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Tuesday, December 20

『昭和の読書』(荒川洋治、幻戯書房)読了。著者は

現在、文学はどのようになっているのか。それをクリアなことばで表現できる批評家はとても少ない。

とし、

文学全体の流れを感じとることと、危機意識をもつことはイコールである気がする。もちろん文学の流れや動きに意識をもつことだけがすべてではないが、文学に向き合う根本の感覚が平坦になり、麻痺していることはたしかである。あなたはどんな作品を書いているのですか、ではなく、どんな流れのなかにいるのですか、あなたは自分の作品を書くだけで、何もしていないのですね、という冷厳な問いがすべての作家に向けて放たれる必要がある。

と書いたうえで、

とはいえ文学史は、一面退屈なものだ。不確かなものだ。そこに◇◇という作品が登場したとあっても、前とのつながりがわからない(深沢七郎「楢山節考」のようになんの前触れもなく突然現れるものもある)。仮につながりが書かれていても、どうもそれだけではないような気持ちになる。いつもみたされないままに、作品名と人名の行列に向き合い、それを見送るしかないのだ。文学史を読み通して明らかな感動が得られるものではない。だが、その「みたされない」ことは読者の心性であると同時に、文学史の真実でもあるのだと思う。「みたされないなあ」という感じ。いまはわからないが、いつか少しわかるだろうかという、読み終えたあとに残る、漠とした期待と希望。それは文学だけのことではない。歴史そのものが、いつもどこでもかかえているものだ。いまは読者も個々の好みの作品を読むだけに終わり、全体の流れを思い描く楽しさを忘れかけている。

と述べる。そして

文学史の本はいま、ほとんど刊行されなくなった。ポータブルなもの、手におさまるものは特にない。「文学史のない時代」。このあとの文学史に、そのように記されるのかもしれない。

と、名言をたたき出すのだった。

夜、『直島 瀬戸内アートの楽園(とんぼの本)』(秋元雄史・安藤忠雄ほか、新潮社)を捲る。

Wednesday, December 21

『読むとだれかに語りたくなる わたしの乱読手帖』(大竹昭子、中央公論新社)を読む。

あの本にこのような文章があったと滔々と引用する人に出会うと恐れをなして縮こまってしまう。本が好き、などと言っていいのかしらとひどく不安になる。筋を忘れてしまったり、ほかの話とごっちゃになったりすることがはなはだしく多いのだ。

読んでいる最中はたしかにいろいろな考えが沸き、蠢いている。それが思いがけない方向に延びて、以前考えていたことと結びついて興奮したり、熱くなったりする。だが、ページを閉じて本を置いたとたんに、ディテールが消えて漠然とした印象だけになってしまう。なんというザル頭だろう。

雑誌や新聞の書評を引き受けるようになってから、書けば少しはそのザルの目が詰まってこぼれなくなるのがわからった。逃げていく考えのしっぽをつかまえて書き留める。評するというより、読みながら浮かんだ自問自答をだれかに語りかけるような気持ちで書く。「読む、考える、書く」の三点セットになると、読んだことがより深く身に定着するようになった。

というくだりに共感する。

池袋のジュンク堂でZINEフェアの棚ができていたのでそこで買った『ぽかん』01号(編集・発行/真治彩)を読む。楽しい。

Thursday, December 22

わたしの二大憧れの女性といえばもう昔からずぅっとシャルロット・ゲンズブールと東野翠れんなのだけれど、その東野翠れんが著した『イスラエルに揺れる』(リトルモア)を読んだ。地に足のついた知性と広がりのある感性が素晴らしい。決してお涙頂戴な内容というわけではないのに、本を閉じたときにふっと涙が零れそうになった。

ソーニャのお墓は、大きな石のまわりに花が植えられ、日々人々が手入れしているのだと分かります。皆は石を添えていきます。茂みから花を抜いて、添えられた石の輪のなかに置きました。近くで墓を見ているうちにふと、ここに向かって生きているのだと、これまでにない程強く感じました。知っていた筈のことは、知っているつもりになっていただけで、知っていると言い切れる体験をしていないのだよ、と高原の天使に囁かれているようでした。

なんていう文章は、書けるようでなかなか書けない。

イスラエルと日本を行ったり来たりしているようで、このふたつの国はわたしのなかでは透けて重なり合っていたということに、今になって気がつきます。また、むこう岸で揺れている花なんてないということ、いつもこの胸のなかで花は揺れているということ、じっとし続けるものはないということを、心のなかのイスラエルは囁いていたようにも感じます。

