ヌードという服を着る

「女性のヌードが撮りたい」。『ヴォーグ』『エル』『マリクレール』などのファッション雑誌や広告媒体で活躍してきたフランスの女性写真家ベッティナ・ランスは、ローライフレックスの二眼レフカメラで写真をはじめたばかりの頃、そう語ったという。被写体として女性ばかりを選んできた写真家の作品にふれる機会を、東京都写真美術館とシャネル・ネクサス・ホールで得た。

彼女の撮る写真のまえに立つと、写真の歴史における女性のヌードという問題に意識がむかう。写真がその黎明期において絵画の存在を強く意識していた(絵画もまた写真の存在を意識した)ことを考慮すれば当然のことではあるが、女性のヌードをカメラに収めようとする歴史は古く、19世紀中葉あたりにまでさかのぼることができる。写真技法が発明された初期の段階で、女性の裸体が被写体として選択されている。ダゲレオタイプで撮影された女性のヌード写真が現存していることからわかるとおり、ヌード写真の歴史はそのまま写真の歴史だと言いかえることすらできそうな蓄積がある。

ヌードはたんなる肌の露出という表層的な意味合い以上のものを含有しているわけだが、イメージにおける裸体の扱いがいかに時代に拘束されているかは、たとえばジョン・バージャーが女性のヌードにむけられる眼差しをめぐってつぎのように書いていることからもあきらかだろう。

平均的な西洋の裸体画では、主役は決して描かれない。主役は絵の前にいる鑑賞者であり、男であると想定される。すべてが彼に向けられ、すべてが彼のためにあらわれるのでなくてはいけない。女がヌードになったのは彼のためである。しかし彼は明らかに見知らぬ他人であり、服を着たままだ。(『イメージ Ways of Seeing — 視覚とメディア』)

さらにバージャーはドミニク・アングルの「グランド・オダリスク」と現代の男性雑誌のなかのピンナップのモデルをならべて、彼女たちの表情の相似を指摘しながら「彼女は見られる者としての女らしさを見る者に捧げている」と論じている。視覚表現において男性性を軸に据えた眼差しは現代においても強固に残存していることを考えれば、眼差しをめぐるジェンダーの問題群は写真機が発明されてから現在に至るまであまり変わっていないと言えるかもしれない。

けれども一方で、写真史においては、1970年代あたりから「女が女の裸を撮る」という新たな地平が開拓された光景を忘れるわけにはいかないだろう。「ヌード」という様式はおなじであったとしても、撮影者の構想や方法論は時代の移り変わりによっておおきく変貌しているのはまちがいない。同時期に活発化していたフェミニズムの潮流が後ろ盾となっていたのは論を俟たないが、女が撮る女のヌードが男が撮るそれとどのように異なるかを意識した表現行為が前景化してくる。こうした状況について伊藤俊治は「同性という関係の中で撮影者と被写体がごく自然にふるまえ、見ることと見られることが不思議な相互性を持つということ」(『20世紀写真史』)を指摘している。

ベッティナ・ランスの写真は「見ることと見られることが不思議な相互性を持つということ」がきわめて幸福な蜜月のなかで成立しているように思える。撮るもの/撮られるものという関係性のなかでポルノグラフィックな要素は稀薄でありながら官能性を失っていない。彼女の撮る写真が犀利なのは、モデルたちに紋切型のポーズを要求せず、きわめて厳密な計算のなされたコンセプチュアルな側面をもちつつも、「ファッショナブルであること」を失っていないことだろう。一般の商業的なファッション写真という枠組を脱臼させながら、同時にすぐれたファッション写真としても成立している。「ヌード」という優美な衣装を身にまとった女性たちがそこにいる。