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Sunday, January 1

元旦。午前5時起床。夜明け前のコンビニで日本経済新聞を買う。珈琲を飲みつつ新聞を読みながら、日の出の様子をうかがう。午前8時すぎに食卓の準備。日輪の陽射しがふりそそぐリビングで、お節とお雑煮と熱燗。

イスタンブールのナイトクラブでテロ事件が発生。サンタの格好をした者が銃を乱射したとの報道。

近所に立派な神社のある地域に引越したので、正月の散歩がてら参拝に。信心は皆無だけれど。外を歩くと快晴で、富士山の姿がくっきりと見える。

元旦の読書はPR誌から。『図書』(岩波書店)と『UP』(東京大学出版会)を読む。あと1月号の『新潮』(新潮社)も。以下は『新潮』掲載の水村美苗「「ナンパされた」話」より。

京都の祖父母の家に預けられた夏の最後はさらに暇を持て余していた。知人はいないし、祖父母は頭が旧かった。蚊に刺されるだけで、祖父母の後妻で、血のつながらない祖母から、「嫁入り前の娘が蚊に喰われるなんて何ですか」と訳のわからない小言を言われた。

夜、自宅シネマ。お正月にふさわしい楽しい映画を見ようと選んだのは『鴛鴦歌合戦』(マキノ正博/監督、1939年)。オペレッタ時代劇。鑑賞の途中、暖房の入れすぎで正月早々ブレーカーが落ちた。

Monday, January 2

昨年末に購入したイタリア版のアナログレコードで、グレン・グールドのゴルトベルク変奏曲(1981年録音)を聴きながら、『新潮』掲載の尾崎真理子「情熱か受難か 谷川俊太郎」を読む。

谷川と村上春樹の話が長くなってしまった。最後にもう一つだけ付け加えると、社交的とは言い難い両氏がかなり心を開いた相手が、共に河合隼雄というメンターだったことも、何かを表しているだろう。しかし、三人が同席したことはないし、谷川と村上は挨拶の機会も持たぬまま、互いの作品を読み合っている気配もない。

恵比寿にて。東京都写真美術館に向かう。正月のイベントとしてリニューアル以前に存在した「おめでとう写美クイズ」はなくなり、先着50名にオリジナルグッズをプレゼントする方式に変更になっていた。もらう気満々で臨んだら、開館時刻前にはすでに長蛇の列で、景品はもらえず。悔しい。悔しいので展示の鑑賞は後回しにして、1階にあるカフェ「masion ichi」に直行して軽めの昼食をとる。先着30名にもらえる焼き菓子を入手する。

「TOPコレクション 東京・TOKYO」「東京・TOKYO 日本の新進作家vol.13」「アピチャッポン・ウィーラセタクン 亡霊たち」を順繰りに見てまわる途中、雅楽演奏がはじまったので耳を傾ける。「しゃび雅楽」あらため「とっぷ雅楽」。

今年最初に読んだ本は、「或る國のこよみ」ではじまり「新年」で締め括られる片山廣子の随筆集、『新編 燈火節』(月曜社)。解説は梨木香歩。

Tuesday, January 3

トランプ次期アメリカ大統領の話題に関連して、ニューヨーク・タイムズ紙が社説で、そしてポール・クルーグマンが同紙のコラムで「crony capitalism」について言及している。日本語では「縁故資本主義」と訳される言葉。資本主義経済について語る欧米メディアの論説のなかで「crony capitalism」という言葉はしばしば見かけるものの、「縁故資本主義」という日本語表現はあまり見慣れない気がする。誰も使わない。もっとも、ビジネスを成功させるために政府官僚と癒着することを意味する「縁故資本主義」という言葉の定義を考えると、日本型資本主義においては癒着なんてあたりまえすぎて、あらたに語彙を創作する必要などない話かもしれない。

正月三が日の最終日はひたすら読書。

ロジェ・グルニエ『パリはわが町』(宮下志朗/訳、みすず書房)より。

市外といっても、ほんの少し出ただけの、メトロならばサン=マンデ駅、ヴァンセンヌのパリ大通りに、ごく短期間住んだことがある。小さな庭のついた一戸建ての家だった。屋根にのぼるのも簡単だったから、なにかというと屋根に上がりたがった。昔からの夢だったのだ。

保坂和志『試行錯誤に漂う』(みすず書房)より。

小説をたちまち解釈する人がいる。そういう人はけっこう多く、明晰だとか頭がいいとか思われているが、そんなことはない。小説が解釈されて、その解釈で足りるなら、小説はその言葉の連なりである必要はなく、解釈されたその言葉でいい。

保坂和志『地鳴き、小鳥みたいな』(講談社)より。鎌倉で育った保坂和志がサザンが好き、という話はあまりにふつうすぎて、やや意外な感じがした。

もうこれで外の猫も一匹だけになった。私はサザンオールスターズの一枚目と二枚目のアルバムを買った、一枚目と二枚目は学生時代だった、私はついに自分たちのバンドがあらわれたと興奮したのだった、二枚目のアルバムが出る前の二曲目のシングル〈気分しだいで責めないで〉が出たそれも買った、桑田佳祐本人は二枚目のアルバム全体が自分たちの意志に反してせっつかれて作らされたと言って嫌ってるそうだが私は特別だ、一枚目と二枚目は買いはしたが聴くには私は大量のものが押し寄せすぎる、手元にあるだけでいい、このアルバムは私がまさにその時代、あるいは時間を生きていた証のようなものだ、こういう言い方は下手な歌詞のようだったりするがそうなのだ。

