記録と表現 見えるもの以上を物語る

「今年から展覧会や個展の感想を対談のかたちでまとめておくことにします。昨年、美術館やギャラリーをたくさんまわって、折角なので12ヶ月分を順を追って感想を言い合おうと考えたんだけど」

「最初、そういう企画にしたいと言ってましたよね?」

「鑑賞直後はいろんなことを考えたはずなんだけど、月日が経つときれいさっぱり忘れてる。たとえば昨年の1月に国立新美術館で「未来を担う美術家たち DOMANI・明日展」に行ったでしょ。町田久美の作品を目当てに行ったのはいいけど、町田久美以外の展示をまったく憶えてない」

「忘れすぎですよ。一応それなりに記憶がありますよ、わたしは。憶えてるなかでは神戸智行という日本画家が素晴らしかったですね。壁や床に金魚やおたまじゃくしが描画されて、床には紙でつくられた桜の花びらも散らされて。情緒あふれる作品でした。あと近藤聡乃のアニメーションもキュートかつシュールで、3回もくり返し観てしまいましたよ。憶えてない?」

「うーん……。という状態の反省を踏まえて、美術展に行ったら即テープレコーダーで会話を録音です」

「メモをとればいいだけのような気も……。ま、ともかくやってみましょう」

「というわけで第1回目は正月2日目の東京都写真美術館(以下、写美)です。「ストリートライフ ヨーロッパを見つめた7人の写真家たち」と「日本の新進作家展vol.10 写真の飛躍」をまわって、途中でお腹がすいてお好み焼き屋に来ちゃったので、3つ目の「映像をめぐる冒険vol.4 見えない世界のみつめ方」をまだ観てないんだけど、とりあえず2つの展示について喋りましょうか。展示の話の前に、まず正月の写美ってコネタがけっこうあって。町内会の案内みたいな手作り感たっぷりのペーパー [1]とか、これ絶対わざとやってると思うけど」

「あとこれもすごいですよ、受付に置いてある「nya-eyes」っていうマンガ [2]。ネコのキャラクターが写美の紹介をするんですけど、今回の展覧会を紹介しているコマが……」

「路上のポリバケツのなかをがさごそ漁ってるネコの絵。で、キャプションが「ストリートライフ」」

「「ストリートライフ」の意味がちがいますよ。これ、誰が書いてるの? おもしろすぎる」

「講談社の『モーニング』と連繋しているらしくて、作者はカレー沢薫ってあるけど」

「あと、お正月の写美って雅楽の演奏をロビーでやるんですよね」

「ぱおーん」

「ナディッフでは福袋売ってるし、カフェではベルギービール飲めるし。あ、ベルギービールはふだんも飲めるけど、お正月は冬季限定、ベルギー直輸入の「サンフーヤン ノエル」という生ビールが飲めるんです! ネタに困らないですね、お正月の写美は」

「しかも展示はタダだし」

「じゃあそろそろ「ストリートライフ」の感想にいきましょう。19世紀後半から20世紀初めにかけてのヨーロッパの写真家たちを特集した展示でしたね」

「ひとことでまとめちゃうと「記録と表現」ってことかなと」

「同感です。出品作家を挙げると、ジョン・トムソン(イギリス)、トーマス・アナン(イギリス)、ビル・ブラント(イギリス)、ウジェーヌ・アジェ(フランス)、ブラッサイ(フランス)、ハインリッヒ・ツィレ(ドイツ)、アウグスト・ザンダー(ドイツ)。いままで知らなかった写真家がけっこういて、知ってるのはアジェとブラッサイ、ザンダーだけでした。あとは知らなかったです。有名な人たちなんでしょうか」

「うーん、好事家のあいだだけで知られている人たちかもしれません。ジョン・トムソンとかトーマス・アナンとかの写真は「記録」だよね。当時のイギリスの都市風景を焼き付けてるっていう。解説のパネルにあったけど、トーマス・アナンという人は再開発前のグラスゴーの建物や労働者を撮っていたらしい。再開発前の風景を記録しておくって、都市計画の一環としていまでもありそうな仕事ですね。一見「記録」の写真としてしか感じられないジョン・トムソンやトーマス・アナンは、本人たちがどれだけ「表現」を意識していたのかはわからないけど、今日的な視点で眺めれば「記録」としてのみならず「表現」としても扱えなくはないわけで。いろいろと折り込んで解読できる。ブラッサイあたりになってくると「表現」としての写真という印象が強くなるけど、でも同時にブラッサイにもパリという都市の「記録」の面もあると思うし」

「そうですね。記録の面と表現の面と」

「あと、この展覧会は「記録と表現」以外にも「印刷技術の紹介」もテーマとしてありますよね。でも、印刷技術についての丁寧な解説があったんだけど、こちらの知識不足でぜんぜんわからなくて」

