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Tuesday, July 5

お弁当、ご飯+昆布+梅干し、卵焼き、にんじんとじゃがいものそぼろ煮、ピーマンと小松菜の炒めもの、ミニトマト。

夜、相米慎二監督の「台風クラブ」(1985年、日本)。この映画は大好きだけれど、どんな映画かと問われれば「異様な映画」としか答えようがない、というのは怠慢だろうか。だいたい映画のなかの子どもの声というのは怖い。

*今日の一枚 The Bird’s Nest/Feather and Down ジャケットがとても可愛いかったのでTSUTAYAでジャケ借り。被写体の女性(歌手本人?)がアルバムタイトルどおり頭に鳥の巣を模したヘッドドレスをつけている

Thursday, July 7

お弁当、ご飯+昆布+梅干し、卵焼き、牛肉とほうれん草のソテー、じゃがいもとにんじんのそぼろ煮、小松菜の炒めもの、ミニトマト。

朝、二階堂和美が新作「にじみ」を出したので早速聴いていた。

昼、『別れの手続き 山田稔散文選』(山田稔、みすず書房)を読む。

夜、二階堂和美がニューアルバム発売記念だかでUstreamライブをやるというのでビールを飲みながら鑑賞。新作に収録されている「説教節」は昨年12月、渋谷クラブクアトロで「ニューアルバム制作開始記念ライブ」と銘打たれたライブですでに聴いていて、そのときの会場の盛り上がりを今でもはっきりと思い出せるのだった。ところで先日読んだ小池昌代の『井戸の底に落ちた星』のなかで、町田康の小説『告白』の書評として著者は次のように書いている。

何かぶよぶよした塊が頭のなかにあるとする。考えていくにしがたがって、そのぶよぶよが、方向性を持ったり、ぶよぶよのなかに、閃光のごときひらめきが生まれたり、ぶよぶよが分裂して、二つになったり三つになったり、それがまた、まとまったり、あらぬ方向へすっとんだり……。人間が何かを考えるということは、こんなふうに、混沌とした泥が、あっちこっちに、うごめくような、そういう運動といってもいいのではないか。そして、その運動体に、言葉をあてはめていくというのは、これはまた、違う次元の行為であって、泥の運動と言語化のあいだには、溝があるよ、とわたしは思うのです。その溝に対して、時に、わたしたちは語り得ないことと感じ、言葉の無力を思ったり沈黙したりする。

小説のストーリーはこの際置いておくとして、ここでは、言葉以前のものが言葉として生成され吐き出されるには何かしらの苦闘を伴うということが示されているが、わたしは二階堂和美の歌を聴くときこれと似たようなことを思う。実際わたしも歌うことが大好きで、歌いながらときには踊り、手をたたき、(貧弱ながら)ヘッドバンギングめいたものをするけれど、音楽の兆しと呼べるものが身体のなかに発生することとそれが歌、踊り=音楽として放出されることとのあいだにはどうしようもない落差があるように思える。この「溝」を誰にも真似のできないやり方で切実さと賢明さをもって飛び越えているのが二階堂和美という歌い手なのだろう。これは技術によるものでもない。名の知れた歌手でもこの溝を超えられない、どころか溝があることを聴き手に感じさせない歌い手がいかに多いかを考えてみてもよくわかる。

* 今日の一枚 にじみ/二階堂和美

Friday, July 8

山田稔の『別れの手続き』にはイギリスの作家ジョージ・ギッシングの『ヘンリ・ライクロフトの私記』について書かれた章がある。著者は中学時代に『ヘンリ・ライクロフトの私記』を原書で買ったのだが、後年、そのことについて執筆を求められた際に「本の外観や、残された署名から空想する前所有者のことのみを書いて、肝腎の本の内容については一言もふれていない」事態になったという。なぜか。「その理由はいたって簡単で、主題が別にあったことのほかに、『ヘンリ・ライクロフトの私記』の内容について思いうかぶことが何もなかったのである」。冒頭このようにはじまり、思いうかぶことが何もないといいつつも同小説をめぐる名文が19頁にわたってつづられるのであるが、わたしはこれだけ読んですっかり嬉しくなってしまった。実はわたしも二十歳を過ぎたころにこの作品を読んだのだけど、読んでいるあいだずっと感じ入ることもなくこれといって面白味も見出せず、読み終えたあとには何も憶えていなかった、という恥ずべき前科があるからだ。山田稔は続けてこうも書く。

