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Monday, January 6

4sから5sに機種変更したiPhoneの使い心地はいまのところ問題なく、通信速度は向上し、テザリングできるのが嬉しい。ただ4sとは形状が結構ちがう。持ち慣れないあいだ、手に馴染むまで少し時間がかかりそう。ケースを付けずに持ち歩いているので、落下の悲劇に注意。iPhone、iPad mini、MacBook Airとアップル製品まみれで生きている。

夜、ベーコンとほうれん草と赤パプリカを、刻んだニンニクと一緒にオリーブオイルで炒め、酒蒸しした浅蜊にパスタを和える。アルコールは冷蔵庫で冷やしておいたシチリアの白ワイン。だらだらと白ワインを飲みながら青山のギャラリーときの忘れもので購入した『ジョナス・メカス ノート、対話、映画』(せりか書房)を読む。アルコールを吸収しながら本を読むのが果たして健全な読書であるのか不明だが、メカスの映画『スリープレス・ナイツ・ストーリーズ 眠れぬ夜の物語』(2011)で、ワイングラスで幾度も乾杯する飲んだくれたメカスの姿を見ている者としては、飲みながらメカスの本を読むのは健全な気がする。しかし酩酊が祟り、数ページ読んだところで眠気に負けた。

Tuesday, January 7

朝、七草粥。去年の寒くなった時期から急須を買い替えようと考えていたまま年があけてしまい、使える急須がいまだ家になくて、温かいお茶が飲めない。やむを得ずペリエを冷蔵庫から出す。七草とペリエ。邪道だ。日本におけるフランス革命を食卓で実現させる所存である。

『ジョナス・メカス ノート、対話、映画』で、1968年にニューヨークのコミュニティ・センターで行なわれたという『ウォールデン』(1969)をめぐる対話のなかで、質問者の一人が失礼すぎておもしろい。

・始まって20分は映画に引き込まれたのですが、その後も同じことがいつまでも続き、もうたくさんという気持ちになりました。20分で止めておけばよかったと思います。
・好きと言った人は2、3人しかいませんでしたよ。
・わたしはべつにいちゃもんをつけてるわけではありません。ほかの映画なら、90分だって喜んで見ますよ。でもこの映画はだめです。

なんだこいつは。

夜、中村屋のレトルトインドカレー(スパイシーチキン)、サラダ、ビール。iPad miniで『ARTnews』誌を読む。現代アートと粗大ゴミの区別がつかなくなる状況はよくあることだが、現代アートとお笑いの区別がつかなくなるときもある。たとえば去年出たらしいSylvain CoissardとAlexis Lemoineの『The (True!) History of Art』(Harry N. Abrams)という本。作品例はこちら。くだらなすぎておもしろい。

Wednesday, January 8

残業。夕ごはん、醤油ラーメン、ビール。

『ジョナス・メカス ノート、対話、映画』のつづき。1970年のマサチューセッツ工科大学でメカスは「誰がニューヨークで雪を見るでしょうか。ニューヨークには雪はない。しかし、わたしの故郷には雪がたんとあるんです」と発言していた。2014年のニューヨークは大雪で大変らしい。リトアニアも雪が舞っているだろうか。

Thursday, January 9

本日も残業。夕ごはん、白米、万能葱と豆腐の味噌汁、焼き魚(鰺)、冷奴、キムチ、ポテトサラダ、塩辛、ビール。

アンディ・ウォーホルの映画について、メカスはつぎのように語っている。2000年に行われたインタビューから。

ところが『スリープ』(1963)はそういう枠からはみ出しています。真価を見抜くには、冒険好きな心が必要なんでしょうね。今だって美術館にしろコレクターにしろ、アンディの絵を買いたがる人は大勢いますが、映画にはほとんど興味を示しません。アンディはじつにさまざまな映画を撮っているのに、たとえばファクトリーで撮った何百という人物のポートレートにしても、アンディの絵をもっている美術館でさえ見向きもしません。この作品は20世紀芸術のあらゆる分野を通じて、最も注目すべきポートレートの試みだとわたしは思います。それなのに、いったいいつになったら上映されるのでしょう。美術館はそっぽを向いたままです。それからもちろん、『チェルシー・ガールズ』(1966)があります。素晴らしい、記念碑的な作品です。でも、上映する人がいません。60年代から事態はたいして変わっていないんです。

