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Monday, April 30

「散文」と呼べるほどの代物を拵えようとしているわけではなく、ただ毎日の記録をしるすだけであるにもかかわらず書きあぐねてしまう状況に多少なりとも希望を与えてくれるのは、先日代々木上原の古本屋ロスパペロテスで購入した『随想』(蓮實重彦/著、新潮社)の一節で、二〇〇九年時点の著者はつぎのように書きはじめる。

昨年の十二月三十一日水曜日、大晦日もかなりおしつまった時刻に、いつもなら机に向かわねばならぬ仕事を早めに切り上げ、風向きによって聞こえたり聞こえなかったりする除夜の鐘に耳を傾けているはずなのに、まだ整頓されてさえいない机の上に何冊もの書物を雑然と拡げたまま、あれこれの資料に目を通しつつパソコンのモニター画面に文字を打ち込んだり消去したり、コピーやペーストをくり返してばかりいた。

大晦日の晩にコピペをくり返していたその人が「73年の世代」と名づけた映画監督のひとりにテオ・アンゲロプロスがいるけれど、彼の追悼企画が北千住の東京芸術センターで催されているとの情報を仕入れ、渋谷蔦屋で検索してもビデオテーブすら在庫として所有されていない作品については劇場に駆けつけて観ておかなければならぬ義務を感じるにいたって、指折り数えることのできる程度の観客とともに『狩人』(1977年、ギリシャ/フランス/ドイツ)を鑑賞し、祝日の三時間弱を捧げた。

映画館までの移動の往復に携えていたのは『ことばの食卓』(武田百合子/著、野中ユリ/画、ちくま文庫)。文庫解説を担当している種村季弘は武田百合子の文章に死の臭いを感じとっており、「この本は、一方ではちょっとコワイ。冒頭の亡夫と枇杷を食べた思い出から、牛乳を飲んで吐いた子どもの頃にさかのぼってゆくにつれて、拒食や病気や老化の記憶がうようよ増殖し、そこらにうっすらと死臭がただよいはじめる」としるす。ページをめくるたびに野中ユリの挿絵がまた不穏な雰囲気を加速させることを感じ入りながら読了。

夜、ベーコンと小松菜とパプリカを和えた蛤のパスタ、白ワイン。

Tuesday, May 1

全三冊にもおよぶ分厚い小説『人生と運命』(ワシーリー・グロスマン/著、斎藤紘一/訳、みすず書房)をようやくのこと読み終え多少の感慨とともに訳者あとがきに目をとおしていたところ、あとがきの先に「本書を理解するための『正義の事業のために』梗概」と小見出しのついたつぎのような記述があらわれた。

『人生と運命』はスターリングラードの戦いをめぐる二部作の後編として書かれた。そのため、前編である『正義の事業のために』に詳述されている登場人物の生い立ちや相互関係等が十分に説明されていないことから、読むに当たって分かりづらい面がある。そこで、主要登場人物の人間関係を中心にポイントとなる点をここにまとめておくこととする。

最初に言ってよ。

夜、白米、もやしと葱の味噌汁、塩辛、焼き魚、大根おろし、ビール。

Wednesday, May 2

「山本太郎」という固有名詞で想起するのは反原発活動に熱心な芸能関係者よりも『感染症と文明』(岩波新書)などを執筆している長崎大学の教授のほうなのだが、氏が世界銀行の新総裁に選出されたジム・ヨン・キム(および仲間の医師で人類学者のポール・ファーマー)について書いたエッセイを収めている『みすず』五月号(みすず書房)を読んでいた。

ロスパペロテスに立ち寄った際に新刊として置いてあり思わず買ってしまった『二階堂和美 しゃべったり 書いたり』(二階堂和美/著、屋上)は、試しに図書館にリクエストしてみたところ購入を拒否された。限られた予算であろうから何でもかんでも図書館に買ってもらうのは当然気が引け(もっとも出版業界が文句を言うことなどありえない量の書籍をこれまで購入してきたと思っているが)、買ってくれないなら買ってくれないでしかたがないとは思う。けれども公立図書館の書籍購入の基準というものがいまひとつ不明瞭で、なるほど日本図書コードが付与されているとはいえほとんど無名の出版社で一部の書店にしか並んでいない本書が購入にいたらないのはさておくとしても、本日帰宅途中の電車内で見かけた背表紙に図書館のシールの貼ってある書籍を手にしていた人が読んでいたのは『FXで月100万円儲ける私の方法』で、そういう本を買う余裕はあるのか……と思ってしまったことを告白しておく。