「うん、さっぱりわかりませんでした!」

「メモしておいたけど、ウッドベリー・タイプ、フォト・グラビア印刷、ゼラチン・シルバー・プリント(これはわかるけど)、鶏卵紙とあって、手抜きなしの詳しい技術解説を読んだんだけど……」

「わたしたち写美に何度も通っているから、あのての説明は繰り返し読んでるはずなんですけどねー」

「繰り返し読んでもわからなくて、いつもふりだしにもどる」

「いつもわからないまま帰ってくる。印画紙の説明は、いくら読んでも毎回わかりません。銅版画も然り! エッチングやらメゾチントやらリトグラフやら……なんでこんなにわからないんでしょ! 木版画ならわかります、やったことあるから」

「だからやんないとわからないんだよ [3]

「そういうことですね。ところでこの7人の写真家のうち誰がいちばん好きですか? わたしはやっぱりブラッサイ! 女性の視点からいうと、ひたすら荷物を運んでいる女の人たちの後ろ姿を写したツィレの写真も興味深かったですけど。とことん被写体の顔を見せない写真。この人版画もやっていたらしい」

「好きなのはやっぱりザンダーですかね。一昨年の暮れにばかでかいザンダーの写真集を買ったくらいだし。ザンダーというと、ヴィム・ヴェンダースの映画『ベルリン・天使の詩』で、老詩人ホメロスがザンダーの写真集をめくる図書館のシーンを思い出しますね。短いシーンなんだけどすごく印象に残ってて。そういえば港千尋『書物の変 グーグルベルグの時代』でも『ベルリン・天使の詩』のあのシーンに触れていたと思う [4] 。あともちろんリチャード・パワーズの『舞踏会へ向かう三人の農夫』も思い出したり。ザンダーはむかしから好きな写真家だけど、でも今回いちばんおもしろかったのはアジェかな。今日観たアジェの写真って何でこんなもん撮ってんだっていう被写体ばっかりでしょ。ドアノブとか階段とか。さっき印刷技術の話を出したけど、いまだったらよくわかんない写真を撮る人はいっぱいいるけど、印刷の大変な時代に意図のよくわかんないものを延々撮ってると」

「堀江敏幸が訳したロベール・ドアノーの本でアジェについていろいろ書いてありましたけど [5]、再読しようかな。アジェの写真の意図はどのへんにあったのでしょう」

「意図はいちおうあって、パリの建築物や室内家具、それも19世紀的なパリを切り取ってるんですね。「記録」です。伊藤俊治が『20世紀写真史』でそのあたりの事情を書いてます [6]

「あとで確認しましょう」

「今回の展覧会って、前段として2004年のアメリカの写真家を特集した展覧会(「明日を夢見て~アメリカ社会を動かしたソーシャル・ドキュメンタリー」展)を踏まえてるんですよね。2004年って古すぎるよ、と思ったけど」

「でも、わたしはすごく懐かしかった! 憶えてますよ」

「憶えてる?」

「え? うん、まー、「行ったな」ってだけは……。アメリカの写真家たちは今回掲げられているヨーロッパの写真家を先達として、半ば師匠として、撮っていたわけですよね。2004年の展覧会カタログも、もう一度ちゃんと観なおしたいですね。ところで、むかしの展覧会の話つながりで、ブラッサイ展って観ました? 7年くらい前のことですけど」

「写美で? んー観たかな? あんまり記憶がないけど。やっぱりテレコが必要ですよ」

「テレコはともかく、とにかく今回の展覧会、観れてよかったです。“見えるもの以上のものを写し出してしまう写真とは何か?”というテーマがいいですし、会場冒頭にある「見えるもの以上のものを物語る」という言葉も印象的でした」

「では「日本の新進作家展vol.10 写真の飛躍」に移りましょうか。このなかで好きな写真ってありました?」

「うーん……ずば抜けて好きと言えるものはなかったかも。昨年の正月の写美ではポール・フスコに感動し、小畑雄嗣の写真も気に入って、どちらも写真集(『RFK』 と『二月 Wintertale』)を買っちゃいましたけど」

