過剰にクール

幼児がこちらを見つめている。東京オペラシティアートギャラリーで開かれているホンマタカシの展覧会(「ニュー・ドキュメンタリー」)は、「Tokyo and My Daughter」と題されたシリーズで幕を開ける。乗用車の座席に身をのせた小さき人のまなざしが印象的な写真。展覧会の冒頭に掲げられたこの幼児の写真を前にして、直感的に思い出したのはエリオット・アーウィットのある作品だった。マグナム・フォトを代表する写真家もまた、おなじようにこちらを見つめる乗用車に乗った幼児の写真を残している。ホンマタカシとエリオット・アーウィットの写真、ふたつの写真は似ている。だが同時に、ふたつの写真はまったく似ていない。カラーと白黒の違い、幼児の性別、幼児のいる座席の位置、幼児の手の場所、窓ガラスの開閉、カメラと被写体の距離、あまつさえ構図さえもふたつの写真は無視できないレベルで違っている。似ている、そして、似ていない。幼児のまなざしというもっともインパクトのあるエッセンスだけに着目すれば、ふたつの写真は似ている。反対に「神は細部に宿る」とばかりに写真の細かな点に目を向けていけば、ふたつの写真はまったく似ていない。

写真家ホンマタカシが撮影にあたって、このような類似と相違にどれだけ意識的であったかは知る由もない。イメージの喚起力という写真のもつ特性がエリオット・アーウィットのモノクロ写真を呼び寄せてしまったともいえるが、一方で、こうした過去の意匠との比較ないしは連想を誘発するのは、「ホンマタカシの写真だから」というのも理由のひとつとして見逃せない。彼の著書『たのしい写真』や雑誌『Coyote』での特集を参照すればわかるとおり、ホンマタカシという写真家は、誰かべつの写真家によってなされた方法論を意欲的に踏まえ、咀嚼しながら、みずからの作品を世に送りだしている。写真の歴史を遡行しながら、方法論を強く意識しながら作品制作にのぞむスタンスは、「現代美術的」とでも評せるだろうものだが、実際、ホンマタカシは「コンテンポラリーアート」をつむぐ一員として紹介されている(シャーロット・コットン『現代写真論 — コンテンポラリーアートとしての写真のゆくえ』)。

今回の展覧会で印象的なのは、写真のもつ記録としての機能の自明性を揺るがし、写真の真実性(われわれが一般に「ドキュメンタリー」という言葉から想起するもの)を攪乱させ解体するという現代美術的な試みをみせつつも、会場全体にただよう空気はホンマタカシという写真家の「つかみどころのなさ」が覆っていることだろう。もともとホンマタカシは『i-D』にはじまり『CUTiE』や『流行通信』や『relax』といったファッション誌やカルチャー誌などの媒体を主な活動の場としてきた。そうした商業媒体においては、例外はあるにせよ、読み手側は掲載されている写真を現代美術として受けとったりはしない。もっと気軽なものとしてあつかう。ファッション誌やカルチャー誌に載っている写真の方法論を探究する人などまずいないだろう。ホンマタカシに「難解な」現代美術は似つかわしくない。展覧会にあわせて『美術手帳』ではホンマタカシの特集を組んでいるが、林央子が展覧会のドキュメントを執筆し、ソニア・パークがエッセイを寄稿している。このような人選は通常の現代美術の領域では考えにくい。しかしホンマタカシであれば、この人選も自然に思える。

ホンマタカシの写真を評するにあたって「クール」という語彙がしばしば使われるが、コンテンポラリーアートというややもすると思弁や韜晦にみちた場所から解き放つタームとして、「クール」は使い勝手よく機能しているように思える。「クール」と形容することでホンマタカシの写真を見るときに何かが明晰になる気がしてしまうから。単なる雑誌掲載の写真という範疇を超えつつも、美術ほどの堅苦しさをまとわない立ち位置として、ホンマタカシは「クール」という言葉に収斂されてゆく。しかしながら、ホンマタカシが今回の展覧会でおこなったのは、きわめて現代美術的な態度であった。写真家は積極的にさまざまな方法論を混入させている。過剰なほど写真に意味が絡まりついてゆく。それもホンマタカシの作風は依然として残したままで。過剰にクール。ホンマタカシという写真家をつかみどころのないものにしているのは、可能なかぎり装飾を省きながらも多層的な意味づけを厭わない点にあるかもしれない。現代アートにおいて、省略の技法は過剰な意味づけを施すことと矛盾しない。「ニュー・ドキュメンタリー」展の会場を贅沢に使った空間は、写真家の過剰にクールな演出で充満していた。