9

Monday, August 8

お弁当、ご飯+瓶鮭+梅干し、卵焼き、豚肉とキャベツの炒めもの、蒸したにんじん、切り干し大根としいたけの煮物、ミニトマト。

先週金曜日に新宿で『ふたりのヌーヴェルヴァーグ』を観て、またあらためてヌーヴェルヴァーグ期の作品を観直そうという気分になり今夜はジャン=リュック・ゴダール『中国女』(1967年、フランス)を鑑賞。アンヌ・ヴィアゼムスキー演じるヴェロニクのゆったりしたワンピースが可愛いなあ、女性たちの洋服がお洒落だなあ、インテリアの色づかいが良いなぁこれはゴダールとアンヌの自宅なんだっけ、イヴォンヌ役のジュリエット・ベルトがインタビューを受けるシーンで喋りながらしきりと髪の毛をいじるのはあれもゴダールの演出なのかしら、バゲット+カフェオレボウル+バター=ザ・パリの朝食って感じ、でも実際ほんとにそうなのかな、などなど政治思想以外のところに想いを飛ばさせてくれる映画である。

*今日の一枚 Strange Recollection/Rosie Brown

Tuesday, August 9

わたしは歴史が大の苦手だったゆえ高校では世界史などまったく勉強しなかったわけであるからナポレオン・ボナパルトがワーテルローの戦いで大敗したなどという史実はABBAの歌によって知るしかない。日本語タイトルでは「恋のウォータールー」と名付けられた歌、「My, my, at Waterloo Napoleon did surrender」という歌い出しではじまるこの歌、ウォータールーともワーテルローとも発音する “Waterloo” とは大敗北を意味し、 “もう完全にあなたの手におちました完全降伏ですもうあなたに夢中なんですワタシマケマシタワ” という回文メロメロsongを大声で熱唱すると非常に気持ちが良い。

ちなみに高校では受験科目として仕方なく日本史を選択していた。地理は好きだったので自主的に選択した。地理が好き、地図が好き、さらに言うなら路線図が好き。路線図を見つめすぎて酔ったことがある。

*今日の一枚 S.O.S. The Best Of ABBA/ABBA

Wednesday, August 10

ヌーヴェルヴァーグ月間ということでここはやはり「アントワーヌ・ドワネルの冒険」シリーズを。夜、『アントワーヌとコレット/二十歳の恋』(フランソワ・トリュフォー、1962年、フランス)を観る。わたしが見るにジャン=ピエール・レオーはこのときがもっともかっこいい。その後続けて同時期に撮られたSF映画『ラ・ジュテ』(クリス・マルケル監督)を観たのだけどぐっすり寝てしまった。好きな映画だったのだけど。

*今日の一枚 Six White Russians And Pink Pussycat/Room Eleven

Thursday, August 11

ヌーヴェルヴァーグ月間の一環として夜、「アントワーヌ・ドワネルの冒険」3作目の『夜霧の恋人たち』(フランソワ・トリュフォー、1968年、フランス)鑑賞。

深夜、『「フクシマ」論 原子力ムラはなぜ生まれたのか』(開沼博、青土社)を読み終える。同書は「「原子力ムラ」というテーマについて「中央と権力」と「日本の戦後成長」の関係を論じ」たもので、福島原発と国家の原子力行政を対比しながら日本の戦後経済成長について考察したものとしても(「原子力という対象ほど「近代社会」や「近代化」と呼ばれるものとそのメカニズムが映し出されるものはない」と著者は指摘している)非常に鮮度も高く価値ある論考とされるだろうが、わたしにとっては著者の「手前味噌も甚だしいが、これは3.11間際のフクシマを記録した唯一、最後の研究である」という一節にもあるように「3.11の間際まで、そこはいかなる姿を見せていたのか」を知りたいという欲望を十分に満たす一冊となった。3.11以降読了した震災・原子力関係の本はやっとこさ5冊ほどだろうか。論点は各書で異なるもののどの本にも底をひたひたと流れる共通した見解を見出せるように思う。もうすこし読み続けてみる。

*今日の一枚 Me And Armini /Emiliana Torrini

Saturday, August 13

午前中は雑用と読書。午後、久方ぶりのアテネ・フランセ文化センターにて、開催中の「ポルトガル映画祭 マノエル・ド・オリヴェイラとポルトガル映画の巨匠たち」から『アニキ・ボボ』(マノエル・デ・オリヴェイラ、1942年、ポルトガル)を観る。すーごくすーごくよかった。 “アニキ・ボボ” とは「警官・泥棒」という遊びの名称だそうだ。ところで、小学生のときわたしの住む地域では、その警官と泥棒にわかれて追いかけ回す遊び(鬼ごっこ?)を「ケイドロ」って呼んでいたけれど中学に入っていろいろな地域に住んでいる子たちと友だちになったら「ドロケイ」と呼ぶ地域もあると知ってびっくりしたというきわめてありがちな話。警察と泥棒で序列の高いほうを先にもってくるということであれば、ジャン=ピエール・メルヴィルだったらきっと「ドロケイ」と言っただろう。