夜、醤油ラーメン、ビール。

Thursday, May 3

雨が強く降っている連休の初日。時折窓の外の様子に目をやりながら、読書に勤しむ。

窓から入る自然光に目が慣れると、ところどころに置かれている、いろいろな物たちが目に入ってくる。キノコのようなかたちをした標本、動物の剥製、野外用観測器具……昔の小学校の理科室を思わせる。その静かな部屋で、わたしたちは構造主義から日本とヨーロッパの自然について、現代の贈与について、さらに世界が抱える人口問題についてさまざまな質問に答える教授の話に耳を傾けた。ゆっくりした口ぶりだが、どんな話題についても、鋭い答えが返ってくる。
(中略)
録音したテープを起こしてみると、すべての発言がほぼ印刷原稿になるほど完全であることに、あらためて感嘆した。それは「クロード・レヴィ=ストロース」という名の、おおきな知性の森を歩くようなもので、そこではルネサンス絵画の秘密も神経科学の知見も、小路に咲く花のひとつのように、そっと差し出されてくるのだった。

と綴られる『レヴィ=ストロースの庭』(港千尋/著、NTT出版)を再読していたら人類学者の声に耳を傾けたくなって、レヴィ=ストロースの日本での講演集『構造・神話・労働』(大橋保夫/編、三好郁朗・松本カヨ子・大橋寿美子/訳、みすず書房)に目を落とす。

赤ワインとサラミとともにオタール・イオセリアーニ監督の『歌うつぐみがおりました』(1970年、グルジア)を鑑賞。

赤ワインとチーズとともにジャック・ドニオル・ヴァルクローズ監督の『唇によだれ』(1959年、フランス)を鑑賞

夜、部屋からほとんど出ていないのであまりお腹がへらず、牛肉と玉葱とセロリと小松菜の炒めもの、胡瓜とパプリカのピクルス、ミニトマト、塩辛、とおかず三昧。ビール。

Friday, May 4

開館と同時に訪れた東京都写真美術館には過去の号をどっさり最新号で挟み込んだかたちで「ニャイズ」が置かれてあり、在庫一斉処分かと勘ぐりたくなる様相であったが、もっていなかった過去の「ニャイズ」も一気に手に入るのでよしとしようと気をとりなおして確認してみたならば、過去のものすべてがあるわけではなく、号がとびとびで挟まっていた。いよいよ在庫一斉処分の疑いが濃厚となる。「生誕100年記念写真展 ロベール・ドアノー」と「幻のモダニスト 写真家堀野正雄の世界」を鑑賞。ある程度予想していたことではあったがドアノー展の図録をひらけば執筆者のひとりに堀江敏幸の名前が。Rue Favartで昼食をとってからリムアートに移動して「Nerhol/Misunderstanding Focus」を観たり、LIBRAIRIE6/シス書店で十一人の作家による動物作品を紹介した「動物相」をのぞいて、『ことばの食卓』につづき野中ユリの絵画に邂逅したり。ナディッフで佐内正史「ラレー」を観たあと物欲に負けて畠山直哉と野口里佳の写真集を購入したところで、建物の外を眺めれば雨が降っている。渋谷に向かって、寺山修司の命日なので入場無料だったポスターハリスギャラリーで「寺山修司と天井棧敷◎ポスター展」。雨がなかなか止んでくれないまま表参道に移動し、はらロールで休憩。ロールケーキとりんごジュース。表参道ヒルズのスペースオーで「清川あさみ/美女採集」をやっているというので観に行ったら、溢れんばかりの人の数で、こりゃだめだとさっさと退散。だんだん晴れ間の見えてきた表参道を闊歩し、スパイラルで「平出隆/FOOTNOTE PHOTOS」。二階へとつづくスロープの壁面にならんだ写真作品をテキスト(『葉書でドナルド・エヴァンズに』)を参照しながら鑑賞するというスタイル。スロープをのぼり終えた先のスパイラルマーケットで『葉書でドナルド・エヴァンズに』と『カフカの泣いたホテル』を買う。それにしてもどうしてスパイラルはあんなにも平出隆を大プッシュしているのだろう。

