287

Monday, September 12

ニューヨーク・タイムズ紙のファッション欄を見たら、いつのまにやら2017春夏のプレタポルテがはじまっていた。ビル・カニンガムのいないファッション・ウィーク。

『みすず』9月号掲載の岡真理による連載を読んでいて、つぎのくだりにドン引きする。

小一時間ほどでデモは終着地点に到着し、流れ解散となった。小雪のちらつく灰色の空の下の灰色のオフィス街から地下に下りると、突然、無人のモノクロームの街並みに代わって、目の前は何千人もの色とりどりの人々で溢れかえった。世界の突然の変貌に、一瞬、何が起こったのか分からなかった。地下街は、正月セールのショッピングを楽しむ無数の家族連れで賑やかにごった返していた。のどかで、平和で、幸せな、新年の日常風景。それは、ガザで今、パレスチナ人の身に起きていることとはあまりにもかけ離れていた。
正月の余韻のなかで買い物にいそしむこれらの者たちは、おそらくガザという名を聞いたこともなければ、そこで今、パレスチナ人と呼ばれる者たちが逃げ場もなく閉じ込められて、ミサイルや砲弾で一方的に殺されていることも知らないのだと思った。当時、日本のマスメディアは、ガザに対するイスラエルの攻撃について報じてはいたものの、その報道の質も量も、出来事の重大さにまったく見合ったものではなかった。(p.61)

「おそらくガザという名を聞いたこともなければ」って。高度消費社会に安住する無知蒙昧な一般大衆と、パレスチナの悲劇に敏感で繊細な思考を有するじぶんたちとを対峙するような語り口は、エリート主義的な自己愛表現にしかみえない。岡真理の筆致が真摯であることは認めないこともないが、いまどきこんな大衆像を書かれても、と思う。

夜、夕食に秋刀魚を焼く。先週末に図書館で借りた『サッチャー回顧録 ダウニング街の日々』(石塚雅彦/訳、日本経済新聞社)を読みはじめる。

Tuesday, September 13

だんだんと朝晩涼しくなって、秋の気配。関東で朝と晩に地震。朝は会社で、晩は自宅で揺れを感知する。

おそらく虫刺されが原因で、手の甲が異様に腫れあがる。一ヶ月まるまる健康であった月が今年はあっただろうか。とりあえずムヒを塗る。ムヒで治るのか。

Wednesday, September 14

朝は土砂降りの雨。iPhoneをiOS 10にアップデートする。これまでのOSアップデートと同様に、新しい仕様に最初は慣れなくて使い勝手が悪くなったように感じるも、これまでのアップデートと同じく、操作性への慣れは時間が解決してくれるだろう。ところで、先日発売されたiPhone 7にはさして購買欲を刺激されず、世の中の動向としても個人的な感覚としても、スマホ以後を見据えるような雰囲気になってきた。

Thursday, September 15

Instagramにルーティンワークのごとく朝昼晩の食卓写真をあげているのだが、まちがえて前日の写真を今日のものとしてアップしてしまう。そのことに丸一日気づかず。いかに毎日さして代わり映えのしない食事の風景が展開されているかの証左でもある。

数年前に荻窪の古本屋「ささま書店」で購入したままいまだ未読状態の工藤幸雄訳『ブルーノ・シュルツ全集』(新潮社)に取り掛かる助走として、工藤幸雄の妻・工藤久代が書いたエッセイ『ワルシャワ貧乏日記』(文春文庫)を読んだ。

Friday, September 16

ブレイディみかこが夏の休暇にトルコのマルマリスを訪れたら、緊迫する情勢を伝える報道からすると拍子抜けするほど平穏な場所だったとして、つぎのように書いている。

こういうことは「ワールドニュース」ばかり見ていると往々にしてある。英国の国民投票でEU離脱が決まったときにも、何かもう英国では国中が混乱し、明日への不安で国民がパニックしているようなイメージがグローバルになった(はずの)メディアでは伝えられていたようだが、現地はけっこうふつうだった。みんないつも通り職場に行き、学校に行き、サンドウィッチ屋でランチを買い、仕事帰りにパブで酒を飲んでいた。「悲観にくれる国民たち」「再投票を求めて国会前に溢れて激怒する国民たち」などというのはほんの一部の人々にすぎず、そんな少数の人たちを「国民たち」と表現されても困るのだが、グローバル・メディアというものはそういう誇大広告みたいな報道をやりがちである。(『みすず』9月号、pp.52-53)

