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Monday, March 12

『デフレ下の金融・財政・為替政策 中央銀行に出来ることは何か』(湯本雅士/著、岩波書店)を読む。日本の経済論戦において日本銀行は日本銀行のできる範囲においての施策はもう十分やっている派とまだまだ不十分派の対立があるが、本書のポジションは前者。

夕食は蛤とほうれん草のパスタ、パプリカと胡瓜のピクルス、赤ワイン。夜、『ブレードランナー』(リドリー・スコット監督、1982年、アメリカ)を鑑賞。ずいぶん前にハードディスクに録画しておいたもので、合計で五つもある『ブレードランナー』のバージョンちがいのどれにあたるかの情報が乏しく、はたしてこれがリサーチ試写版なのか初期劇場公開版なのかインターナショナル版なのかディレクターズ・カット版なのかファイナル・カット版なのか判然とせず、私はスコラ的な編集の異同に関心をもつほどには『ブレードランナー』を愛していないこともあり、どのバージョンであろうとよいと言えばよいのだが、けれども、主人公を演じるハリソン・フォードの「ヴォイスオーヴァ」が削除されてしまっているか否かで簡単な判別は可能で、かつて読んだ『『ブレードランナー』論序説 映画学特別講義』(加藤幹郎/著、筑摩書房)にはリドリー・スコットの編集で「ヴォイスオーヴァ」を削除したことへの批判が述べられて、

観客にノワールな心情と暗澹たる世界観をいだかせないという点で、またけっして短くないフィルム・ノワールの伝統から離反するという点で、得るところよりも失うところが大きいヴァージョンである。
(中略)
これは監督がかならずしもプロデューサーよりも賢明な選択をするわけではないということの歴史的証左ともなるものであろうし、事実リドリー・スコット監督は、その後二十年間、残念ながら『ブレードランナー』を超える映画をただの一本も撮りえないままである。

ということらしいのだが、私が本日観ている『ブレードランナー』には「ヴォイスオーヴァ」がしっかり残っていたので、これはたぶんプロデューサーの編集したバージョンであろう。

Tuesday, March 13

深遠な哲学的思弁とも人びとを鼓舞するアジテーションとも読めるシモーヌ・ヴェイユの言葉。『シモーヌ・ヴェイユ選集 1 初期論集:哲学修業』(冨原眞弓/訳、みすず書房)を読む。

思考は、もろもろの客体に対立するためでさえ、自身ならざるなにかをよんどころなく必要とする。思考とは、ひとたび創造されたからといって存在するたぐいの客体ではない。思考はその活動なくしては実存しえない。思考には敵対的な項がなければならない。経験を展開させぬような認識など存在しないのだ。(「所与と構築物」)。

夕餉は、葱とほうれん草、コーンとハムをのせた醤油ラーメン、麦酒。 夜、『犬猫』(井口奈己監督、2004年、日本)を観る。監督の名前の字面だけはしばしば目にしてきたけれど、詳しいことはよく知らないまま観たら素晴らしくよくできている映画で吃驚。山田宏一や蓮實重彦が褒めていたらしいことをあとで知る。どうやら私は映画に関してはこのふたりの範疇から逃れることはできないらしい。

Wednesday, March 14

『コルトレーン ジャズの殉教者』(藤岡靖洋/著、岩波新書)を読む。

年々長くなっていくコルトレーンのソロだが、この頃は自分でも抑制が効かないぐらい次々とアイデアが湧いてきた。長くなる一方のソロ演奏をめぐって、マイルズと交わされた有名なやりとりがある。
コルトレーン「でも、どうやって(演奏を)止めたらいいのか、わからないんだ」
マイルズ「サックスを口から離せばいいだけだ!」

Thursday, March 15

『ピース・オブ・ケーキとトゥワイス・トールド・テールズ』(金井美恵子/著、新潮社)を読む。途中まで。YouTubeにアップされているジュンク堂でおこなわれた金井美恵子と朝吹真理子の対談で、金井美恵子のきびきびした挙動に目が釘づけになる。夜、白米、しらす、中華風スープ、パプリカと胡瓜のピクルス、ミニトマトとレタス、葱と生姜で茹でたハム、麦酒。