という著者の出自に依るところだけでは決してないだろう(著者は日本人の父とイスラエル人の母をもつ)。

移動中、『きれいな心となんでもできる手ーガールスカウトになったなら』(ガールスカウト日本連盟監修、PHP研究所)を読む。

夜、『リュヴェルスの少女時代』(ボリース・パステルナーク、工藤正廣訳、未知谷)。表参道の青山ブックセンターでカバーが外された表紙のぱっきりした鮮やかさにひとめぼれした一冊。数日前に読んだ荒川洋治の『昭和の読書』にはこの本の書評がおさめられていて、

このあとこのような作品を書いた人はいないという点で、際立つ。興味をかきたてる」という讃辞を送っている。いくつかのセンテンスをひきながら、「(こうした文章は)書いているうちに道に迷うのではとも思われるが、そこで何が起きたかではないのだ。人間の知覚がきわまるとき、どのような表現が生まれるのかを、文章そのものが、ときには未来をのみこみながら刻々とあらわしていく。景色はふくらみ、作品は「全体」で美しいもの、力強いものになる。

こうした小説をもっともっと読みたいものだ。でも「このあとこのような作品を書いた人はいない」のだっけ。

Saturday, December 24

お昼すぎ、バッハ・コレギウム・ジャパンによるヘンデルの「メサイア」を聴きにサントリーホールへ。指揮は鈴木雅明。中学生の頃、音楽の授業で「ハレルヤ」を合唱したことを思い出す。たいして思い出したくもない中学生時代だけれど、クラシックの名曲を歌いやすい旋律と歌詞にアレンジし、学年全員で行なった合唱はとても楽しかった。わたしのパートは常にソプラノだった。

サントリーホール前の噴水と木々のイルミネーションを楽しみ、東京ミッドタウンまで歩いて人ごみ、人だかり、行列、人、人、人、の耐えがたきを耐え、「スターライトガーデン」で大掛かりなイルミネーションを鑑賞。

クリスマスソングは子どもの頃、家でよくレコードがかかっていたこともあって、じぶんにひどく馴染んだ音楽であるけれど、でも、ほかにもジャズやらクラシックやらディスコサウンドやらR&Bやらいろいろかかっていたのだから、やっぱりじぶんにとってクリスマスソングは特別なものなのだろう。なぜ特別なのか、その理由は何年経ってもわからない。普段はじぶんのなかにひっそりと沈み込んでいるのに、街角やラジオでクリスマスソングが流れてくるのを呼び水に深いところから浮揚してきて、たっぷりとわたしを満たし、無条件にわくわくした気分と幾許かの切なさを与えてくれるのだった。 逆にイルミネーションは昔は好きではなかった。家で飾る、子どもの胸くらいの高さのクリスマスツリーに巻かれた安っぽい電球の灯りはとても好きだったけれども、街中のイルミネーションなんてけばけばしいだけだと思っていた。それが変わったのは偶然丸の内を通りがかったときに、東京ミレナリオが準備されている光景を目にしたときだった。ニュース映像で見る華やかな電飾のアーチは灯りが点いていなければまったく無味乾燥なものだと感じられた。灯りをともされるのをよりかかって大人しく待っているような、そのさまがなんだか愛おしかった。

それからは意識的にイルミネーションを見て、楽しむようになった。今年のミッドタウンのイルミネーションは、昨年たまたま通りがかって見たから、なんなら今年も、という軽いノリで。

夜はローストチキンにケーキにワインという鉄板聖夜夕餉也。

Sunday, December 25

何度も言うようだけれどきょうが終わるとまた来年までクリスマスソングが街角やラジオから流れてくることはないのかと思うと寂しい。(←テンプレ)

東京オペラシティアートギャラリーにて、「感じる服 考える服:東京ファッションの現在形」「寺田コレクションの若手作家たち」「Project N 47 上西エリカ」を観る。失念していたけれど寺田コレクションといえば小西真奈がいるわけで、昨年、今年、と図らずも二年つづけてクリスマスに小西真奈の絵を観たのだった。昨年は神奈川県立近代美術館葉山で。「感じる服 考える服:東京ファッションの現在形」は、以前に日誌でも書いたけれど、writtenafterwardsの山縣良和の世界観はわたしにとっては圧巻なのだった。

夜、クリスマスソングを聴きおさめながら、今年出会えてよかった写真集のおさらい。『森をさがす』(林田摂子、ROCKET BOOKS)、『RFK』(Paul Fusco、Aperture)、『Natural Stories』(畠山直哉、産経新聞社)を噛みしめるように捲る。それにしてもPaul Fuscoと林田摂子はほんとにいい、身悶えするほどいい。