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Wednesday, October 24

国家社会主義ドイツ労働者党いわゆるナチスが政権を掌握していた時代をめぐって、半世紀以上の時間が経過している現在でもなお少なくない歴史家や思想家の関心を惹きつづけ、あるいは小説や映画の題材として飽くことなく繰り返し取りあげられているのは、猖獗を極めた反ユダヤ主義の歴史を末永く記憶し語り継いでゆかなければならないという責務にちかい意思ももちろん作用しているだろうけれども、くわえて、歴史的資料がどれほど机上に積みあげられようとも明晰になることのない、ナチスというものの底知れぬ「わからなさ」があるのではないか、と気づかされるのは『ナチスのキッチン 「食べること」の環境史』(藤原辰史/著、水声社)を読んでいたからで、ナチスがモダニズムの思想を糺弾しながらも同時に、徹底した近代主義的ふるまいをも厭わないという、事後的に歴史を検証すれば「矛盾」にしか見えない政策を平然とやってのけた事実を突きつけられる。『ナチスのキッチン』の著者は、ナチズムの「復古的なイデオロギー」を確認しながらつづけてつぎのように書いている。

ナチスは、都市のモダニズム建築をつぎつぎに破壊し、郷土保護様式に置き換えた。市民家族のかわりに奉公人をも含む「全き家」の復興を目指すために、機能主義的な台所を排して、暖炉の生産を奨励し、居心地の良い広い台所を増設していくことで、健康なドイツ民族の育生と人口増加政策に努めた。/もしもこのようにナチスの台所史を描けるのだとしたら、これまでの多くの歴史家たちがナチズム研究に一回限りの人生を費やすことはなかっただろう。つまり、実際には、この復古的なイデオロギーとは裏腹に、質素で合理的な住居建築が進められていったのだった。しかもナチスは、台所空間の「工場」化に歯止めをかけなかったのである。

Friday, October 26

企業広告たる料理本が生き残るために時局の言葉を語るのは、マルギスの電化製品を用いた料理本も、ホルンのアイントプフの料理本も同様である。ジーメンス、マギー、そしてドクトル・エトカーのように、ヴァイマル時代に家庭という小規模多数の市場に売り込みをかけ、大きく成長した企業は、ナチスが政権を獲得しようとも、食糧危機が起ころうとも、あるいは、戦争が起こって食糧統制が敷かれようとも、成長を止めるわけにはいかなかった。しかし、家庭の主婦が危機の時代に財布のひもを締めるのは、当然の行為である。
では、この主婦に届く言葉を発せられるのは誰か。そう考えたときに、料理本作家は最適なメガホンであった。また、ナチスにとっても、食糧を外国に依存せず、国民経済と家庭経済を結びつけるためには、料理本作家の力を利用しない手はないだろう。それゆえ、レシピは、表面上は反資本主義を掲げていたナチスが、親資本主義的ふるまいをしていた事実を知る第一級の史料であり、国家の干渉を嫌い、経営の自由を主張する大企業が、国家の言葉を巧みに自己肯定の言葉へとすり替える力を有していたことを知る貴重な手がかりなのである(『ナチスのキッチン』)

と、とらえようによっては「平和的」で「牧歌的」に見えてしまうかもしれない料理の本が、銃後の守りとして国家的なイデオロギー政策からけして自由でないことを論じる研究書を読了したあとに読んだのが、『石井好子のヨーロッパ家庭料理』(河出書房新社)と、料理本であったことにとりたてて他意はない。

ところで、『石井好子のヨーロッパ家庭料理』にはソフィア・ローレンが出している料理本についての言及があって、

貧しい家に生まれ育った人だけにとり上げている料理はたいへん庶民的で、日本でいえばお芋の煮ころがし的なおそう菜が多い。作り方もやさしく、簡単明瞭に書かれているので取りつきやすく、とてもおもしろく読んだ。

とあるのだけれど、ソフィア・ローレンが料理の本を出版している事実を私に教えてくれたのは、近代ナリコが編集をつとめる『モダンジュース』誌上で、それは二〇〇六年のことなのだが、近代ナリコによる「あとがきに、親しい人に食べ物の名前をつける癖があるという彼女は夫(映画プロデューサーのカルロ・ポンティ)を、「肉ロール(インボルティーノ)」と呼ぶとあり……さすがはアモーレとマンジャーレの国、愛して食べてが生活の基盤なのですね」という紹介文に興味をひかれつついまだ未読であるこの本は、『ソフィア・ローレンのキッチンより愛をこめて』というすごい書名なのだけれども、それはともかく、料理本を特集した号以降『モダンジュース』がいつまで経っても刊行されないのでもう出ないものかと諦めて追跡をやめていたら、去年最新号が発売されていたことをいまさら知った。一年以上にわたり買い逃している。