100

Monday, April 22

きのうは雨に打たれうつむきかげんだったモッコウバラたちがきょうは上を向いて咲いていた。夕食はたらこと小ねぎのパスタ、ビール。

Tuesday, April 23

国立天文台天文情報センターによれば、きょうから東京の日の出時刻が午前4時台に突入。ということで本日より我が家ではサマータイム制を導入。我が家のサマータイム制とは毎朝5時起床を厳守、というもの。そんなきょうの夕飯は、ごはん、油揚げとわかめと玉ねぎの味噌汁、鰺の干物、もやしと長ねぎの炒め物、冷奴、烏賊の塩辛、ビール。

Wednesday, April 24

日本の菫は眠っている感じである。(『草枕』夏目漱石/著、新潮文庫、p.118)

向う岸の暗い所に椿が咲いている。椿の葉は緑が深すぎて、昼見ても、日向で見ても、軽快な感じはない。ことにこの椿は岩角を、奥へ二三間遠退いて、花がなければ、何があるか気のつかない所に森閑として、かたまっている。その花が! 一日勘定しても無論勘定し切れぬ程多い。然し眼が付けば是非勘定したくなる程鮮やかである。唯鮮やかと云うばかりで、一向陽気な感じがない。ぱっと燃え立つ様で、思わず、気を奪られた、後は何だか凄くなる。あれ程人を欺す花はない。(同、pp.120-121)

木瓜は面白い花である。枝は頑固で、かつて曲った事がない。そんなら真直かと云うと、決して真直でもない。只真直な短かい枝に、真直な短かい枝が、ある角度で衝突して、斜に構えつつ全体が出来上っている。そこへ、紅だか白だか要領を得ぬ花が安閑と咲く。柔かい葉さえちらちら着ける。評して見ると木瓜は花のうちで、愚かにして悟ったものであろう。世間には拙を守るという人がある。この人が来世に生れ変ると屹度木瓜になる。余も木瓜になりたい。(同、p.150)

『草枕』を読み直している。

Friday, April 26

夜、イメージフォーラム(3階)で『カメラを持った男』(ジガ・ヴェルトフ監督、1929年、ソ連)を鑑賞。映画はカメラの上に三脚を立ててカメラを構える小さな小さな男の特撮映像から始まる。そしてその“カメラを持った男”が撮影した映像が編集されて劇場で上映されるというシーンまでも描かれるため、入れ子構造というかメタ構造というか、かなり凝ったつくりになっている。20世紀になって間もない頃にこうした趣向を凝らした作品がつくられたということにあらためて感心するが、まあ、映画の創世記からそうした映像はわりと存在したわけで、それよりやはりこの映画を観て興奮し歓喜の声をあげるのはまさしく“映画の眼”と呼ぶべきカメラの動き、それによって映し出されるものすべてがあまりに豊穣であるという一点に尽きる。

映画眼は、時間のなか空間のなかを生きて動きまわり、知覚し、人間の眼でみたのではないような、全く別の印象を定着する。

とジガ・ヴェルトフは語っている(イメフォ映画祭のチラシより)。カメラはモスクワ、キエフ、オデッサのソビエト市民の一日の様子をつぶさにとらえる。人々が往き交う大通り、一心不乱に掃除をする人、電話交換主として働く女性たちの顔や手、浜辺で準備体操をする群衆、海に飛び込む男たち、馬車に揺られる家族、そして走る、馬、馬、馬! “カメラを持った男”はカメラを携えたまま車の荷台に乗ったり鉄塔を駆け上ったり濁流の上を綱渡りのように渡ったりする。まさに「無限の映画眼」だ。とにかく観ているあいだずっと喝采し続けたくなるくらい面白くてたまらなかった。映画的とはどういうことなのか、少し見えたかもしれない。
終演後、焼鳥とビール。