これはそのとおりだと思う一方で、逆もあるのではと思うのは、ブレイディみかこの『ヨーロッパ・コーリング 地べたからのポリティカル・レポート』(岩波書店)を読んでいると、イギリス労働党党首ジェレミー・コービンの登場によって左派が独特な高揚を見せているように感じてしまうから。『ヨーロッパ・コーリング』の読後感のノリで今週のエコノミスト誌を読むと、イギリス野党の機能不全をシニカルに論評していて、どっちだよ、となる。ブレイディみかこの報告もまた「一部」なのだと思って接したほうが、バランスはよいのかも。

本日は有給休暇。時折小雨に降られるなか、新宿と渋谷のレコード店をまわる。新宿も渋谷もお祭りの準備をしている。

十五夜は昨日で、満月は明日。その合間の今宵、美しい月が夜空に浮かんでいる。

Saturday, September 17

晴れ。長袖で外に出てしまったが半袖の陽気だった。

新宿西口店のスタバで読書。ストロベリー&ホワイトチョコレートフラペチーノを飲みながら、夏目漱石『文鳥・夢十夜』(新潮文庫)を読む。ひさしぶりに読んだ「夢十夜」は、最初の第一夜だけ記憶に残っていたものの、残りの九夜はすべて忘れていた。スターバックスの日本進出20周年を記念したコーヒー豆「1996ブレンド」を買う。

とんかつ屋「豚珍館」に向かう。新宿西口でとんかつのお店を検索したらヒットしたのがここで、人気店のようで混雑必至らしく、はじめから相席前提で席に案内される。ボリュームたっぷりで美味しかったけれど、ボリュームがありすぎて胃がもたれそう。店員が椀子蕎麦のようにごはんと豚汁を勧めてくる。会計を済ませて店を出たら行列。

大江戸線で新宿から大門へ。竹芝のGallery 916で川内倫子の個展「The rain of blessing」を見る。雰囲気写真などと揶揄されもした初期の「うたたね」や「花火」のころに較べると、技術的な洗練が進んで、いまではもうとても雰囲気では撮れない写真ばかりが並んでいる。かつて、川内倫子の写真を見て「わたしでも撮れる」と誤解した者は少なからず存在したと思うが、現在の川内倫子の写真を見て「わたしでも撮れる」と考える人は稀だろう。もっとも、川内倫子のそれこそ「雰囲気」は、初期から一貫してブレていないようにもみえる。

大門から浅草線で日本橋へ。日本橋高島屋で開催中の「こち亀展」に赴く。若い人も多少はいたが、会場はおもに中年男性で殷賑を極める。

東西線で日本橋から竹橋へ。東京国立近代美術館の「トーマス・ルフ展」を見る。トーマス・ルフが師のベルント・ベッヒャーから継承したものは「分類の思想」とでも呼ぶべきものだろう。その分類のやりかたはベッヒャーとは異なるけれども。初期の写真から、もはや画像ダウンロード&加工オタクにしかみえない近年の活動に至るまで、分類して呈示する、というスタンスは変わらない。写真のありかたそれ自体を問うトーマス・ルフの姿勢は、写真家というより現代美術家と定義したほうがしっくりくるが、現代美術としてみた場合、作品の主題はきわめて明晰でわかりやすい。誰でもわかる。わかりやすすぎて現代美術としてはやや物足りないようにも思うが。

夕方、日比谷公園のオクトーバーフェストに参戦。日比谷野音からのエレファントカシマシの演奏が漏れ聞こえてくるなかで、エルディンガーの白ビールを飲んで、ソーセージとザワークラウトを頬張る。

台所用品で必要なものがあったので銀座の東急ハンズで買いもの。ハンズ7階で「中古CD・レコード市」なる看板を見つけたので覗いてみると、フロアの一角にCDとレコードが並んでいる。が、誰もいない。レコードが流行っているという話は本当なのかと疑わしくなる。

Sunday, September 18

近所のコンビニで買った日経新聞を読んでからの朝食。日経の日曜版にある健康欄に必ず目をとおすのだが、毎週のようにいろんな病気が登場してたいへんである。健康であることが例外状態かと思えるほど、数々の病気を紹介してくる。そういえば、異様に腫れあがった手の甲は、ムヒを塗りつづけたら数日後には無事回復した。ムヒで治る。

曇天。どんよりとした雲が空を覆っているが、雨は降りそうで降らない。午前中、ソファに座ってハンマースホイの画集を二冊。

近所の大型スーパーまで買い物へ。この某スーパー、まるでカルチュア・コンビニエンス・クラブの事業かと勘違いするような店舗設計で、お酒と一緒に本が並んでいる。ワインと一緒にワインに関する書籍がずらりと並んでいたりする。それはよいのだが、今日棚を覗いたらそのなかにシャーウッド・アンダソンの『ワインズバーグ・オハイオ』(講談社学術文庫)が紛れ込んでいて、喧嘩を売っているのかと思った。海老名市立図書館ばりにクラッシュしている。