夕方、東京都庭園美術館の「国立エルミタージュ美術館所蔵 皇帝の愛したガラス展」夜間展示に足を運ぶ。夜の庭園美術館は初めて。先日、アレクサンドル・ソクーロフの『エルミタージュ幻想』を観たのでその復習として。そしていつの日かサンクトペテルブルクのエルミタージュ美術館を訪れるはずなのでその予習として。

*今日の一枚 Gala de Caras/mama!milk

Sunday, August 14

早起きして東海道本線に乗って静岡県・三島にあるクレマチスの丘へ向かう。クレマチスの丘はクレマチスの花咲く庭園やイタリアの現代彫刻家ジュリアーノ・ヴァンジの作品を集めた美術館、フランスの画家ベルナール・ビュフェ美術館、IZU PHOTO MUSEUMなどの美術館が建ち並ぶちょっとしたカルチャー観光地。

エントランスの、男性と女性が描かれた壁画に沿って進むと、全方位に開かれた広大な箱庭のような、と矛盾に満ちた形容をしたくなる不思議な趣の庭園と対峙することになる。中央に配置されたヴァンジの彫刻作品を回り込むように曲線を描いて小径が敷かれ、ヴァンジの存在感溢れる彫刻が庭園の其処此処に点在する眺めは壮観。この空間が目の前に広がる一瞬はわくわくしてくせになる、だからここに来るのはもう3度目になるのだった。

ヴァンジの彫刻は大理石や御影石、ブロンズなどが用いられ、人の身体や顔を象ったものの多くはきわめて具象的だ。壁をよじ登ったり高所から顔をのぞかせたりする男やお互いに向き合い見つめ合う男女ーなどと具体的に有様を描写できるダイナミックな造形、心情を推し量らずにはいられない何かを物語る表情、実際に手で触れるという身体的体験を供するものが突如として眼前に現れる意外性や迫力に観る者は興奮をおぼえるのだが、そうした作品への仰視的(ミクロ的)な視点もさることながら、それがきわめて大きな風景の一端であるととらえる俯瞰的(マクロ的)な視点を抱かせるところにヴァンジ作品の魅力がある。

館内に入り、大理石やブロンズの正方形の台座に刻まれた作品群を観るといっそうよくわかる。たとえば「浜辺に座る女」と名付けられた作品を構成する要素は砂浜/白い波頭を立てて押し寄せる波/女であり、「耕された土地」では耕された痕跡を残す地面/男であり、「海辺のカモメの群と男」では群れをなして飛ぶカモメ/波/男である。せいぜい40cm平方の正方形のなかに配置された、たったこれだけの要素がどれほどその“場”の広がりを喚起させることか。見えるものは砂浜と海と空ばかり、女性が一人佇む浜辺はこのまま地の果てまで続き、波の音は永遠に鳴り止まない。茫漠たる土地はたとえ“耕された”土地であってももちろん荒れ果ててもの寂しい。海辺のカモメの群れはきっと後から後からやってくるのだろう。途方もない寄る辺なさ。人物たちが一様に哀しげな表情をたたえているのは必然なのだ。

ヴァンジは何もないところに出現させるのではなく、漠々としたなかから切り取る行為をしているのだとわたしは思う。ついでながら、ヴァンジの彫刻を写真に収めると非常に収まりが良いのもこれで説明がつく。

ヴァンジ彫刻庭園美術館ではほかに「東海道 新風景 ― 山口晃と竹﨑和征」(これがこの旅の本題の1つめ)を鑑賞し、その後、ベルナール・ビュフェ美術館、IZU PHOTO MUSEUMの「富士幻景 富士にみる日本人の肖像」を観て、薄暗くなり始めた庭園で灯されたキャンドルを眺めた。クレマチスの丘のキャンドル・ナイト。キャンドルがこの庭園にとても似合うことに初めて気づいた。

ヴァンジ美術館大展示室で彫刻に囲まれながらmama!milkのコンサート(これがこの旅の本題の2つめ)を楽しんで帰京。

*今日の一枚 Fragrance of Notes/mama!milk