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Monday, October 29

前日の夜にフェリックス・ガタリの『精神病院と社会のはざまで』(杉村昌昭/訳、水声社)を読み、そのままつづけて『crazy god』という廃墟となった精神病棟を被写体とした写真集を凝視してしまったものだから、いささか不穏な月曜日の朝を迎える。『crazy god』の存在は、二年程前に『女性フォトグラファーズ・ガイド』(砂波針人/編、河出書房新社)を読んで知った。森本美絵や高木こずえや梅佳代など数々の女性写真家が紹介されているなかから私がいいなと思って選んで買ったのは、ナポリ生まれ(現在はロンドン在住らしい)の女性写真家 Yvonne De Rosa が撮影した廃墟好きと病好きの両方におすすめできる写真集。それにしても『女性フォトグラファーズ・ガイド』には副題に「Sweet Photo Visions」とあるのだが、スウィートからずいぶんとまた遠く離れた写真集をアマゾンで注文したものだ。

夜、気を取り直して『サラエボで、ゴドーを待ちながら』(スーザン・ソンタグ/著、富山太佳夫/訳、みすず書房)を読む。

Wednesday, October 31

『奇貨』(松浦理英子/著、新潮社)を読む。松浦理英子は寡作なので普段どうやって生活しているのだろうと余計なお世話なことを考えてしまい、潤沢な資産を有するパトロンでもいるのだろうかと邪推するのだが、そういえば『犬身』(朝日新聞社)が出たときに『一冊の本』で、そんなパトロンがいるなら紹介してほしいと書いていたのを思い出す。

Thursday, November 1

本屋にいくと、iPS細胞をめぐる日本人のノーベル賞受賞にかこつけた場当たり的な本ばかりが並んでいるのに辟易するなかで、再生医療について、じぶんの考えたいことが恐らく書いてあるだろうと『生殖技術 不妊治療と再生医療は社会に何をもたらすか』(柘植あづみ/著、みすず書房)を手にとる。論旨の組み立てがややフェミニズムの理論に寄りすぎではなかろうかと思うところもなきにしもあらずだけれど、少なくとも私の考えたいことが論じられていることは間違いない。

以前、進行性筋ジストロフィーのために人工呼吸器をつけたばかりの青年に、新しい治療技術の開発について意見を求めたことがある。彼は、治療・研究機関を併設する施設にて十年以上を過ごしたが、そこでは新しい治療方法を開発するために、自分も家族も実験台にされたと批判した。そして、新しい治療技術の開発については、簡単に治るのなら治したいと思うかもしれないと断った上で、「治すってことに関しては、私まったく興味ないっていいますか……自分にとってそんなに大事なことではないって思いますんで」「それよりもやっぱり、いまこの自分の状況で、どう人間らしく生きるかっていう部分を、考えているもんですから」と述べた。彼の言葉から思うのは、再生医療が提示する希望は「治すこと」だけに偏ってきたということである。この社会は、治療が難しい病気や障碍をもつ人が人間らしく生きるという希望を、治す希望へとすり替えてしまっている。社会がなすべき努力までも、患者個人の治す努力に転嫁している。そのことを再認識しながら、もう一度、再生医療の希望とは何かを考えたい。再生医療の倫理問題はそこまで深化させて語られるべきだ。

Saturday, November 3

ベルギー北部のオステンドからトラムに乗ってしばらく行くとポール・デルヴォー美術館がある、らしい。「らしい」というのは、今年六月のベルギー旅行でオステンドから眺める美しい海は堪能したものの、せわしい旅程から時間的な余裕が許さず、デルヴォー美術館訪問はやむなく諦めたので。オステンドでの仇を府中で晴らすとばかりに、いざ府中美術館の「ポール・デルヴォー 夢をめぐる旅」展へむかう。 デルヴォーの絵画をそれなりに満喫するものの展示されている作品数自体はそれほどでなく、デルヴォーだらけのデルヴォー美術館への思いがますます強まる。ベルギー旅行の直前、『群像』五月号で山尾悠子が褒めていた『ポール・デルヴォーの絵の中の物語』(ミシェル・ビュトール/著、内山憲一/訳、朝日出版社)まで読んで予習したのだ。

府中駅前で食事処を求めて彷徨い、伊勢丹レストラン街の寿司屋に落ち着く。つづけて世田谷文学館で「齋藤茂吉と『楡家の人びと』展」。茂吉の字が几帳面かつ小さくて驚く。息子北杜夫の文字も小さい。そして北杜夫に手紙を出す辻邦生の字が輪をかけて小さい。

京王線と中央線を乗り継いで荻窪の「ささま書店」へ。福沢諭吉を財布に忍ばせて『ブルーノ・シュルツ全集』(新潮社)を買う。そのほか数冊の戦利品のなかにムージルの『愛の完成・静かなヴェロニカの誘惑』(古井由吉/訳、岩波文庫)。

またついでながら、今から二十何年か昔に翻訳の文章の平易平明がとなえられ、全般に訳文のおもむきがそれまでとずいぶん変った。しかし平易は安易と違う。まして、読者の欲求や追究力を安く踏むことではない。そして平明は、平明こそ難解だという事情がある。すくなくとも、平明であるためには、文章は張っていなくてはならない。また、難解を忌むところから、精神が衰弱をきたすおそれはある。

という古井由吉による訳者あとがきを明確に記憶していたので、すでに家の本棚にあるのではないかと思っていたのだが、帰って確認したらなかった。いよいよ自宅の本棚の収集がつかなくなっている。