夜、自宅シネマ。『ヴィヴィアン・マイヤーを探して』(2013年)を見る。死後に偶然発見されたアマチュア写真家ヴィヴィアン・マイヤーの謎を追うドキュメンタリー。一生独身で友人もなく、乳母という職種で食いつなぎながら、ヴィヴィアン・マイヤーはストリート写真を撮る。だが生前の彼女は、撮り溜めた写真を公表しなかった。彼女がなぜ自身の天稟を世に問わなかったのかは判然としない。謎は謎のまま、映画は終わる。映画からは世間的な名声こそが是だと考える発想が滲み出ていて違和感をおぼえたのだが、ヴィヴィアン・マイヤーが世俗的な成功を求めていたとは思えない。たとえ晩年はほとんどホームレスに近い生活を送っていたとしても。有名になるだとか、評価されるだとか、そんなものとは別のところに人生の軸を置く人も世の中にはいるのだ。ところで、映画のなかで美術界のお偉い方はヴィヴィアン・マイヤーを認めようとしないと嘆いているのだが、誰だか知らないけれども、そのお偉方たちが認めない理由がさっぱりわからない。以下のリンク先に彼女の写真がまとまっているが、これだけを見ても、認めない理由を探すほうが困難である。
http://www.vivianmaier.com/

Wednesday, January 4

研究者による批判的な注釈つきのヒトラー『我が闘争』が、ドイツで予想を超える売れゆきらしい。8万5000部が売れて増刷を予定しているらしいが、本の価格は58ユーロだというので学術書みたいなものだろうか。

渋谷のTSUTAYAに返却ついでに、イタリア・サルデーニャ料理の店「Tharros」で昼食をとる。

夜、年末からの読みさし本を消化する。平出隆『ベルリンの瞬間』(集英社)。

Thursday, January 5

本日から仕事始め。エリック・ホッファー『波止場日記 労働と思索』(田中淳/訳、みすず書房)を読む。

Friday, January 6

エコノミスト誌をiPadで。毎週たくさんの記事が載るエコノミスト誌を読むのに時間を取られるせいで、日本語の本の読書量が減っている。正確にはエコノミスト誌のせいというより、わたしの低い語学力のせいだが。

Saturday, January 7

七草粥を食べる。

代官山にて。雑貨店を少しまわってから、代官山ヒルサイドフォーラムで「Yohji Yamamoto / モード写真」展を見る。ヴィム・ヴェンダースが撮った映像に出てくる山本耀司の姿が、若い。

代官山から東横線で渋谷まで行って山手線に乗り換えるというルートは、渋谷駅での乗り換えが煩雑すぎてうんざりする。目指す先が渋谷ではなく山手線に乗るのが目的であれば、代官山から恵比寿まで歩いたほうが早い。

品川にて。キャノンギャラリーSで「操上和美写真展:ロンサム・デイ・ブルース」を見てから原美術館に移動。「篠山紀信 快楽の館」を見る。篠山紀信の仕事は一貫しているとは思うのだが、同時にこの写真家ほどつかみどころのない人もいない。「快楽の館」と銘打っているけど、篠山紀信の撮るヌードはエロティシズムを拒絶しているようなところがある。美術館の各所に据え付けられた裸体写真は、人体というより物体に見えてくる。ところで、驚いたのは動員の数で、原美術館にこんなに人がいるのをはじめて見た。篠山紀信の集客力。原美術館の常設展示をじっくりと見ている人がたくさんいたのも印象的で、ふだんの原美術館の展示は常連しか来ないので、常設はさっと流している人ばかりなのがいつもの光景。

夜、高輪の「AUX BACCHANALES」で早めの夕食。AUX BACCHANALESで食事をすると、注文するたびにバゲットがついてくるという、バゲット無間地獄を味わえる。

Sunday, January 8

エコノミスト誌の特集記事で、これからのコンピュータの進化の話として「声」をとりあげている。映画『2001年宇宙の旅』に出てくる「HAL 9000」みたいなもの。記事にあるように、コンピュータが人間の声を認識して対話できるようになれば、インターフェース自体が大きく変わることが予想される。キーボード入力という作業自体が意味を失う。しかし声に着目するのは英語圏の人間たちの発想だなあと思うのは、日本語の場合は英語と比較にならないほど同音異義語が大量にあるからだ。日本語のあの煩雑さをコンピュータが処理できるのか疑問に思うのだが、近年の人工知能の発達を考えるとそんな心配は杞憂に終わるのかもしれない。でも「HAL 9000」が身近にいたら嫌だな。

夜、自宅シネマ。ウディ・アレンのくだらない映画を二本。『ウディ・アレンのバナナ』(1971年)と『ウディ・アレンの誰でも知りたがっているくせにちょっと聞きにくいSEXのすべてについて教えましょう』(1972年)。