という箇所を読んでいたところ、森美術館で開催される「アンディ・ウォーホル展:永遠の15分」の関連企画として、イメージフォーラムで「アンディ・ウォーホル映画回顧展2014」が始まることを知る。メカスが上で作品名を挙げずに言及しているのは『スクリーン・テスト』(1964-66)のことだと思うが、これはやらないみたい。上映リストを見ると『スリープ』はかかる。『チェルシー・ガールズ』もかかる。でも『チェルシー・ガールズ』って2面スクリーンで映写に3時間45分かかると知って、途端に気力が削がれる。

Friday, January 10

つくり置きの食材が尽きたので、きょうは弁当なし。昼休みはドトールで『The Economist』誌を読みながらカプチーノとミラノサンドA。少し残業。

資生堂から定期購読の『花椿』が届き、Amazonからジャック=アンリ・ラルティーグの写真集が届く。正月に東京都写真美術館のNADiffに積んであったのを立ち読みして、すぐさま欲しくなってしまった『Jacques Henri Lartigue: A Sporting Life』(Actes Sud)。しかし値段を見ると、福沢諭吉一枚と野口英世を数枚用意しなければならない。店を出てスマホでAmazonでの価格を確認したところ、福沢諭吉は必要ないことが判明。で、その場でAmazonで注文してしまうという、リアル書店つぶし。この話をこのあいだ会ったK氏にしたところ、そういうときはその場で確認しちゃいますよとのこと。わたしはいちおう店の外に出てAmazon検索したので、多少なりとも紳士的な態度だ。非道のなかにも礼儀あり。しかしリアル書店の洋書市場ははたしてAmazonと勝負する気があるのだろうか。

夜、トマトとモッツァレラチーズのパスタ、赤ワイン。ジョナス・メカスのDVDボックスから『リトアニアへの旅の追憶』を見る。見終える頃にはボルドーのワイン瓶を空にしてしまった。

Saturday, January 11

東西線で竹橋下車。東京国立近代美術館で「ジョセフ・クーデルカ展」を見る。クーデルカの卓抜な画面構成力が素晴らしい。といっても、アンリ・カルティエ=ブレッソンのような狂いのない精密時計のような写真とは異なり、クーデルカの写真はどこか熱を帯びた荒削りな雰囲気を残している。ところで、チェコスロバキアからイギリスに亡命したなんていう彼の年譜や、孤独感や悲壮感を感じさせるモノクロ写真を前にするとやや意外な感じがするが、写真家本人はものすごく饒舌で、会う人会う人にマシンガントークを炸裂するらしい。『装苑』1月号掲載の展覧会評に中村浩美がそう書いていて、展覧会に合わせて来日した際に森山大道と「対談」したらしいが、クーデルカが一方的に喋り倒したとのこと。写真から想像していた印象とだいぶちがうキャラ。

TSUTAYA返却のため渋谷へ。ついでにQFRONTのWIRED CAFEでクラムチャウダープレートとコーヒーの昼食。古書サンエーとFlying Booksに立ち寄る。

渋谷から恵比寿へ。NADiffに赴き、G/P galleryで「港千尋 ATLAS 01:equus rising 絵馬の起源」、MEMで「児玉靖枝展 深韻 水の系譜」。ガーデンプレイスに移動してスタバに向かったら満席だったので、エクセルシオールでひと休み。カプチーノとともに重田園江『社会契約論 ホッブズ、ヒューム、ルソー、ロールズ』(ちくま新書)を読んだ。社会契約論といえばホッブズ、ロック、ルソーの3人セットで教科書で習うもんだと記憶していたが、本書ではロックは登場せず、代わりにヒュームとロールズが論じられる。もっともこの本でのヒュームの扱いは、ホッブズからルソーそしてロールズに至る流れに対してのカウンターとして。ヒュームは社会契約論の批判論者として有名なのだから当然ではあるが。しかし著者の意図に反するかもしれないが、ホッブズ、ルソー、ロールズの名前がならび社会契約論の意義が説かれていくなかで、わたしがいちばん好感をもったのはヒュームの思想だった。懐疑論者だとか無神論者だとか言われるヒュームだが、変人ルソーに比べればぐっと紳士である。