Friday, March 16

『ピース・オブ・ケーキとトゥワイス・トールド・テールズ』(金井美恵子/著、新潮社)のつづき。吉本隆明の訃報を知り、そういえばもっていたはずの『共同幻想論』を本棚でさがしていたら

ぼくにとって吉本さんは天皇みたいな人で、ある種の哀れみと自分でも承服しがたい敬意とを持って近付いていったってところはある。だから馬鹿にはしませんでしたよ。

と蓮實重彦が語る『近代日本の批評』を読んでしまう。 哀れみと敬意。夕食はイエローカレーとコロナビール。

Saturday, March 17

出掛けるか否か前日の夜まで逡巡しつつ早朝窓越しに外を見やればしとしとと雨粒が落ちており、ラジオから流れる天気予報は終日雨模様と伝えるものだからきょうは家にひきこもって積読本の片付けに精をだすかと、さしあたり午前中に手をとったのは『アーキテクチャの生態系 情報環境はいかに設計されてきたか』(濱野智史/著、NTT出版)。二〇〇八年に刊行された本をいまごろになって読むというのはいかがなものかという気もするけれど、数年経過ののちに読むことで気づかされることもあって、著者はあとがきでみずからを「ネットオタク」と自称しており、実際インターネット界隈の動向にきわめてあかるく、この本で呈示される「アーキテクチャ」という概念を基にしてウェブの現在を俯瞰する論考は示唆に富むものであったけれど、しかしながらネットについてよく知っている人であっても、情報環境の「将来」を予測するのはむずかしいことだなあとわかるのは、たとえば

はたしてフェイスブックは日本上陸に成功するのでしょうか?
筆者の回答は、九九パーセント以上の確信度で「否」というものですが、その理由はきわめてシンプルです。なぜなら、すでに日本では、ミクシィが確固たるポジションを築いているからです。(p.149)

であるとか、あるいは

ツイッターの日本のユーザー数は、二〇〇八年現在、十数万程度だといわれています。この数字は、ツイッターがもともと英語圏のサービスであったことを考えれば、きわめて大きいともいえますが、日本ではこれ以上の成長はあまり望めないのではないかと筆者は考えています。
その理由は簡単です。なぜなら、日本のネットユーザー(特にモバイルユーザー)の多くは、すでにツイッターが登場する以前から、「選択同期」的なコミュニケーションにいそしんでいるからに他なりません。(pp.207-208)

といった記述があって、おそらく現在であればちがった書き方になったであろう。情報社会論の目的はウェブに登場したあるサービスが成功するか否かを予想することではないのだから、予想が外れたからといってどうということもないのだが、学問領域によってはしばしば本題からずれる「予想」を論者がおこなってしまう場合があったりして(たとえば経済学者が数年後の経済動向を「予想」したり)、しかもその予想が外れたりするとその学問領域の信用問題に発展するといういささか困った事態になったりもする。というよりそもそもこの本の最終章は、「ウェブの未来予測はできない」と掲げてはじまるのだが。

夕方から夜半にかけて『身体のいいなり』(内澤旬子/著、朝日新聞出版)と『ジェイコブズ対モーゼス ニューヨーク都市計画をめぐる闘い』(アンソニー・フリント/著、渡邉泰彦/訳、鹿島出版会)を読む。

Sunday, March 18

『ジェイコブズ対モーゼス ニューヨーク都市計画をめぐる闘い』のつづきを読みながら上野に移動し、上野の森美術館で「VOCA展2012 新しい平面の作家たち」を鑑賞。帰りがけに買いもの。花屋でパーティーラナンキュラ。夕餉、柚子風味の大根おろしと万能葱、海苔をのせた温かいうどん、胡瓜と味噌、麦酒。『東京暗黒街・竹の家』(サミュエル・フラー監督、1955年、アメリカ)を鑑賞。でてくる日本人たちの喋る日本語が英語より下手に聞こえるのはどういうことだろう。