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Monday, May 14

通勤途中に電車内で詩を読むことが一般的な会社員のふるまいとして妥当であるかは甚だ不明瞭だけれど、しかしながら『通勤電車でよむ詩集』(小池昌代/編著、日本放送出版協会)との題名をもつ書物も世の中には存在するわけで、小池昌代が編んだその著作にもパウル・ツェランの詩が収められていたという事実を掩護射撃としつつ『パウル・ツェラン詩文集』(飯吉光夫/編訳、白水社)のページを午前八時すぎの電車のなかでめくっていた。電車で詩を読むなんて無粋かもしれないという当初の予想に反して、陰鬱な週のはじまりの通勤電車にふさわしいと感じられたのは、まずはじめに登場する詩が「死のフーガ」だったことだ。詩と死の対位法ではじまる月曜日。

帰りの電車では詩から小説に切り替えて『犬の心臓』(ミハイル・ブルガーコフ/著、水野忠夫/訳、河出書房新社)を読みはじめたところ、いきなりもうただならぬ事態を予感させる。冒頭、小説はつぎのようにはじまるのだ。

う、う、う、う、う、う、う、ぐう、ぐうぐ、ぐうう! おお、おれを見てくれ、おれは死にそうだ。

帰り道も死の臭いがただよう月曜日。

夜、蛤と小松菜とベーコンのパスタ、ビール。

Tuesday, May 15

『犬の心臓』のつづき。夜、白米、葱ともやしの味噌汁、茄子とピーマンと豆腐の中華風豚バラ炒め、野沢菜、ビール。

Wednesday, May 16

映画についての本は数あれど一九八〇年代後半の『キネマ旬報』での連載をまとめた『ぼくの映画あそび シネマ・ストリートを行く』(安西水丸/著、廣済堂文庫)が吃驚するのは、この本、九割八分が「余談」でできているということ。

映画を見ていて、時々本題とはずれた方向へと、興味が動いてしまうことがある。「ピアニストを撃て」を見ていて、ぼくの気持をとらえてはなさなかったのが、この映画の後半に出てくる、雪の中の山小屋だ。山小屋は雪の斜面にまるで玩具のように建っている。灰色の空に煙突のけむりが垂直にあがっている。きっと無風なのかもしれない。
ぼくは人間の最高の贅沢として海を見ながら暮らすといった考え方を持っている。そう言った意味では「ペルーの鳥」に出てきた家や、「軽蔑」に出てきた家なんかがすごく好きだが、あの「ピアニストを撃て」に出てきた山小屋を見ていると、ああこんな雪のなかの家もいいなあとおもってしまう。あの家が見たいために「ピアニストを撃て」のレーザー・ディスクを買って、早送りしながら山小屋を見て、いいなあとため息をついているのだ。

ザ・余談。感嘆せずにはいられない完膚なきまでに余談である。こうしてキーボードを叩いて書き写しながら、はたしてこれはどれほど生産的なおこないなのかという疑問があたまのなかをいっぱいにするほどに余談だ。ちなみに本書の白眉として挙げるべき余談はジム・ジャームッシュの映画について書いているつぎのくだりであろう。

「ストレンジャー・ザン・パラダイス」を見ていると、なんとなく勝沼(山梨県)近辺で採れた、種のボコボコにはいっているすっぱい葡萄を食べながら、人影のない海を見ているような気分になる。

余談の極北がここにある。

夜、たらこと小松菜と大葉をオリーブオイルとバターで和えたパスタ、ビール。

Thursday, May 17

『振り子で言葉を探るように』(堀江敏幸/著、毎日新聞社)を読む。堀江敏幸による「書評」集成。あいかわらずの柔軟で滋味に富む言葉の選択を堪能しつつも、あまたの書評文を前にして気になったのは以下の二点。

・途中で飽きる。
・どれもが同じ本にみえてくる。

夜、白米、油揚げと万能葱の味噌汁、冷や奴とキムチ、豚肉の酒蒸し、ビーマンと茄子の炒めもの、沢庵、ビール。

Friday, May 18

「セザンヌにはどう視えているか」と題された特集を組んでいる『ユリイカ』四月号(青土社)に載っている荻野厚志の論考(「初期セザンヌの暴力とエロティシズム」)では、一八六〇年代後半に制作された暴行やら殺害やらエロティックな場面やらのずいぶんと「変態」チックな絵画について論じられているのだが、この小論で引用されているバタイユによるセザンヌ論が興味ぶかくて、孫引きになるけれど引用してみるならば思想家はつぎのように書き残していた。

