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Monday, November 28

『コロンブスの犬』(管啓次郎、河出文庫)読了。

一五九二年、イギリス人モリノーの作製した天球儀が、はじめて南十字星をえがいた。ヨーロッパからはもちろん見えやしない。この星もまた、大航海時代が知識の圏域にひきこんだものだ、というわけだ。星の名を通貨の名として採用した国なんて、ふたつはない。クルゼイロ。ブラジルでは一杯のカフェは、二百五十の南十字星によって買われる。クルゼイロ・ド・スル、南の十字架。星々の中にさえ祈りの対象を見いだすキリスト教徒の航海者たち。いまではそれは、ブラジル国内便専門の航空会社の名前にもなっている。

夜、ミヒャエル・ハネケ『コード・アンノウン』(2000年、フランス/ドイツ/ルーマニア)。

*今日の一枚  SONGBOOK -COVER SIDE-/キリンジ

Tuesday, November 29

夜、USTREAMで久しぶりに動いている小沢健二の姿を拝む。彼は相変わらずな感じでよかった。いまこのときにモノクロ映像を差し出すアビリティも流石だった。彼はまさにたくらみのひとだ。ゼーバルトどころじゃないよ。いやそんなことない。お互いいい勝負だと思う。

『彫刻家・舟越桂の創作メモ 個人はみな絶滅危惧種という存在』(舟越桂、集英社 )読了。

イヴ・クラインのブルー。/あの色は理論的にできたのではないだろう。/理論的に出させたのは「鮮やかなブルー」とかいった言葉でしかないと思う。/その言葉だけなら、他の人に選ばせたら、/違った色を選んだかもしれない。/あのブルーを最後に引き上げたのはクラインの眼、クラインの感覚。」「タイトルを決めるときの事。/「言葉と森の間に立って」というタイトルをつけた。/鹿を想い起こさせるような森の精のような顔、/あるいはもの想いにふける知性のような表情。/そんな事が作った私をよそに作品に現れて来て、私をとらえて離さない。」「誰のものでもない自分の人生を生きるように、/明解に鮮明に自分だけの世界を造り上げること。/私を生きたのは私ひとりなのだから。

作品が生まれ出る過程で放出された、詩のようなメモの数々。舟越桂といえばその独特の感性と理念でつけられた作品タイトルに惹き付けられる。タイトルの付け方が魅力的な人はこの舟越桂と、あと中平卓馬、吉増剛造、アドリアナ・ヴァレジョンがわたしにとってトップ4か。

*今日の一枚  chronicle./安藤裕子

Wednesday, November 30

夜更かしして『ボブ・ディラン・グレーテスト・ヒット・第三集』(宮沢章夫、新潮社)読了。宮沢章夫といえばあれは2004年、わたしは彼のブログ(当時は「不在日記」だった)を毎日狂ったように貪り読み、その頃わたしはじぶんを映画の人だと思っていたから(2011年のわたしはじぶんが何の人でもなかったということを知っている)宮沢さんの舞台は観ていなかったけど宮沢さんが撮った映画(『be found dead』)は観てみたい、ということで水戸短編映像祭2004での上映および松尾スズキとのトークショーを聴きにわざわざ水戸まで赴いたのだった。その付近の「不在日記」で宮沢さんは舞台をやっているとリハーサル中に「照明待ち」やら「衣装替え待ち」があるけれどこのたびの舞台ではコンピュータから映像を流す演出をしたため映像をレンダリングする時間が必要でその間待たされる体験「レンダリング待ち」をしてそれが面白かった、と書いていて前年の2003年はわたしもMacでFinalCutを用いて映像の編集をし、「レンダリングされるのを待つ」時間をそれなりに送っていたものだから、じぶんに引き寄せて非常に印象に残ったということがあらためて思い出される。

誰もが知るようにこの日誌と呼ばれる文章は日記というよりはわたしの極私的回想録なのであり、ということはつまり、とくだをまき続けてもよいけれど今日はもう遅いので眠る。

*今日の一枚  LE ROI SOLEIL/カヒミ・カリィ

Thursday, December 1

とつとつ読んでいた『白と黒の造形』 (駒井哲郎、講談社文芸文庫)読了。昨年12月に銀座の資生堂ギャラリーで作品のごく一部を初めて目にした駒井哲郎の展覧会「駒井哲郎 1920-1976 展」が今年春、町田市立国際版画美術館で開かれていたという情報をスルーしてしまい、しかしその展覧会が来年4月から世田谷美術館に巡回すると知ってその予習として読んだのだけど、駒井哲郎はルドンに関する著述が非常に多く、同書でも多数収められているため、来年1月から三菱一号館美術館で開かれる「ルドンとその周辺―夢見る世紀末」の予習にもなる。

