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Monday, April 1

年間3780円という出版社のPR誌としては強気の価格を掲げるみすず書房発行の『みすず』で連載中の保坂和志の「試行錯誤に漂う」より。

ベケットについて、何か語るとその言葉が愚かに見える。「わかった」と思うことがすべての愚かさになる。それに気づかずにみんなベケットについて書くから愚かさの上塗りになる。(p.48)

Tuesday, April 2

夜、ねむる直前にベッドのなかで黒田夏子の『abさんご』(文藝春秋)を読む。「abさんご」と口にだすと、どうしても「マツケンサンバ」のメロディーに乗せたくなる衝動に駆られる。オーレオレ、abさんご。

Wednesday, April 3

北欧について調査はつづく。『北欧デザインをめぐる旅』(萩原健太郎/著、ギャップ・ジャパン)がよかったので、おなじ著者による『生活に溶けこむ北欧デザイン』(誠文堂新光社)と『北欧デザインの巨匠たち あしあとをたどって。』(ビー・エヌ・エヌ新社)を参照する。

Thursday, April 4

鉄は熱いうちに打て。雑誌は早いうちに読め。雑誌を放置すると、あれよあれよという間につぎの発売日が迫って来てしまうという警鐘。

というわけで、『装苑』(文化出版局)に目をとおす。能町みね子の記事によると、「幅広い年代に読まれている『装苑』。数年前の調査によると、なんと男性読者が3割を占めています」(p.76)とのこと。3割のうちの一人か。

Friday, April 5

英『エコノミスト』誌の特集は、検閲厳しい中国のインターネット事情。ところで、『装苑』と『エコノミスト』を両方読んでいる日本人は果たして何人いるのだろう。

Saturday, April 6

台風並みの大荒れの天候が予想されるので、不要不急の外出は控えるようにと日本気象協会は呼びかけている。しかし、緊急の用事があるので外出しなければならない。世田谷美術館でのエドワード・スタイケンの写真展が明日で終わってしまうのだ。翌日から労働に従事しなければならぬ日曜日に外出すると身体が疲弊して仕方がないので、なるべく遠出は土曜日のうちに済ませたい。ゆえに、世田谷美術館訪問は、重要かつ緊急である。「いまこの光はこの瞬間しかないのだから、いまは緊急事態だ!」と、道路での撮影を咎める警察に向かって抵抗する『フレディ・ビュアシュへの手紙』におけるジャン=リュック・ゴダールの気分。

『ヴォーグ』や『ヴァニティ・フェア』といった商業雑誌に掲載されたハイファッションのポートレイト作品を中心にまとめて展示を眺めていると、戦前のハリウッド映画を観たくなる。併設のレストラン、ル・ジャルダンでステーキ、ライス、デザートにロールケーキと珈琲。家に戻って購入した図録を確認すると、邦語文献に「スタイケン本人によるコメントおよび同作家に関する言及のあるもの」として、伊藤俊治の『アメリカンイメージ』(平凡社)が挙げられている。しかしながらその本は未読で絶版で地元の図書館にも置いてないので、おなじく伊藤俊治の『20世紀写真史』(ちくま学芸文庫)からスタイケン本人のコメントはないものの言及がある箇所を再読する。

第一次大戦前には、「まぎれもなく独立した芸術的感覚と遂行によってつくられた写真」のみを求め、絵画的なサロン写真や芸術写真を志向していたスタイケンは、時代の変動とともにその方向性を変え、消費文明大国となったアメリカの、まさに消費文化のシンボルであった高級文化誌『ヴァニティ・フェア』(誌面には最新型の自動車や流行モードや人気スターたちが豪華にちりばめられていた)の指導的な写真家となって二〇代後半から三〇年代末にかけて活躍することになる。ピクトリアリズムに浸っていたスタイケンのソフト・フォーカスの写真観は改められてリアル・フォトに転じ、写真機能の驚異的な進展を自覚し、写真のメカニズムを駆使した実験を重ねたすえに新しい表現方法へと変身してゆくのである。