「昨年も無料だから写美に行ったのに、写真集買っちゃって余計に散財したという」

「今回、好きなのありました?」

「ピンホールの写真(佐野陽一)は結構好きですけど」

「わたしも強いて挙げるならピンホール写真です。ピンホールが好きということ?」

「特にそういうわけじゃないけど、野口里佳がピンホール写真で撮ったもの(『太陽』)があって。あれがよかったという印象が強いのかもしれない。あとじぶんの好みとは違うけど、コラージュで世界各地の地図つくってる人がいたでしょ(西野壮平)。あれ、観客の反応がおもしろかった。展覧会やギャラリーで写真を前にすると、イメージの問題というか、表象論的な問題として扱っちゃうところが個人的にはあって。今日は無料なのでお客さんがわんさか来てるけど、声に出しながら「ここはどこ?」とか「この建物は何だ?」とかみんな話していて、なんだか新鮮でした。high fashion online に載っていた畠山直哉のインタビューで、自身のある作品について「これはどこで撮ったのか?」と観客に訊かれた話にふれながら、畠山さんは他人の作品を観るときに「ここはどこだろう?」と頭をよぎることはあっても口に出したりはしないと語っていて [7]。写真と対峙した際のアプローチの仕方の違い。コラージュでパリを構成した作品があるけど、べつに写真家はただ単純にパリを描きたかったわけじゃないでしょ?」

「そう思います」

「コラージュそれ自体に意味があるわけで」

「わたしもおなじく目に留まったのが観ている人たちの反応で、一般的に写真を観るとやっぱり「ここってどこだろう?」とか「この写っているものはなんだろう?」とか思うよなーと。ふつう(「ふつう」って何だって話もありますが)の反応を久しぶりに聴いた気がして。ギャラリーとか行っちゃうとそういう反応する人はあんまりいないですよね。今回そういう光景をみて、この作品はコミュニケーション手段になっているというのは言いすぎかもしれないけど、結果的にそうした役目も負っているなと感じました。西野さんは、学生時代に歩いたお遍路道が写真を始めるきっかけになったそうですが、「歩のない将棋は負け将棋と言いますが、歩くという行為の中で気づかされる様々な発見を、私は生涯をかけて取り組んでいきたいと思います」と本人が書いています。「歩く」って、もちろんみんなでもできるけど、どちらかというと孤独な行為という側面が強いとわたしは思うのですが、その孤独な作業の産物が複数人で共有し得る作品になっているという、ちょっとパラドックスな要素もあるなと。写真家がどこまで予想してたのかはわかりませんが。ともかく観客の反応のおもしろさっていうのがありました」

「おなじ話を保坂和志が書いていて。保坂さんは意外にも「ふつう側」で、大竹昭子と対談したときに大竹さんがいろいろ写真を差し出したところ、保坂和志の反応が「この場所知ってる」とか「この人いいね」とかそんな反応ばっかりで大竹昭子が半ば呆れるという。何が写ってるかしか興味ないんですねって [8]

「保坂さん、ほんとに作家なんですかね(笑)。新進作家の展示を観ながら思ったのは、写真は単なる芸術的表現って時期はとっくにすぎちゃったってことですかね。それ以上の意味を付随してみんな作品を出してますし」

「新進作家のほうは、要は他人と違うことをやろうとしているわけでしょ。いろいろみんな試行錯誤して、自分なりの方法論を手探りで探そうとしているわけだけど、アウグスト・ザンダーとかさ、むかしの愚直なポートレイトのほうが圧倒的なパワーをもっている。これはなんだろうと思いますけどね。あれ、誰も勝てない」

「そうそうそう」

「あのストレートな肖像写真のほうが強い。「菓子作りの親方」とか「勤労学生たち」とか「中産階級の子供」とか「失業者」とかそんなタイトルをつけてる写真家が圧勝ですよ」

