も、窓に金網がないのが普通だと彼は主張した。私が、アメリカはヨーロッパよりも虫が多いのだと言っても信用しなかった。そして、その日散歩に出たとき、はたして、よその家もみんな網戸をしているかどうかを確かめようとしたらしい。けっきょく全部そうなっているということがわかったが、それだけの理由があるにちがいないと考えないで、アメリカ人は、金網が必要だという点について、こぞって浅はかな偏見にとらわれているという、奇妙な結論に達して、イライラした顔をして私にこの結論を教えてくれた。

哲学者が語るとなにやら帰納的な思考の日常生活への適用をやっているように錯覚するが、しかし冷静に読めば、ただの理不尽な言いがかりである。

夜、白米、大根の味噌汁、豚キム、サラダ(蛸、紫玉ねぎ、ベビーリーフ、きゅうり、ミニトマト)、ビール。

Tuesday, October 14

台風がすべての雲をひっさらってしまったかのような青空が拡がっていた。昼休みに図書館に予約しておいた本を取りにいく。

夜、焼きそば、ビール。ジュリアン・グラック『アルゴールの城にて』(安藤元雄訳、岩波文庫)を読了する。

Wednesday, October 15

きのうの快晴が幻であったかのように、どんよりとした雲が空を覆い、朝から雨が降りだした。山手線は信号機トラブルだとかで、会社に数分遅刻する。

本日は午後半休を申請済み。昼食は丸善のカフェで早矢仕ライスにしようと東京駅に向かうものの、ふたたび信号機トラブルとやらで山手線が止まってしまう。そんなに故障するのであれば、手旗信号にすればいいと思う。丸善で食事ののち、書店を物色。カフェとおなじフロアにあったHMVはいつもまにか撤退しており、洋書売場が拡張されていた。

昼すぎにスーツ姿で書店をうろうろしていると仕事をさぼっているサラリーマンにしか見えないが、断固として午後半休を取ったのだと主張したい。誰かに。

有楽町まで移動して、スタバでカプチーノを飲みながらジュリアン・グラック『シルトの岸辺』(安藤元雄訳、岩波文庫)を読む。昼すぎにスーツ姿でスタバで本を読んでいるなんて仕事をさぼっているサラリーマンにしか見えないが、断固として午後半休を取ったのだと主張したい。誰かに。

午後3時前、フランソワ・トリュフォー監督『日曜日が待ち遠しい!』(1983年)を見るために角川シネマ有楽町に足をはこぶ。昼すぎにスーツ姿で映画館にいるなんて仕事をさぼっているサラリーマンにしか見えないが、断固として午後半休を取ったのだと主張したい。誰かに。

サスペンスとしては杜撰にも程がある構成だと思うけれど(警察が「容疑者」の事務所を最後の最後まで調べようとしないのはどういうことなのか)、辻褄がどうのこうのなどどうでもよくなる愛すべき傑作を、劇場で見れて嬉しい。

いつまでたっても映画狂の少年からぬけきれず、作品も不安定にゆれつづけた。失敗作を撮るあやういイメージがいつまでもつきまとい、巨匠づくことがなかった。
「映画をつくることは私の少年時代の数々の夢を実現すること」だとトリュフォーは言ったが、遺作になった『日曜日が待ち遠しい!』は、まさに、そんな映画ファンまるだしの少年のいたずらっぽい夢の数々がちりばめられ、二十五年間に二十三本の作品を撮ってきたベテラン監督とはとても思えない、処女作のような無謀な若々しさ、気恥ずかしいくらいのみずみずしさにあふれた映画だ。その最後の作品の題名に合わせたかのように、一九八四年十月二十一日の日曜日に、フランソワ・トリュフォーは、悪性脳腫瘍のため、五十二歳の生涯を閉じた。
(山田宏一『シネ・ブラボー 3 わがトリュフォー』勁文社)

帰り際に地元のカフェで夕食。

Sunday, October 19

角川シネマ有楽町でフランソワ・トリュフォー監督『緑色の部屋』(1978年)と『アメリカの夜』(1973年)を見る。『アメリカの夜』は好きな映画で何度も見ているのだけれど、何度見ても楽しい。映画の制作過程を映画にした構造なので、出演者たちは混乱しなかったのだろうかと思って山田宏一『フランソワ・トリュフォー映画読本』(平凡社)を確認すると、やっぱり混乱している。

まず、撮影するシーンのテストをやる。わたしが、「ヨーイ・スタート!」と号令をかける。テストだから、まだ本当にキャメラを回してはいけないのに回してしまうというようなことが何度もありました。逆に、本番なのにキャメラが回っていないこともあった。「カット!」という言葉はフランス語と英語で使い分けることにしたのですが、これも混乱のもとになりました。フランス語で「Coupez!」と言ったときには映画中映画のシーンの撮影中にフェラン監督が言っているのだから、そこは本当のカットではない。本当のカットのときは英語で「Cut!」と叫ぶという取り決めにしたのに、キャメラマンたちはすっかり混同してしまって、一時はめちゃくちゃになりました。それに、女優のヴァレンチナ・コルテーゼなどは、最後まで、どこからが本番で、どこで撮影が終わっているのか、まったくわからなかったようです。