Saturday, May 5

立夏の暦にふさわしい陽気のなかフリーマーケットに出店側として参加する。「ニャイズ」に負けず劣らず在庫一斉処分のスタンス全開のため、本や雑誌やCDを五〇円だとか一〇〇円だとか破壊的な値つけで売るものの、『装苑』(文化出版局)がなかなか掃けないのはどうしたことか。蜷川実花が表紙の撮影をしている二〇〇四年のものとかそれなりに資料的価値はあるのではないかと思うのだが――思うのなら売るなという正論もあるけれど――まったく売れない。もっとも利益を得ることを目的としていないので、近くのカフェで食べたランチ代であるとか途中で飲んだビール代であっさり赤字になるわけだが。ところで「買う側」としてこのたび大いに得した感があったのはル・コルビュジェのDVD-BOXをたった五〇〇円で入手したことで、「ビデオでは一〇万円近くした作品がDVDでは安価でリリース」というのは売りに出した『装苑』二〇〇六年十二月号に記載されている情報だけれど、「安価」といってもパッケージの裏を観察すれば一万五〇〇〇円弱の値段が書いてあり、アマゾンで調べてみても中古で最低一万八〇〇〇円の値段がつけられている。それが五〇〇円。暴落にもほどがある。

昼、WIRED CAFEでハンバーグを頬張りながら、蓮實重彦が予告しつづけている『ボヴァリー夫人論』は果たして上梓されるのか否かというあまりカフェ的でない会話をする。

夜、白米、葱の味噌汁、いさきとかんぱちの刺身、南瓜蒸し、烏賊の塩辛、ビール。

Sunday, May 6

『新潮』四月号(新潮社)を図書館から借りだしたのは柴崎友香「わたしがいなかった街で」を読みたかったので。「死」のイメージがべっとりと付着した物語に入り込みながら、柴崎友香の小説の「怖さ」を強調するのはもちろん道理にかなった振る舞いであるだろうけれど、彼女の飄々とした文体でのおかしみに満ちた文章もまた健在で、むしろそのあたりを掬いとって引用したくなる。

山形産さくらんぼはおいしかったが、期待に反して一人あたり四粒しかなかった。

ロンドンにいたときの中井の話のなかでは、歯が痛くなって寝込むほど悪化してほんとうに死ぬのではないかと思って家にいるのが怖くなり外に出て通りで最初に見かけた日本人らしき人に声を掛けたら、なすびを真っ黒になるまで焼いてその粉で磨いたら治る、と教えてもらって藁にもすがる思いでなすびを大量に買ってきて黒焦げにしてその粉をなすりつけていたら痛みは治まったが教えてくれた女の人には二度と会えなかったので家で一人で泣いて感謝して、しばらくしてからスシレストランのアルバイト代が入ったので歯医者に行ったらブラジル人がもぐりでやっていて痛くて死にそうになったけどいちおうちゃんと治療してもらった、という人のやさしさを実感できるともて素晴らしいできごとがわたしは好きだ。

ドアを開けると立っていた女は、声は前にスコープから見た印象より随分若かったが、しばらく見ているうちに自分より年上にも思えてきた。前髪をきっちり揃えたショートボブという、自分のことをかわいいと思っている女しかやらない髪型だった。今日もタンクトップにショートパンツ。

ところで、「わたしがいなかった街で」には

バスに乗って馬事公苑へ行って八重桜と馬を見て、近くのファミリーレストランでハンバーグを食べてそれぞれの家に帰った。

というくだりがあるのだが、ちょうど一昨日手に入れた『IID PAPER』という世田谷ものづくり学校のフリーペーパーに柴崎友香が馬事公苑についてふれていて、

友だちの家がすぐ近くにあって、東京に遊びに来始めた十年ほど前からしょっちゅう行ってます。真夏の猛暑日に、世田谷通りから公園に続く立派な欅並木で、日陰の涼しさに感動し、樹木に興味を持ち始めたきっかけの一つとなりました。

とあるので、リオープンした世田谷美術館に立ち寄るついでに馬を眺めに行ってみよう。

清澄白河のhane-cafeでタコライスとケーキとコーヒーの昼食ののち、「しまぶっく」と「eastend TOKYOBOOKS」とふたつの本屋をひやかして、東京都現代美術館で「田中敦子 アート・オブ・コネクティング」と「靉嘔 ふたたび虹のかなたに」を鑑賞。帰りに木場公園を散歩。空模様が暗雲立ちこめてiPhoneで東京アメッシュを逐一確認しながら家路につく。

夜、中村屋のビーフハヤシとカマンベールチーズ、赤ワイン。