2012年1月2日 恵比寿ガーデンプレイスタワー38階「千房」にて ( 文責:capriciu )
  1. 写美のお正月 []
  2. ニァイズ []
  3. 『写真の秘密』(ロジェ・グルニエ/著、宮下志朗/訳、みすず書房)のなかでグルニエはナダールのつぎのような言葉をひいている。
    「写真の理論など、一時間で覚えられる。写真の基礎知識も、一日もあれば学ぶことができる。学ぶことができないのは、光の感覚であり、さまざまに組み合わされた光によって生み出される効果を、芸術的に判断することなのだ。またもっと習うのがむずかしいのは、対象を精神的に理解することであり、モデルと一体になるための機転や気働きなのである。そうしたものを学んではじめて、暗室の最低の奉仕者にも手が届くような、乱暴かつ行き当たりばったりに撮った、無頓着そのものの造形的な複製(ルプロデュクシオン)などではなく、もっとも親しみにあふれ、好意にみちた、親密なる似姿(ルサンブランス)が得られるのである。」 
    印刷技術の説明文で四苦八苦しているわれわれは一体何なのか。 []
  4. 『書物の変 グーグルベルグの時代』(港千尋/著、せりか書房)
    あの美しいモノクロームのトーンが描いたベルリンは、いまや失われつつあるわけだが、一箇所だけ映画のなかの雰囲気がそのまま残っている場所がある。市立図書館の閲覧室である。
    わたしはこの図書館の高い天井とライトが好きで、最初にこの映画を見たとき、なぜふたりの天使がそこに佇みながら、人々が開く本を覗いているのかがよく分かるような気がした。背広を着た老ホメロスが分厚い写真集をめくっているシーンを、なぜかはっきりと覚えている。彼が熱心に見ているのはアウグスト・ザンダーの写真集『二〇世紀の人間』である。第一次大戦と第二次大戦のあいだにザンダーは、生まれ故郷の土地を中心に、農民から銀行家や芸術家さらに乞食まで、社会のさまざまな階層のドイツ人のポートレートを記録し、写真史上に残る傑作を残した。老詩人は震える手つきで、この写真集をなぜか後ろから眺めてゆく。廃墟のなかへ後ずさりしながら入ってゆくように、ホメロスは写真のなかの人々へその手を伸ばしながら、別れを惜しんでいるようにも見えた。(pp.78-79) []
  5. 『不完全なレンズで 回想と肖像』(ロベール・ドアノー/著、堀江敏幸/訳、月曜社)
    創造者である以上に、観察者であること。鍵はここにある。資料をかき集めるだけで満足しているなどと、アジェの界隈に難癖をつける者もいる。しかし現実には、マニエリスムなど微塵もないこれらの資料のおかげで、写真の特質のひとつが最も重要なものとして浮かびあがってきたのだった。つまり、アジェの写真には、時間をものともしない、一種の素朴さがあるのだ。(p.25) []
  6. 『20世紀写真史』(伊藤俊治/著、筑摩書房、ちくま学芸文庫)
    ある意味アジェの眼は “十九世紀の首都” であるパリという都市が生きながらえている時空にのみ感応したといっていい。変動してゆく時代環境のなかで古い建築物や界隈をそれがかつて生き生きと機能していた時のようにとらえ、その蘇生の瞬間を定着させた。彼の関心は、建築や素材が生まれてくる文化そのものの総体にあった。アジェは建築や素材をそれらが生まれてきた地層へ帰ってゆけるように撮る。彼のパリは鉄やガラスやプラスチックではなく、石や木や砂から人間の手によってつくりだされている。
    それゆえ、二十世紀において記録されながら、アジェの写真には二十世紀的なパリの現象や建築はいっさいとらえられていない。地下鉄や自動車は含まれていないし、工場やビルも見えず、エッフェル塔やオペラ座といった十九世紀後半につくられた新しい建築物さえ写されてはいない。そして一九一〇年代、一九二〇年代と時代の変容が加速度的に激しくなるにつれて逆にアジェはパリという時空をさかのぼろうとした。(pp.28-30) []
  7. 畠山直哉インタビュー「ナチュラルストーリーズ」について。
    最近よく使ってる言葉としては「見えない言葉」というのがあるんです。例えば今日も学芸員の方に聞いたんですけど、お客さんが月の写真(《タイトルなし/月》)を見て、サンシャインからの眺めというのはわかるらしいんですが、どの方角を撮ったものなのか教えてほしいと訊かれたりするらしいんですね。それから「テリル」のシリーズでは、「頂上に人が立っていますけどあれは友だちですか?」とか、「ヘリコプターから撮ったのか、向かいの山から撮ったのか?」とか、そういう質問もあるらしい。僕は誰かの写真を見て、そういう質問を頭に浮かべることはあっても、人に尋ねることってないんですよ。つまりキャプションがない=説明がないというのは、これは作家がそうしてるんだからそのまま額面通りに受けとるべきだと思っています。分らないなら分らないままでいいと作家は思ってるんだろうな、と僕なら思うわけです。でも観客によっては、何をどこからどう撮ったのか、どうしても知りたいと思う。知ってどうなるか分らないですね。ただ落ちつくんです、心が。おそらく答えはAでもBでもいいはずです。そういうふうに、心を落ちつけるために僕たちはいつも言葉が必要なんですよ。
    畠山直哉インタビュー「ナチュラルストーリーズ」について。 []
  8. 保坂和志「小説をめぐって(33)」『新潮』2007年9月号
    写真の評論の仕事が多い大竹昭子さんと対談したときのこと。彼女が次から次へと私に写真を見せ、私の写真の見方がどういうものか探っていった。私はほとんどの写真にはかばかしい反応をしなかったのだが、あるとき、
    「あ、江の電が写ってる。これ鎌倉高校前っていう駅のところですよ。このモデルの子、好きだな。」
    と言ったら、大竹さんが、
    「ホントに何が写ってるかしか興味ないんですね。」
    と、なかばあきれながら笑った。
    知的であるとは、何が描いてあるか(写っているか)でなくそれを含めた全体を問うことなのだ(ということは、何が起きたかしか問題にしない批評はどうなる?)。
    小説をめぐって(33) []