Saturday, April 27

損保ジャパン東郷青児美術館で「オディロン・ルドン ―夢の起源―」を鑑賞。お昼に叙々苑で石焼ビビンバを食した後、新宿ニコンサロンで「吉原かおり写真展 サヨナラと香辛料」、「和田悟志写真展 すべてそこにある」を観て、両作家のトークショーを拝聴する。和田悟志さんの作品は前にブックで観たことがあってとても良くて、今回の展示もとてもとても良かった。和田さんの故郷は東日本大震災で被災し、周辺にはホットスポットも数多く存在するという。「すべてそこにある」は、そうした故郷の風景を撮ったものだが、何も言われなければ、原発からそう遠くない地域だということなんかわからない。和田さんも、ことさらそれを強調したりはしない。「じぶんの故郷がなくなってしまうかもしれないという、これまで考えてもみなかったことを思ってみても、それは自らの作品制作のひとつのきっかけ、意識の変化に過ぎない。それを作品にしたいわけではない」、とトークショーで語るご本人の姿は、言いたいことが限りなく正確に伝わっているだろうかと、反芻に反芻を重ねて言葉を紡いでいたように見えたけれど、伝えたいことは限りなく正確に伝わった、とわたしは思う。その後、道に迷いながらもたどり着いたKULA PHOTO GALLERYで「北島敬三 USSR 1991 / A.D. 1991」。充実の新宿アート回遊であった。

帰宅して、夜は、ごはん、わかめの味噌汁、ホッケ、かぼちゃの煮物、烏賊の塩辛、ビール。

食後に、相米慎二監督の『雪の断章 —情熱— メイキング』(本編なし)を観る。『雪の断章』メイキングっつったら斉藤由貴のプロモーションビデオになるか相米監督が役者にこんこんとダメだしをし続けてきょうもカメラまわらないよーみたいな映像になるかのどっちかだろなー、と思って観たら当然前者だった。でもまあ、いろいろと面白かった。若き日の榎戸Pの御姿も拝める。しかし十代の斉藤由貴、超可愛いな!

Sunday, April 28

窓から見えるハナミズキの花が終わりを迎えようとしている。モッコウバラはまだまだ元気。

先月に引き続き上野公園に足を運ぶ。旧東京音楽学校奏楽堂の前を通った。この建造物は国の重要文化財にも指定されている、日本最古の木造の洋式音楽ホール。一度だけ中を見学したことがあって、いつかここで必ず音楽が奏でられるのを聴くんだ、と楽しみにしていたけれど、ちょうど今月から老朽化のため休館となってしまった。なんとか何らかのかたちで復活してほしいものだ。

東京藝術大学大学美術館で「FENDI UN ART AUTRE -もうひとつのアート、クリエイションとイノベーションの軌跡-」展。フェンディのファーに特化した展覧会。フェンディのクリエイションも素晴らしいのだけれど、今回は何より展示方法が素晴らしかった。まず入口にファーののれん(というといまいち感じが出ないが…)、というか緞帳というか垂れ幕がかかっているのでそれをくぐって入る。最初の部屋では、歴代のファーをあしらった、あるいは丸ごとファーでできた洋服をマネキンが身に纏い、一体ずつショーケースに収められてずらりと並んでいる。壁面にはファーの実物やタッチ可能なディスプレイが設けられて創作過程や細部を見ることができる。天井から吊るされたランウェイ映像が映し出される液晶パネルを眺めつつ次の部屋に入ると、なんとファー職人さん本人がいて、たくさんの毛皮を前に、観客に作業の説明をしながらトンカチやピンをつかって毛皮を鞣している。つまり公開工房だ。生の迫力があって、これには感激してしまった。職人さんはイタリアの方なのだろうか、わからないけれど、訪れる人々に流暢な日本語で、親しみ深く丁寧に解説をしてくれていた。さらっと観るはずが予想外に長居をしてしまった。大満足。

ランチは上野公園のpark side cafeで野菜たっぷりミートドリア、赤ワイン。きょうは風が強いためテラス席を選んだら若干寒さを感じたけれど、やはり爽やかで気持ち良い。一年でいちばん過ごしやすい季節がはじまる。

新宿に移動して、コニカミノルタプラザで「木村伊兵衛写真賞受賞作品展 百々新/菊地智子」を観てから新宿パークタワーでジョナス・メカス『ウォールデン』(1969年、アメリカ)。「今つかみ撮らなければ、何もないのだ」。メカスの言葉(パンフレットに記載)。つかみ取る=つかみ撮る。

映画の後、三国一でカツオのたたき、だし巻卵、肉うどん、ビール。あー美味しい。