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Monday, December 12

昼間の勤労に疲弊した週明け月曜日、午後十時過ぎ、雑用を終え『甦る相米慎二』(木村建哉・藤井仁子・中村秀之編/著、 インスクリプト)を読み始める。約450ページのこの一冊を本日中に読み終えられるわけもないのだけれど、読み終えられるかのような心持ちになるほど心待ちにしていた。にもかかわらず猛烈な眠気が邪魔をする。読み、のめり込み、意識が遠ざかり、こうしちゃいられないとガバリと起き上がり、読み、のめり込み、意識が……をくり返し、1/3ほど読了して力尽き就寝。

*今日の一枚  SONGBOOK -COVER SIDE-/キリンジ

Tuesday, December 13

こういう時に限って昼間の勤労がいつにも増して集中力を要するものだったりする。くたくたで帰宅し、食事、身のまわりのことを済ませ、深夜まで『甦る相米慎二』を読み進める。二日で読了はならず。

*今日の一枚  J022.Art/Art Farmer

Wednesday, December 14

疲労した肉体に不安を覚え、本日は読書せず就寝。クリスマスソングを集めたコンピレーションアルバムがほしい。スタンダードな名曲がレコード録音されたものを聴きたい。

Thursday, December 15

夜更け、『甦る相米慎二』読了。映画研究家や映画制作者による論考も、プロデューサー、撮影監督、照明技師、録音技師による撮影現場や制作過程での迫力ある証言も、いずれも非常に面白いもので、わたしにとっては冒頭の濱口竜介、大澤浄によるテキストはこのうえなく知的好奇心を満たされるものとなり、そのすべてを引用したいほどだった。で、わたしは先ほどからどうにかしてこの本(の内容)がいかに刺激的で興奮に値するものかということを書いたり消したり書いたり消したり相当長いことやっているのにいっこうに目的を果たせず、自らの無能っぷりにげんなりしてしまったため、「「映画の暗闇」をとり戻すために——跋に代えて」というタイトルの中村秀之の言葉を引用するだけにしておく。

本書の執筆者の一人で自身が優れた映画監督である濱口竜介が明言しているとおり、「語ることなど、できはしない」フィルムについてそれでも書くのは、それらが語られるべきものだからではなく、むしろ見られるべき映画だからなのだ。本書を構成する多様な言葉はすべて、相米映画が見られることに対して奉仕したいとひたすら切望しているのである。

巻末ちかく、相米監督自身が講演会で語った言葉が再録されている。ここでの発言も明晰きわまりなく、かつ思慮深くリリカルさも当然ながら漂い、胸に刺さる。

映画が常にお客さんに新しい時代とともに観てもらうための努力をするのは、本来撮影所と、あるいは撮影所だけでなくて、撮影所をとりまく環境の中でしかなされない。若い時代に学問あるいは技術を学ぶこととして、映画の学校があるとして、多分その時代、現実の中で遊んだり、学んだりする事が本来映画についての一番のこやしになるんじゃないか、という風に本当は思っているんです。だから、映画が多分一番不良のものだという風に僕は思ってますから、映画という暗闇の中で、その暗さと映画というものが同時に学ばれなければ、映画は多分映っている現象の上面しか観れないんだろうという風に思います。

だから、自分の映画を語る前にこんなことをグダグダ言っているというのは、人の話や映画批評とかで学ぶことではなく、現実の自分の生きている時間とそこで得たことが最も、映画に相対する時に役に立つからなのです。もしそうじゃないとするならば、映画は映画だけを観ることで、そこに描かれた現実を受け入れる自分の空白の時間というか、空白の感覚を持てば、もう一個別の楽しみ方ができるとおもうんです。

映画が人の周りから遠くなった理由を世の中の人は色々語ります。テレビがあり、あるいは娯楽の多様性とかもう様々な分野から、映画の客が減少していったことを語ることはできるはずですけれども、作り手としての、僕達がお客さんを映画から最も離した要素の一番大きいものは、それは多分キャメラだという風に僕は思ったんです。それはテレビというメディアで育った世代が、一つには映画を観る努力——映画を観るには多分テレビを観るような安直さでは多分映画を観ることは出来ないということに、ある一本でも二本でも映画を観た人なら気付く筈なんです。その映画を本当に面白く観るためには、ある映画の本数と、映画が持っているリズムと、映画が発散する空気をつかむ方法を自分がつかまなければ、映画というものはただ流れてゆくだけのもので、本当につまらないものだと思うんです。

この講演会から年月が過ぎ、わたしは詳しいことはよくわからないけれども、と小賢しく逃げてしまうけれど、ここで言われていること——映画を知るにはまず現実世界を知ること、テレビを観る行為と映画を観る行為の差異——はきっといくつかの場所で提示されていることだろうが、その思考から言葉に落とし込むまでの道のりがこの監督の撮る作品の魅力と通じているように思えて、ただ、作品のほうがもっともっと唯一無二で独創的であるのは自明である。

Saturday, December 17

蒸したにんじん、かぼちゃの煮物、ひじきと切り干し大根とにんじんと大豆の煮物をつくって来週に備える。この三品を幾度つくっただろうか。これがひとつの基本形でもある。

とても寒い。いつの間にか冬本番がきている。人々はみな当然のように今年という年をふりかえりはじめている。五年くらい経ったら立ち止まって、ふりかえって。すぐにわかることなど何もないのだ。

Sunday, December 18

陽射しあたたかく、晴れた日。この空の色を何と呼ぶのか。濃い青を薄めた色。水色とはちがう。夕方になるとひどく寒くなり、首を90度動かして雲がかかりはじめた空を見上げた。彼処と此処をつなぐものは何か。境界線を見つけたかったら境界線に身をおけばよいが、そうすると境界線は溶けてなくなるのだった。

一年前のきょうも、陽射しあたたかく、晴れた日だった。乗り慣れないバスの後部座席に座るわたしはやわらかな光線に染められていて、わたしは守られている、と感じていた。長いビロードのリボンの先が、短いリボンに一瞬触れて、絡まった。その結び目をこれからもずっと信じることができる。mulţumesc.