例えばスタイケンは、鏡面や光の対角線を独特に利用して、ガルボやチャップリン、シュヴァリエ、ガーシュイン、ルーズベルトら著名人の肖像を撮り、大きな変貌を見せていたスタジオ空間内で、ライティングやポーズ、コントラスト等の綿密な研究をし、それによってポートレイトやファッションを硬直したつくりもの的なイメージから新鮮で現実的なものへと方向転換させていった。

さらに彼は一九三八年までコンデ・ナスト社の写真部長をつとめ、『ヴォーグ』誌の編集にも関わり、広告代理店J・W・トンプソン社の広告の担当や世界一の劇場ラジオ・シティ・ミュージックホールの写真壁画なども手がけ、三〇年代を通じ、“機能性をもつ芸術”、芸術と実用の結合を追究し続ける。
(pp.96-98)

Sunday, April 7

風が強く吹いている。空は雲ひとつない。

クロワッサン、ソーセージ、ザワークラウト、スクランブルエッグ、小松菜炒め、ヨーグルト、珈琲の朝食を終えて、読書の時間。『冥府の建築家 ジルベール・クラヴェル伝』(田中純/著、みすず書房)を読む。イタリア未来派の演劇活動に加わったり、『自殺協会』と題された小説の執筆などで知られる(といっても『UP』(東京大学出版会)掲載の田中純「鳥人間の影——ジルベール・クラヴェル『自殺教会』」を読むまで、ジルベール・クラヴェルなんて人を私は知らなかったけど)人物の評伝。作家の彼は、また(素人)建築家でもあった。幼い頃から病弱だった彼は療養の場所にと、イタリアのティレニア海に面するポジターノで古い塔を買い取って改築する。

ジルベールは自分の幼い姪、ルネの娘であるアントワネットが手術を受けたという知らせに対して、病に罹った子供の心理への濃やかな気遣いを勧めている。病気の子供は陣痛にある母親と同じくらい繊細であり、その記憶力は不気味なほど鋭い。だから彼は、そんなふうに高まった敏感な受容力にわずかでも愛情を注ぎ込んでやりたいと言う。それまでの生涯で自分には欠けていた、簡単にまた純粋に取り戻しようもない愛を。そうしたときの子供の心理を凝縮したイメージがとりわけはっきりと自分の眼前に立ち現れるのをクラヴェルは経験するのだが、その鮮やかさの理由とは、そこにともなう苦痛を彼がいまにいたるまでけっして克服できなかったからなのである。そしてこれはつまり、クラヴェル自身が病気の子供のような繊細さと記憶力にとって世界に対峙しているという事態の告白だろう。政治的・社会的な立場から言えば彼は、大ブルジョワの一員として、幾重にも守られた存在だった。だが、生身の個人としての彼は、まさに皮を剥がれて神経を剥き出しにされたかのような、ひとりの病気の子供のままだった。それゆえに彼は塔という砦の硬い皮膚を必要としたのかもしれぬ。しかし、その砦が位置していたのは、地水火風の四大が衝突し合うように闘争をくり広げる、激しい戦闘の場だった。「自然力の劇場」にクラヴェルは憑かれている。彼自身もまたそこで、爆破によっていわば岩壁の皮を暴力的に剥いでゆく。クラヴェルにとっての「政治」はそこにこそあった。(pp.326-327)

昼すぎ、近所の商店街に出掛けて、生活雑貨と花を買う

『マックス・ウェーバーの日本 受容史の研究 1905-1995』(ヴォルフガング・シュヴェントカー/著、野口雅弘・鈴木直・細井保・木村裕之/訳、みすず書房)を読む。戦前から戦後にかけての日本のアカデミズムにおけるマックス・ヴェーバーの受容史という専門筋以外のどこに需要があるのかという内容(それもドイツ人に向けて書かれたものの翻訳)だが、都内在住の会社員が読了したことをここに記す。なんとなくヴェーバーを読みたくなって岩波文庫やら講談社学術文庫やらのヴェーバー本を10冊ほど机の上に積み上げる。積み上げたので、もう満足だ。