ルドンの作品のなかで何故木炭画が重要かと云うと、彼が真に自己の芸術を発見したのがこの素材によってだったと思うからだ。「……やがて気化する粉末、木炭があのころの私のすべてであった。この方法がはっきりと自分のものになったのは一八七五年頃のことだ。それは私にとって、自分の表現に最も適した材料だったから。それ自身では、とくに美しくないのに、特徴あるマチエールは、明暗や、そして見えないものに対する私の探究を容易にしてくれた。木炭画は楽しんでいることを許さない。峻厳である」とルドンは云っている。

ルドンはパステルと云う材料を見出したことによって、もっと自由に、純粋に、かれの色彩に対する繊細な感受性を発揮したのである。版画や素描の黒白の世界から、妖しい蝶や蛾の鱗粉のようなパステルの純色によって、独自の明るい色の世界に到達したのであった。色彩はますます優婉さを加え、その典雅な画境は古典的な静けささえもっている。空はあくまで澄み、この世にひとり夢みていたルドンの晩年の心境を思わせる。

順に、1971年、1959年に書かれたもの。

夜、ジョン・カサヴェテス『アメリカの影』(1958年、アメリカ)を観る。

Friday, December 2

仕事帰り、女性3人でフランス料理を食べにでかける。路地裏に足を踏み入れると見えてくる、店頭のほのほの光る豆電球の灯り、赤と白のギンガムチェックのテーブルクロス、これぞフランスの家庭料理をいただけるお店! という感じ。たくさん食べて笑ってしゃべって。デザートのクレーム・ブリュレの表面をスプーンでたたきながら3人で「アメリ!」と叫ぶのはお約束。『アメリ』は配給元のアルバトロスがゲテモノホラー映画だと信じ込んで買い付けたという有名なエピソードがあってけっこう好きで(このエピソードが)、上映情報が公開されたときにはたしかに、まさかこの可愛らしい映画をアルバトロスが配給するなんて、とおののいたものの、いまでは映画から遠く離れてしまったため、どこがどういうカラーの作品を買い付けているのかもうさっぱりわからない。

それにしても、まあ皆フランスが好きだとしても、3人ともしっかり『アメリ』を観ているのだからあの映画は本当にヒットしたんだなあ。わたしは2回、劇場に観に行ったのだった。ちなみに昨年の夏だったか、卒業以来初めて会った高校時代の友人4人でカラオケに行ったらば全員が嵐のベスト盤を持っていることが判明し、嵐の底力を感じたのだった。わたしは持っているとはいえ「Happiness」しか聴いていないのだけど(これはほんとにいい曲)。

帰り道、タイムラインを見たら複数の方々のツイートにより菊地成孔のラジオ「粋な夜電波」のオープニングがすごいことになっていた状況が伺い知れ、録音した放送を明日聴くのを楽しみにしながら帰宅。

Saturday, December 3

雨降り。昨夜の夜遊びによりちょっと寝坊。午前中からお昼にかけて雑用やら常備菜づくりやら。食材の買い出しに出かける。5回に2、3回くらいはものすごい量を買うため、腕がちぎれそうになりながら帰途について、これなんとかならないだろうか、と思って5回に1回くらいはショッピングカートを買ったらよいのかねえ、と思いあぐね、ショッピングカートも一時期けっこう見かけたけど最近は見かけないような気がするなあ、そういえば代官山にあるお店でおしゃれなショッピングカートを売っているのを雑誌で見て長いあいだ切り抜きを持っていたではないか、と思い出しインターネットで調べたらそのお店はすでに閉店しているのだった。生き馬の目を抜くこのご時世に2001年の記事じゃ無理ないな。

ミヒャエル・ハネケ『カフカの「城」』(1997年、オーストリア/ドイツ)鑑賞。

*今日の一枚  乱反射ガール/土岐麻子  寒さ深まりゆくなか真夏の曲を聴く。

Sunday, December 4

晴れ。乃木坂へ。国立新美術館にて「モダン・アート,アメリカン ―珠玉のフィリップス・コレクション―」を観たあと、ずうっと行きたかったデンマーク料理のお店、Cafe Daisyへ。窓際の木漏れ日が美しい席で肉料理の盛り合わせ、パン+オリーブオイル、赤ワイン。目と鼻の先の東京ミッドタウンで洋服を見たり食器を見たり。エルメスは昨年と同様、また楽しげな期間限定ショップを出していた。昨年は「J’aime mon carré」、今年は「Paris Mon Ami」。季節がひとまわりした。どこを歩いてもクリスマス色の風景を採集できるこの季節が今年も訪れた。この世界におかれましてはこれからもくるくると楽しい環を描いていただきたい。どうかお願いします。

*今日の一枚  1962-1966, 1967-1970/The Beatles