はたして私はこの本を読んだのか。戦後間もない中学の四年か五年のころ、『マンスフィールド短篇集』などと前後して、とぼしい小遣いをはたいて古本屋で買い求めた大事な洋書の一冊を、何ページかでも実際に読んだのか。それはたしかに、何ページかは読んだはずである。しかし何も憶えていないのである。(中略)かろうじて憶えているのは、全篇が春、夏、秋、冬の四つの章に分けられていることぐらいなのだ。

四つの章に分けられていたなんて初耳です。嗚呼、なんたる。我が身の愚かさを呪う。一方、果たせるかな山田稔はこの小説を再読したところあるくだりを読んでいて、

私はひどく時間のかかるあぶり出しのように、徐々に記憶がよみがえってくるような気がした。

と、当時の自らの読書体験を思い返して滋味豊かな文章をしたためるわけで、結局ここまで読んだわたしはもうすっかり満足してしまって『ヘンリ・ライクロフトの私記』を読み返す情熱がしぼみつつある。

* 今日の一枚 Journey to the One/Pharoah Sanders

Saturday, July 9

スタバで『メキシコの美の巨星たち—その多彩でユニークな世界』(野谷文昭、東京堂出版)をひろい読み。

所用あって実家まで。犬と遊んでばかりいた。犬の散歩に行ったら、履いていたサンダルには左右それぞれ3本ずつストラップがついていたのだけど、歩いているうちに左右それぞれ2本ずつストラップがぶち切れてしまって歩くのに難儀した。何の苦行だろうか。

武田百合子の『ことばの食卓』と、先日あることがきっかけでまた読みたくなった飯島耕一の本をたしか実家に置いてきたはずなのできっとあるだろうと思って探したのだけどなくて、途方に暮れた。

Sunday, July 10

マンションの屋上からは東京スカイツリーが遠くに望めるため、屋上にあがるとほぼ毎回スカイツリーを眺めるのが習慣になっており、今日もビール片手にぼんやり霞むスカイツリーを漫然と確認し、そのまま何気なく視線を横にうつしてみたら、いままでまったく気づかなかった建物を発見、傍らには赤白のクレーンのようなものが見えるではないですか。もしかしてあっちがスカイツリー? と絶句したのちインターネットの地図で位置を確認しサイトでスカイツリーのルックスも確認したところ、いままでさんざん眺めてきた建物はスカイツリーではなくこのたび確認された建物がそれであったことが判明した。驚愕の事実にしばらく放心してしまいビールがすっかりぬるまってしまった。タワーちがいだったほうの建物は未確認建設物体のままである。

実家のじぶんの部屋の壁には夥しい数のポスターやチラシやポストカードを貼っていていまでもそのままにしてあるのだけど、昨日、実家に寄った際に何枚かはがして自宅にもってきた。廊下にゴダールの「はなればなれに」「ONE PLUS ONE」のチラシとヴィム・ヴェンダースの「リスボン物語」、ジャック・ドゥミの「ロシュフォールの恋人たち」、クロード・ミレール「なまいきシャルロット」などのポストカードを貼った。いかにもなセレクトといわれようが好きなものは好きなのでわたしは満たされ、足りている。

2001年2月から3月にかけて銀座テアトルシネマで公開された際に手に入れた「はなればなれに」のチラシには蓮實重彦、はな、agnès b. のコメントが寄せられていて(パンレットにも載っているが)、agnès b. のコメントがいいなと思う。

アンナ・カリーナのグラフィックな美しさ。ほとんど物語がない物語、この自由さは私の心に刻まれた。

きのう、関東の梅雨が明けた。

*今日の一枚 Andrews Sisters Greatest Hits 16/The Andrews Sisters