彼(ヒューム)は原理的な説明の危うさを史実と経験によって埋める。他方で、経験に依拠するだけでは答えられない、秩序の正しさや存立根拠、服従の限界といった問いには、原理によって答えようとする。両者の往復をくり返すことで、ヒュームはいつの間にか、秩序の根拠とはじまりを問うことであらわになる根源的な不安定を消し去るのだ。
彼の目論見が成功しているかどうかは、私には判断できない。だが、革命や体制変革にリアリティがなくなり、むしろそうしたロマンティックな夢が簡単に悪夢に転化することを知った現在の世界で、ヒュームがよく読まれるのはこうした理由によるのではないか。ヒュームの政治社会論には、どこか現実主義と経験的な「常識」への訴え、あるいは「それ以上つきつめないこと」が混じっていて、それが人を安心させもするのだ。

はたしてヒュームがそんなにも読まれているのかは怪しく思うし、ヒュームの言説が安心を与えるのかどうかもよくわからないが、著者が納得しかねているヒュームのこうした姿勢を、わたしはまともなスタンスだと思っている。理論的な徹底がすぎてどうかしている思想よりずっといい。この態度にいらだつ気持ちもじゅうぶん理解しつつ、わたしはヒュームの側に立つ。もう少し若ければルソーの変人っぷりに魅力を感じたかもしれないが、ヒュームでいいです。大人ですから。ところで本書には、ルソーの思想を山手線と中央線で説明するというその必要性がまったくもって不明な比喩や、「人造人間」の文字がプリントされたTシャツを着た著者近影など、いろいろ突っ込みどころが用意されているけれど、ヒューム的な紳士さにもとづいてそれらをすべて無視することにしたい。

夜、Rue Favartで田舎風パテ、ニース風サラダ、鴨のコンフィ、ピクルス、赤ワイン、ギネスビール。

Sunday, January 12

特急りょうもうで群馬県の館林へ。駅からタクシーで数分、群馬県立館林美術館に到着する。ものすごく遠い場所かと想像していたが時間的には意外に近くて、天気もよい。来てよかった。目的は「山口晃展 画業ほぼ総覧 お絵描きから現在まで」の見物。ミヅマアートギャラリーでの個展を除くと、山口晃の作品をまとまったかたちで見るのは2007年の会田誠との2人展「アートで候」以来なのだが、そんな感じがしないのは『UP』で「すゞしろ日記」を毎月読んでいる影響か。おなじみの山口晃の周密に描き込まれた絵画がならぶなかで、個人的にいちばん心躍ったのは「リヒターシステム」と「ヤマグチシステム」。「リヒターシステム」は絵画の手前にポタンがあって、観客がそのボタンを押すと絵がぶるぶると振動するというもの。振動して絵画がゲルハルト・リヒターっぽくなるという救いようのないくだらなさで大変感銘をうける。それほど熱心な美術ファンではないと思われる人たちがボタンを押して、ぽかんとしている。というか、三連休の中日で「観光」として来館しているような家族連れがたくさんいて、ほとんどの人たちがぽかんとしている。何の説明もなく、あれだけで「リヒターシステム」って言い張る不親切なところもよい。「ヤマグチシステム」は山口晃がよく描く大和絵の雲だけをアクリル板に抽出したもので、どんなものにもこの雲を上から被せれば山口晃っぽくなるというので「ヤマグチシステム」。鹿島茂のコレクション展「バルビエ×ラブルール」のフライヤーに大和絵の雲が重ねられていた。ポピュラリティを獲得した緻密な大和絵風の絵より、山愚痴屋流の現代美術膝カックンに惹かれるのは画家にとって本望ではないかもしれないけど。

帰りは行きと逆の道順。珍しく西日暮里に来たので途中下車して古書ほうろうに立ち寄る。夜、近所のラーメン店でネギチャーシュー麺。