彼のうちで価値を占めていたものは過度なもの、異常なものに引きつけられる性向である。彼の沈黙は、彼を苛立たせることをやめず、また彼が至上の感動として避けがたく感じている壮大な感動と、伝達できないという不可能性の意識と結びついているのだ。大多数の人々の場合、このような過度に対して働く抑制は、彼にあってはいささかも力をもたないように思える。(「印象主義」『沈黙の絵画』、宮川淳/訳、二見書房)

「異常なものに引きつけられる性向」と書くバタイユが、セザンヌの初期の暴力的な作品について言及しているわけではないという事実は注目である。バタイユはセザンヌの「変態」満載の初期作品のことを知らなかったかもしれないらしいのだ。しかしながら、バタイユはセザンヌの「変態」を見抜いた。変態は変態を探りあてる嗅覚が鋭いということだろうか。類は友を呼ぶ。

夜、白米、鱈の西京漬、ビール。

Saturday, May 19

最新号の『ku:nel』(マガジンハウス)は本の特集。特集とは関係ないけれど「江國香織姉妹の往復書簡」で、江國香織がつぎのように書き記した内容が衝撃的だ。

こわい夢はね、いまもときどきみるけれど、昔ほどには泣かなくなりました。おなじ部屋にいたとき、あなたにはほんとうにお世話になったと思うよ。“夢だよ”って何度言われても、夢の質感があまりにもリアルで、あのころは現実にしか思えなかった。泣いたり吐いたり大さわぎだったね。私が吐くとき、あなたはバケツを持ってきてくれた。

夢を見て、泣くはまだ理解できるが、吐くってなんだ。

夜、古河庭園でライトアップされた薔薇をカメラに収めるものの、手ぶれ大臣賞を受賞する勢い。

Sunday, May 20

横須賀線で逗子駅に降り立ちバスに乗って神奈川県立近代美術館の葉山館に到着したのは午前九時半すぎのこと。「須田国太郎展 没後50年に顧みる」展をじっくり観てまわったのち海辺のまわりを少し散歩してから鎌倉に移動する。あいかわらずの発狂せずにはいられない小町通りの混雑ぶりから逃れるようにして脇道にはいってミルクホールに向かったところ、休日の観光地の昼どきにもかかわらずすんなり座席を確保できたのでハヤシライスを注文してお昼ごはん。鶴岡八幡宮方面へと足をのばし、神奈川県立近代美術館の鎌倉館で「石元泰博写真展 桂離宮 1953,1954」を鑑賞。今年二月に永眠した石元泰博による桂離宮の写真を前にするとモダニズムをめぐる思考をはじめないわけにはいかない。

石元泰博の撮影した「桂」離宮は、その暴力的なカメラワークによって、対象を解体し、そして再構成する正統的なモダニズムの手法にもとづいていた。ニューバウハウスの方法を受け継いでいるので、当然ながら、新即物主義(ノイエザッハリヒカイト)的な質感が重視されてはいるが、被写体である「桂」離宮からは、線と面だけが抽出され、その「構成」だけが示される。実はその建築的環境を決定づけているのは大きい曲面となった屋根や寄木、微細な装飾物などであるのに、こんな要素は思いっきり排除され、内部に空間を囲い込むために張り巡らされた表面そのものに視点を集中する。タタミ、板、竹のスノコなどの床面、襖、障子、板などの引き戸、砂塗り、漆喰などの壁面、竿縁、網代などの天井面、これらが柱、間柱、長押、窓枠、手摺などの線材で分割されている、それをカメラのフレームで切り取って、ひとつの「構成」面としてとりだした。まるでデ・スティールや構成主義の平面作品のようにみえた。モンドリアンの平面分割の方式が、そっくり建物の立面を構成していることが、ニューバウハウス経由のカメラワークによって、説得力をもって示された。この視点は、日本的構成美、と呼ばれながら、堀口捨己の「紫烟荘」(1926)、岸田日出刀の『過去の構成』(1929)以来、日本の古建築の表面の塗料が消え、白い面と黒い線に還元され、『古寺巡礼』ブームをひきおこしていたそのときの美的対象を、徹底したモダニズムの視点によりきりとったものであった。(『建築における「日本的なもの」』、磯崎新/著、新潮社)

別館で催されていた「柚木沙弥郎展」もあわせてまわり、ひと休みしようと4cups+dessertsのカフェBiscuitに寄ろうとしたら、なんと発狂せずにはいられない小町通りに移転していた。発狂しながら小町通りに向かい、アイスカフェラテとケーキにありつく。