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Monday, July 29

『「昭和」を送る』(中井久夫/著、みすず書房)を読む。

Tuesday, July 30

年に一度の会社の健康診断で、事前に問診票を記入しなければならないのだが、最近は正直に体調の芳しくなさを伝えるようにしている。しかしながら問題なのは、こちらのその意志を診察する医者がまるで汲み取る気配のないことで、去年などは気になることはありますか? との項目に「疲れやすい」とはっきり書いたにもかかわらず、担当の女医は完全に無視した。問診票はトラップか。

今年は中年男性の医者が診察にあたっており、こんどは面と向かって直接何か気になることはあるか? と訊いてきたので、お、今度こそは、と思って、「風邪をひきやすい」と回答する。すると、医者は、あのね、これは僕が大学生のころに得た知識なんだけどね、椎茸あるでしょ、あれがいいんですよ。椎茸。ちょっと表面を焼いた椎茸がいい。こんがりと焼いて。焼きすぎちゃだめ。真っ黒にしちゃだめ。いい具居合いに焼いた椎茸がいいんだ。椎茸を食べる、これで大丈夫、もう絶対に風邪ひかない。

私はそんな与太話を聞きたいのではない。

Wednesday, July 31

有給休暇を取得し、夕方まで読書。

科学者と科学哲学者による応酬の模様を対談形式に仕立てた、『科学を語るとはどういうことか 科学者、哲学者にモノ申す』(須藤靖、伊勢田哲治/著、河出書房新社)を読む。科学者(須藤靖)にとっては低レベルでくだらなく意味がないとしか思えない科学哲学の議論について、科学哲学側(伊勢田哲治)がそのての議論の論拠や妥当性を懇切丁寧に説明していくという流れですすむ。もっとも、最終的に議論の対立が沈静化してめでたしめでたしで着地、なんてことはなく、物別れに終わるトピックもいくつもある(伊勢田哲治が書くように、科学哲学をめぐって科学者と議論が対立しそうな話題を選んでいるというのもあるが)。哲学の議論の仕方に多少のなじみがあると、伊勢田哲治の言わんとすることが多少の「情」も交じりつつ「わかる」のだが、須藤靖が徹底して納得しないところが本書のポイントかもしれない。立場を先鋭化するために意図的に納得しない態度を貫いているんじゃないかと思うほど、哲学の議論に納得しないところが読みどころか。

ところで、伊勢田哲治は著書『疑似科学と科学の哲学』(名古屋大学出版会)の冒頭に哲学者の性分として、

哲学者というのは、哲学という領域の一番基本的な性格についてすらおよそ一致するということを知らない人種である。それは、あらゆることをとりあえず疑ってみる(場合によっては「あらゆることをとりあえず疑った方がよいかどうか」ということすら疑ってみる)という哲学者の習性

と書いているのだが、今回の本のあとがきで、

実際の対談では、私が説明しようと思っていた内容に入る前の前置きに須藤さんがひっかかり、前置きの部分についての説明をさらにさかのぼって行っているうちに時間切れ、ということがしばしばだった。そのため実際の対談のときに話せなかった「本題」の部分は、最終稿を作る過程でかなり書き足すことになってしまった。しかし、そのおかげで、逆に、普通に科学哲学について解説する際にはまず話題にのぼらないような前提の部分について話を深めることができたように思う。普通は相手の分野の前提にこだわって話が進まないといえば哲学者が他の分野の方に対してやって嫌がられるところであるが、ここではその逆が起きているわけである。その意味で、須藤さんのこの本での役回りは「メタ哲学者」とでもいうべきものになっているかもしれない。

これは読みながらおなじことを思っていて、須藤靖が哲学の領域では自明とされているような段階においていろいろ突っ込んでくるので、須藤靖の異議申し立てが(本人は不服かもしれないけど)ある種「哲学的な」様相を呈してくるのである。たとえばヒュームの議論を紹介するところで、なんでヒュームなんていう大昔の人間の議論を持ち出す必要があるのか、としつこく噛みついていて、そもそもヒュームの議論をもちだすこと自体に疑問を投げかけるっていうのは哲学屋からはあまり出てこなそうな視点で新鮮に感じられる。

夜は東京国際フォーラムでクインシー・ジョーンズのライブ。不思議なライブだった。前半は日本の音楽家たちによるトリビュートの演奏がつづき、後半はクインシーが気に入っているミュージシャンがつぎつぎと登場する。日本側の演奏は亀田誠治がプロデューサーとして束ねていて、クインシーへのトリビュートという意味合いでは緩やかにまとまった感じだったのだが、後半のクインシーがすごい。選曲の「流れ」なんてものを一切無視したかのような「今お気に入りミュージシャンを一挙放出」感あふれるラインナップ。途中、サプライズのゲストとして松田聖子が登場。クインシーのライブに行って松田聖子を見ることになるとは思わなかった。

Saturday, August 3

午前中、恵比寿。東京都写真美術館で「米田知子 暗なきところで逢えれば」展、昼食はRue Favart、ナディッフへ向かい「森山大道 記録23号/パリ+」と「細倉真弓 Floaters」、新しくできたというAmerica-Bashi Galleryで本城直季の新作展。夕方6時に待ち合わせをした人とともに、夜おそくまで酒の席。浅田彰のもっているあのダサいトートバッグは何なのだろうか、などについて話す。

Sunday, August 4

自宅から最寄り駅までの道に貸店舗の物件があって、いまカフェをつくっている。入口の窓に貼り紙があり、内装の工事もぜんぶじぶんたちでやっていて、9月にはオープンする予定だという。がんばって欲しいと思う。ここでいま出現したがんばって欲しいという感情はわりと素直なもので、冷静に考えてみれば、赤の他人がカフェをつくっている状況に対して感情を込める必要はないとも思うのだが、がんばって欲しいというのはごく自然とわきあがったものである。一方、いま私はホームページをWordPressに移行しようとして、PHPやCSSをがちゃがちゃといじり、うまくいったりいかなかったりして悶々とし、過去のコンテンツのコピーに疲れ果て辟易しながら四苦八苦してきたのだが、ほかの誰かがこの状況を見てがんばって欲しいとは思わない気がする。ウェブサイト(個人であれ企業であれ)がリニューアル作業をしている状況を見て、私もがんばって欲しいなんて思わない。この途中経過が報われない感じはなんだろうか。そもそも比較するのが間違っているのか。サイトのリニューアルだって結構たいへんなはずなのだが、たとえば雑誌『KINFOLK』のサイト [1]がリニューアルしての私の感想は、遅いな、である。報われない。

  1. KINFOLK []