159

Sunday, May 18

みすず書房の月刊誌『みすず』で連載されていた野口雅弘の「ボン便り」が5月号をもって最終回を迎えた。毎回楽しみにしていたその連載は、マックス・ウェーバーの研究を専門とする著者が、ドイツのボンにある高等研究所の研究員として赴任した先で思考したさまざまなトピックを、現代ドイツの政治思想の状況を絡めながら論じていた。最終回のタイトルは「rightsと権利のあいだ」。rightsにあたる言葉として日本語では「権利」が当て嵌められているが、ふたつの語彙は必ずしもイコールの意味を含んではいないという話が展開される。

連載では、翻訳の問題について論じたものとして柳父章『翻訳語成立事情』(岩波書店)を例として挙げているが、欧米語から日本語への翻訳によって生じた齟齬自体はよく知られている事実であろう。もともと日本にはない概念であるrightを西洋から輸入するにあたり割り当てた言葉が「権利」だった。しかし「権利」という翻訳では、rightという言葉に含まれている「正しさ」の意味合いが弱められてしまっている。「権利」というとどこか自己利益を主張する響きを帯びるのは、翻訳から生じたある種の誤解で、「権利には義務が伴う」というよく使われる言いまわしも、こうした齟齬から発展したものだろう。いまからもう十数年前の話になるが、柳父章の翻訳論は大学入試の現代文の問題で読み解いた記憶があるので、このての話は人口に膾炙したものかもしれない。

もっとも、こうした事実を知識として知っていることと、日本語で日々考えるにあたってどれほど慎重で意識的であるかは、別問題だろう。ついこのあいだ1989年に刊行された樋口陽一『自由と国家』(岩波書店)を再読して感じたのは、東アジア情勢をめぐる時局の変化はあるものの、憲法をめぐる論議自体にさほどおおきな変化は見受けられないということだった。保守派の政治家がしばしば、憲法には国民の権利ばかり書かれてあるが義務についてもふれなければならないと表明し、それに対して、憲法は国家権力を縛るものであって国民に義務を課すものではないとする立憲主義の原則から批判する光景は、これまで幾度もくりかえされてきたものである。立憲主義についての認識の温度差から生じるすれ違いは、いまにはじまった話ではない。

立憲主義について入門的な説明をしている『憲法とは何か』(岩波書店)のなかで長谷部恭男は、西洋とは異なる儒教倫理にもとづく東洋的な立憲主義の存在の有無について問われた際に、「特殊東洋的な立憲主義などというものは存在しない」と答えたと書いている。立憲主義は地域や文化のちがいによって差異がでてくるようなものではない。そうであるならば、rightsと権利のあいだにズレがあってはおかしい。とりわけ憲法問題を論じるような場合には。しかしながら、現実は、ズレている。野口雅弘の論考は、ゲオルグ・イェリネックの人権宣言の起源についての古典的な研究や、ウェーバーの権利論についてふれながら、この問題に対する考えるヒントが詰まっている。

近代西欧の歴史的な文脈を抜きにして語ることのできない立憲主義について述べた日本語の論文や書籍は多数存在する。日本語で立憲主義について平明に解説したものも、数多く存在する。日本語で立憲主義を理解する環境は立派に整っている。しかしながら、立憲主義の原則があまりに軽んじられているように見える現代日本の状況を前にすると、これまでどれほど立憲主義を日本語で組み立ててこれたのか? という疑問を拭うことができない。